ついてないな、と達也は思った。
空は暗かったけれど、寮までは十分だ。走れば五、六分で着くだろう。雨はまだ落ちていないからと、置き傘を持たずに会社を出た。門を出て少し過ぎた頃、落 ちてきた雨は初めは小降りだったのに、すぐに本降りに変わった。会社へ戻るのも寮へ帰るのもあまり変わらない。走ったのに、体はびしょぬれになっていた。
タイミングなんてそんなものだ。あと五分早くても、五分遅くてもよかったのに、一番濡れるタイミングで会社を出てきてしまった。それも、実験に使っている 機器がフ リーズしてしまい、今からリセットして立ち上げるなら、今日はもう帰ろうと思ったからだ。寛樹は午後から出張へ行った。だから帰りはどうせ一人だ。たまに 一人でゆっくりしよう、そう思っていたのに水をさされた。
寮の部屋へ入ると、達也はそのままユニットバスへ飛び込んだ。衣類を脱ぎ捨てシャワー栓を回す。初めは水だったものが、段々と温かさを増していった。
頭から湯を浴びて、ふぅとため息をついた。
雨に打たれるのは不快なのに、シャワーから落ちてくる湯は心地良かった。


シャワーを浴びた後、洗濯室で濡れた衣服を洗って乾かし、一息ついてから食堂へ行った。いつもより早く会社を出たのに、結局いつもと同じ時間になってい た。
食堂に行くと、圭がいた。朝と違い寛樹がいつ帰ってくるか分からない。
――――わざわざ火種を作ることはない
そう思って達也は自嘲した。うぬぼれているな、と思 う。
そんなに混んでいるわけではなく、同期のやつもいなかった。離れて席に着いたほうがかえって不自然だと思った。
「隣あいてる?」
達也が声をかけると、驚いたような顔をして頷き箸を置いた圭は自分の椅子を少し脇へ寄せた。
「帰り、雨に降られただろう」
達也が声をかけると、圭は頷いた。自分が職場を出たとき、まだ圭は部屋にいた。
「ちょうど部屋を出ようとしたとき、雨音が聞こえてきて……」
ということは、あれからすぐ圭も帰ってきたということだ。
「今日は、村瀬さんは一緒じゃないんですか?」
不思議そうに、圭は食堂の入り口へ視線を向けた。
「ああ。あいつ今日出張だっていっていたから別行動」
すぐ帰ってくるかもしれない。どこへ何をしに行くかは聞いていなかった。出張の後、付き合いで飲んでくるかもしれない。明日が休みなわけじゃないから、そ れでもそこそこで切り上げてくるだろう。
はっとした顔をした圭は、すぐに顔を伏せ箸を持った。


「コーヒー入れますから、僕の部屋に来ませんか?」
階段で、じゃあ明日と達也が声をかけようとしたとき、圭が達也に視線を向け、言った。
「え……」
達也は、まさかそんな誘いをかけられるとは思っていなかった。
「手前みそですけど、僕が入れるコーヒーは美味しいってよく言われるんですよ」
圭が軽く笑う。
達也は断る理由を見つけられなかった。
「ん、じゃあ、少しだけ」
コーヒーを呼ばれただけだ。達也はそう自分に言い聞かせた。
コーヒー一杯飲むのにそんなに時間がかかるわけじゃない。急ぎの何かがあるわけでもなく、せっかく誘ってくれた圭の気持ちを反故に は したくなかった。
圭について部屋へ入ると中はきれいに片付けられていて、入ったばかりだからかあまり物は無かった。ベッドと机とクローゼットは部屋についているものだか ら、ものを置かない達也と部屋の感じは似ていた。
「すいません。ベッドに座っていてもらえますか?」
「あ、ああ」
圭は達也の返事を聞くと、小さなキッチンへ入った。水を出す音と、コンロに火をつける音が聞こえた。
「きれいにしているんだね」
寛樹の部屋は物がそのまま積まれている。机の上は本に占領されていた。圭の部屋の机には、ノートパソコンが一台置かれていた。
「まだ、何もないからそう見えるだけですよ」
キッチンから声がする。
カチャカチャと食器がかすれる音がして、しばらくすると、圭はキッチンからでてきた。
ベッドの脇にあるサイドテーブルの上にトレーを置き、マグカップを二つ取ると、達也に一つ渡す。ふわっと香ばしいコーヒーの香りが鼻を掠めた。
「いい香りだね」
達也が圭を見ると、圭が軽く笑う。
「飲んでみてください」
そう言うと、圭は達也の横に座り自分からカップに口をつけた。つられるように達也も口をつけた。一口飲んで、マイルドな苦味が口の中に広がった。いつも飲 んでいる自動販 売機の コーヒーとも、自分で作るインスタントのコーヒーとも違っていた。
「美味しいね、普通のインスタントじゃない?」
まさかこの短時間でドリップしたとも思えなかった。
「良かった」
圭が破顔する。
もう一口、口に含んで達也はやっぱり普通のコーヒーとは違うと思った。
「種明かしすると」
圭の声に、達也は圭を見た。
「コーヒーと紅茶のブレンドなんです」
「へぇ――――」
そういわれれば、微かに紅茶の香りがするような気がする。
「こういう味になるんだね」
達也は、もう一度口に含んだ。コーヒーの苦味が紅茶で包まれているような気がした。
「……本当に、付き合っている人いないんですか?」
少しの沈黙の後問い掛けられて、達也が圭を見ると、圭はマグカップに視線を落としていた。
「……いないよ」
圭が聞きたい意味での付き合っているやつはいない。
「村瀬さんは?」
なんでここで寛樹の名前がでてくるんだ、そう達也は思った。知られてる? 少しの不安が胸におこった。
「あいつは友達だよ。だいたい――――」
「よかった」
達也が続けようとした言葉を 圭の声に遮られた。
――――あいつは男だ、そう言いたかったのに、圭の言葉は制止にも思えた。
「斉藤――――」
「圭って呼んでください」
「それは……」
同期の連中は名前で呼んだりする。けれど、下のやつだからと名前で呼んだりしない。
「あなたには、圭って呼んで欲しいんだ」
言いながら圭は顔を向けてきた。圭の瞳は小さく震えていた。
言葉を失ったまま、達也は圭を見つめていた。今の言葉をどう取ればいいのだろう。そう思いながら、分かっているんだろ、そう囁く声がある。
最初から好意をもっているととれた。それを深いものだとは思わなかった、思いたくなかった。だいたい初めて言葉を交わしてから、一ヶ月と少ししか経ってい ない。
「そんな顔しないで。僕はずっとあなたに憧れてた」
「でも――――」
ずっと、と言われるほどの付き合いはない。
「写真なんかより、ずっときれいだ」
圭はサイドテーブルにカップを置き、その手を伸ばすと、達也の頬にそっと触れた。

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