屋上には誰もいなかった。
少し強い風が髪をなびかせる。それは緑の匂いがする心地よい風ではあった。
寛樹は物陰をチェックしながら、タンクの後ろを親指で示す。達也は頷くと、寛樹の示したところへ向かった。少し狭いけれど、バーがあるから、もたれかかれ る。
「誰もいないよ」
一通り見たのだろう、それでも寛樹は、後ろを気にしながら言った。
「ん」
昼休みに屋上に来るやつを知らない。何をするにしても、それに適した場所が他にある。
寛樹とは昨日の夜も共に過ごした。たぶん、今夜も来るだろう。それでも、不安らしい。
背中に腕を回されて唇をふさがれると、ズボンからシャツを引き抜いて、差し込まれた手が背中に触れる。啄ばむように触れていた唇が深く合わされて、舌が 口内をかき回し、手は背中を優しく撫でまわす。
「ん……」
押されてタンクを支えるバーに腰があたった。支えられる分、かえってその方が楽だった。来た時に誰もいないと確認しておけば、誰かが来たときにはドアの音 で分 かる。金属製の厚いドアは、どうしても音が響いた。
会議室やトイレよりも安全だった。高い空を進む飛行機に見えるはずもなく、周りにここより高い建物はない。見られるとすれば、空を切るように飛ぶツ バメだけ だった。
「お前の肌ってどうしてこんなに気持ちいいんだろ……」
寛樹が呟く。
「誰にも渡さないからな」
首筋に顔をうずめ、寛樹が抱きこんでくる。
「ん」
達也に異存はない。自分がそれほど思ってもらえる価値があるのかどうかは分からない。ただ、寛樹の腕の中にいるときが一番安らぐのは確かだった。
肌を寄せていて飽きることはない。そんなに長い時間が経ったとは思わないのに、予鈴が聞こえてきた。


ベッドの中で寛樹はまだ寝ていた。達也は目覚ましを三十分後にセットすると、朝食を取るために部屋を出た。
『そんなに早く会社に行ってどうするんだ』と寛樹はよく言う。特に理由があるわけじゃない。なんとなく、余裕を持っていたいだけだった。
食堂に入ると、ふっと顔を上げたやつと視線があった。そいつは口元を緩め、軽く笑う。ちょうど穴場の時間で、食堂には五、六人しかいない。複数の勤務先の 社員がいるから、自然と利用する人数はばらけた。
徒歩で通える達也たちとは違う電車通勤組はもう食事を済ませた後だ。朝の十分、十五分は大きい。
達也は朝食ののったトレーを持って、圭の隣に座った。
「いつも、早いね」
同じ会社に通うやつで、この時間会うのは圭だけだ。
「早く、目が覚めちゃって……まだ緊張しているのかな」
そう言いながら、圭は手を頭へ持っていく。そんな癖は特別なわけじゃない。けれど、圭だからひっかかる。
圭が配属されてから、一ヶ月が経った。暖かくなってきた気温は湿り気の帯びた空気になり、時に不快感を感じる。節電が叫ばれる昨今冷暖房は抑え目 で外よりは過ごしやすくても、季節が変わっていくことは感じられる。
食事を終えて部屋へ戻ると、寛樹は起きていた。指でくいくいと呼ばれて、達也がベッドまで行き縁に腰掛けると、腕を回され、唇を軽く重ねられる。啄ばむよ うに触れると、唇はすぐに離れた。
「もう、行くのか?」
寛樹が不満そうに言う。
「ああ」
達也は寛樹にキスを返すと、立ち上がった。用意をして、すぐ出るつもりだった。
「そんなに早く行ってどうするんだよ」
それは、寛樹のいつもの文句だ。
「せわしいのが嫌なだけだよ」
答えもいつもと変わらない。
キッチンで歯を磨くと、達也はクロゼットの前に立った。どうせ会社に行ったら作業服に着替えるのだから、スーツはいらない。スーツを着るのは出張の時だけ だった。
「ゆっくり歩いたって会社に着いてから三十分以上あるだろ」
ゆっくり歩いても、もう少し時間がある。
「すぐに、過ぎちゃうよ。それくらい」
ことに、最近は。
「俺は五分でも長いけどな」
「寛樹はゆっくりすればいいよ」
あわせる必要はない。
着替え終わると、達也は振り向いて寛樹に笑いかけた。
「鍵だけは閉めていって」
「ああ」
返事をすると、寛樹はベッドの中へもぐりこんだ。
それを見ながら、達也は机の上に置いてある鞄を持って部屋を出た。
階段を下りると、まるで示し合わせたように圭が壁の影から姿をあらわした。
「あ……」
あまりにタイミングが良すぎて、思わず声がでた。圭も驚いた顔をして、立ち止まってしまっていた。
「……おはようございます」
驚いた顔のまま、圭が口にする。
「あ、うん。おはよう」
玄関で会うとか、圭が後ろから追いかけてくるとか、会社の更衣室で会うとか、色々なパターンがあっても、ここまでタイミングがあうことは無かった。
こんなところを寛樹に見られたら、朝も離してくれなくなるのかもしれないと思う。圭が来た頃の寛樹は傍目から見ても分かるんじゃないかと思うほど、ぴりぴ りしていた。
最近やっと落ち着いてきた、と思う。
されるばかりではなくて、達也は自分からもキスをするようにした。そうすると、寛樹は安心するようだった。恋人ではないから、言葉では伝えない。伝える言 葉もない。けれど、必要だと思うから、態度で伝える。肌を重ねるのは寛樹がいいのだと、少しの演技もする。以前は、もっと簡単に理性を手放してしまったよ うな気がした。ただ夢中になっていたと思う。それが、下に圭がいると思うと、どこかが覚めていた。あんまりベッドを揺らしちゃまずいかな、とか、声を出し ちゃまずい、とか、それまではそれほど考えたことも無かった。そんなことを考えていることを寛樹に知られたくなくて、感じている振りもした。自分からも求 めた。
「こんなこともあるんですね」
圭が目を細めた。
「そうだね」
達也は言いながら足を前に出した。寛樹がもうすぐ起きてくるだろうから、それまでには寮をでたかった。
圭と過ごす時間は、他愛もない話をするくらいで、仕事のことや会社のことを聞かれたり、大学のことを話したり。共通に知っている人もいて、そんなときは話 が盛り上がった。
昼は寛樹がいて、帰りは寛樹と時間を合わせることが多かった。圭と二人で過ごすことができるのは朝だけだった。更衣室で着替えると、自動販売機で飲み物を 買って職場へ行く。そういうルートが自然にできた。
ただ話をしているだけだ。そうやって、達也は自分に言い訳をした。見ているのも圭じゃない。遠い面影を追っている。寛樹を裏切っているわけじゃない。
「すぐにも雨が落ちてきそうですね」
寮の外へ出ると、達也が空を見上げて言った。
「そうだね」
暗い空を見て、相槌をうつ。
西から梅雨に入ってきていた。雨が降ったら入梅するだろう。
「梅雨はいやだなあ」
圭がぼそっと呟く。
「まあ、でも、ないと困るもんだよ」
「そうですね」
返してくる言葉はすごく素直なものだ。自分には素直だったゆうたろうが重なる。
特別なことじゃない。ただ新しく入った職場の先輩だから、従っているだけだろう。そう頭では理解するのに、感情では違う。
――――なぜこんなに重なるのだろう
達也には圭の全てがゆうたろうに繋がるように思えた。

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