達也が職場のドアを開けたとき、部屋には先客がいた。
職場へ来るのは、いつもは達也が一番早い。先客は、窓際に立って外を眺めていて、ドアが開いた音で振り返った。
「あ、おはようございます」
軽く頭を下げる。
「おはよう。早いんだね」
話をするのは初めてだった。
「なんだか、落ち着かなくて」
笑いながら、頭へ手をやる。その姿が遠い記憶と重なった。照れるときに頭に手をやる、それは、たぶん本人も気づいていない癖だった。
「斉藤くん、だったよね」
絶対間違えていないのは分かっているのに、達也は不確かな振りをした。気にしていることを知られたくなかった。
「小柴さん、覚えていてくれたんですか?」
――――え?
達也は一瞬心臓が止まった。
「なんで、俺のこと……」
ネームタグはポケットの中だ。
「僕、ゼミが笹教授なんです。小柴さんのことよく話題になって写真も見せてもらっていたりしたから、すぐわかりました」
「……そうなんだ」
ほっとする気持ちとともにがっかりする気持ちもあった。
大学が同じであることは知っていた。学部も。まさか、ゼミまで同じだとは思わなかった。
「なんか怖いな。なんだって言われていた?」
知らないところで、誰かがうわさをする。それは自然なことであっても、あまり歓迎したくはない。
「小柴さんの周りはすごく、華やかだったとか……」
――え?
達也は体がぴくっと震えた。あまり思い出したくないことだ。大学時代は確かに遊んでいた。付き合った女の数は覚えていないし、顔だって覚えていない子もい る。 ひっぱ たかれたこともあれば、罵声をあびせられたこともある。別にだましたつもりも、何股もかけたつもりはない。ただ、本気にはなれなかった。
「ずいぶん、誇張されてんじゃないの?」
うわさ話なんてそんなものだろう。
「さあ、それは……今はいるんですか? 付き合っている人」
そんなこと答える必要ないだろと思いながら、大学時代を知っていると言われると、そんな先入観で見られたくなかった。
「今はいないよ。入社してから、そっち方面は全然なし。仕事一筋だからね」
冗談を含めたつもりで言った。確かに、大学時代とは違う。入社して二年間は男も女もグループで遊びに行くことはあっても、個人的な付き合いは持っていな かった。
寛樹の自棄酒にたまたま付き合うはめになって、今は寛樹と付き合っているけれど、あの時、寮の廊下で寛樹に会わなければ、それも無かったんじゃないか、と 思う。
寛樹だから続いている。寛樹は全てのわがままを受け入れてくれる。

「そうなんですか……」
圭は意外そうな顔をした。初対面でそんな顔をされるなんて、どんな話を聞いていたのだろう、と達也は少し不安になった。
冗談のつもりが、真剣に取られたようで、話がぷつんと途切れてしまった。沈黙は冷たい空気をまとう。
「……どうだった? 研修」
静まった空気をとりあえず切りたくて、一番差し障りがないだろうと思う話題を達也は出した。
「講義とか見学の類が主だったので、まだ学生気分が抜けきらない感じで……これからご指導お願いします」
軽く頭を下げられて、戸惑いながらも達也は圭の肩へ手をかけた。達也の後、部屋に新人は入っていなかった。初めて先輩の立場になった。
「そんなに、硬くなることないよ。ここは、のんびりしたところだから」
場所が郊外だからか、あくせくした雰囲気はなかった。研究所だから、売上がどうのというノルマもない。
顔をあげた圭が軽く笑った。
「良かった、小柴さんが同じ部屋で。同じ大学の先輩がいると思うと、少し気が楽です」
「そう?」
そういうものなのだろうか、と達也は思った。自分にそういう人はいなかったけれど、特に緊張したという記憶もない。ただ、あまり覚えていることもないか ら、忘れただけ なのかもしれない。
近くで見て、やっぱり似ている、と思った。圭の瞳は透き通るようにきれいだった。



昼の食堂はだいたい座るところが決まっている。それが変わるのは新入社員が入るときだ。
「あそこにしようか」
達也は圭を視線で促した。初めはどうしても、部屋の上のやつが新入社員の世話を焼くことになる。慣れてきたら、自然にそれは変わっていく。
一番年が近いことと、出身大学が同じこともあるのだろう、グループは違うけれど、面倒を見てやってくれと達也は圭の上司から言われた。
一度来て食堂のシステムは分かっているから、特に何も教えることはない。さっとあたりを見て、場所が広く空いているところを示しただけだった。
横に並んで席につき、少しすると圭を呼ぶ声がした。圭と並んで壇上に立っていたやつが、圭に隣は空いているかと訊いていた。
同期のやつを見つければ、そっちの方が気安いから、そっちへ流れていく。そうやって、席も決まっていく。
ふと気が付くと、向かいに寛樹が立っていて、不満げに腰を下ろした。いつもは隣に座る。そのほうが、話している声が他へ聞こえづらい。
「昼休み、どうやって過ごしているんですか?」
箸を休めるように置くと、圭が声をかけてきた。
「色々だよ。すぐ職場に戻るやつもいるし、ここの入り口にある自販機で飲み物を買ってきてここに残っているやつもいるし、テニスコートがあるからそこでテ ニスするやつもい るし、私用で外へ行くやつもいるし……」
「小柴さんは?」
「ん……色々」
訊かれて、困ることもある。大体は寛樹といる。
「圭、テニスコート見てこようぜ」
圭の隣のやつが声を出した。
「そうしなよ。外も気持ち良いよ」
寛樹の無言の圧力を感じて、達也は促す言葉を出した。
「……良かったら、小柴も行きませんか? まだ、よく分からない――――」
「達也、昼、付き合ってくれるんだろ」
圭の言葉を遮るように、寛樹の声が聞こえた。突然の声に驚いたように圭は寛樹を見た。
「あ、ああ。ごめん、そういうわけだから」
達也は寛樹に向かって相槌を返すと、圭に向かって謝った。
「……そうですか」
圭が一瞬残念そうな顔をした。その顔に達也の胸がちくっと疼いた。
「部活動って結構盛んなんですか?」
圭の隣のやつが身を乗り出してくる。見るからに運動系だなと達也は思った。
「あ、うん。テニスとかスキーとか、あと写真とかも好きなやつが集まって撮影会とかやってるみたいだし、卓球台も講堂にあるよ、マラソンやってるやつもい るし、人を集められれば新しいこともできるよ」
実業団で全国を狙うほどではなくても、活動はしていたりする。そこそこ人が集まれば、会社も少しばかりの活動費を出してくれる。
「そうなんだ」
でも、会社は仕事をしに来るところだぞ。そう呟くのは心の中だけにしておいた。楽しみがあった方が仕事もはかどる。会社が活動費を出してくれるのも、そう 思うからだろう。

圭の隣のやつは、さっさと食べ終わると圭を急かして席をたっていった。圭は席を立ってから、一度振り返ると軽く頭を下げて先に行くやつの後に付いて行っ た。
すかさず、寛樹が隣に移動してくる。
「なんであいつと一緒なんだよ」
寛樹が小さな声で不満を言った。
「頼まれたんだから、仕方ないだろ。後輩だし」
「あいつ、ばりばりで気があるんじゃないの?」
寛樹は圭が行った方向に一度視線を走らせると、不服げに顔をゆがめた。
「そんなことないよ」
その言葉には希望も含まれていた。
満足していた日常に影が差す。面影を追いかけているのは分かっていた。圭を通してその先を見ている。まだ幼かった顔立ちを思い出す。
「お前は?」
「俺は――――ただ、懐かしいだけだよ」
笑った顔、不機嫌な顔、照れた顔や、悲しそうな顔、全部脳裏に思い描くことができる。
「じゃあ、その証拠を見せてもらおうか」
寛樹が席を立った。

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