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遠 い 記 憶


唇が肌を這う。
いつもならもうすでに快楽の中へ落ちているのに、ひとつの気がかりが落ちていくことを留める。達也はぼんやりとした意識のままされるがまま、ベッドに体を 横たえていた。
「どうしたんだよ」
唇が離れたと思ったら、不満げな声が聞こえた。体を重ねる寛樹にいつもとは違うことを悟られたらしい。
「ん……今日見学があって」
達也が言いかけると、寛樹が体を上に伸ばしてきて、向かい合う。
「学生か?」
寛樹が訝しげな声を出す。
「ああ、その中に、んっ……」
耳を甘噛みされて、達也は体が強張った。
「まさか、好みのやつがいたっていうんじゃないよな」
寛樹が耳元で囁き、一瞬強く耳たぶを噛む。
「っ……」
痺れがじわっと広がり、達也が思わず手を耳へ持っていこうとしたら、寛樹に取り上げられて、寛樹が唇で啄ばむように触れてくる。
「……友達の弟に似たやつがいただけだよ」
それだけだった。
もう五年以上会っていない。ただ面影を見ただけなのに、そいつの顔が脳裏にはっきり刻まれていた。
「それだけか?」
「それだけだよ」
正直、それだけだった。
「お前まで若いやつがいいなんて言うなよ」
寛樹が愚痴るように言った。
自分だって若い部類に入るだろうに、そう達也は思った。同期入社で、今年お互いに24歳になった。寛樹は前の相手を高校生に寝取られた、と言っていた。だ からだろう、若いやつを毛嫌いする。
「……相手、まだ高校生なんだろ。いいのか?」
最近は色々厳しい。見つかったら、自由恋愛では済まない時もある。
「さあね。でも、おったてて突っ込んでいるのが高校生だぜ。どうなんだろうな。そういう場合」
寛樹が投げやりに言う。
「……そんな即物的な言い方するなよ」
男同士だからと言っても。
「即物的なのがいいんじゃないの?」
寛樹は達也の下腹部へ手を伸ばすと、きゅっと達也のものを握った。
「やめろよ!」
達也は寛樹の手を払いのけると、体を捻って、寛樹へ背を向けた。
「なに、ロマンティックなのがいいのか? 愛の言葉でも囁けって?」
愛の言葉?
好きなんだ――――遠い記憶が達也の脳裏に蘇る。
「……俺たちはそんな関係じゃないだろ?」
達也はかぶりを振った。
体を満たすだけの関係のはずだ。
「そうお前が望んだからだろ?」
「そうだよ。それが嫌なら、俺はおりるよ」
「分かってるさ……そんなにすねるなよ」
寛樹が後ろから回してきた手で、達也の胸の突起を摘む。
「やめろよ」
剥がそうと思った手は捕まえられてしまった。寛樹は弄ぶように、摘んだ突起を手の中で転がす。刺激されて、すぐに硬くなるそこは更に敏感になる。
「体の方が正直だな」
「っ……」
言葉は喉元で消えて、息だけが口から出る。
「ほら、こっちも」
掴んでいた達也の手を離すと、下腹部へ手を滑らせる。
「くっ……」
抵抗するほどの力が体には無かった。
言葉にだして安心してしまったのか直接刺激されて意識は落ちていく。それはいとも簡単に。



食堂の窓から見える桜は満開だった。食堂の入り口にある自動販売機の前で、達也は手に紙コップを持ったまま、ぼんやり桜を眺めていた。
「達也」
掛けられた声に振り向くと、寛樹がこちらへ歩いてくる。プライベートでは下ろしている前髪を会社では上にあげている。髪型だけなのに、雰囲気まで変わる。 ベッドの上で見せる柔らかさはなく、精悍さが目をひく。
「何?」
「新入社員、人事に居たぜ。見た?」
「いや」
かぶりを振ると、達也は手に持っていた紙コップを口元へ持っていき、一口飲んだ。もう冷えているコーヒーは口の中に苦味だけを残した。
「今年は粒ぞろいだ」
「そう」
気の無いふりをした。
「浮気するなよ」
寛樹が耳元で囁く。ムースの甘い香りが鼻を掠めた。
「するわけないだろ」
わがままな自分に合わせてくれる寛樹に達也は満足こそすれ、不満はなかった。寛樹が望めば身を引く用意はしている。けれど、自分から離れることは考えられ ない。
予鈴が聞こえて、達也は残りのコーヒーを飲み干すと、紙コップをぐしゃりと潰し、ごみ箱へ落とした。


「斉藤圭です」
講堂の壇上で挨拶する新入社員に、達也は体が固まった。耳の中で何度も名前が繰り返される。
「気になるのか?」
隣に座っていた寛樹が不満そうな声を出した。
「いや……」
「じゃあ、なんなんだよ。身を乗り出して、凝視しているってのはさ」
え?
そんなつもりは無かったのに、寛樹が言った通りであることに達也は驚いた。
「……あいつ、なんだ」
疚しいことがあるわけじゃない。正直に言えばいい。嘘をつけば後が苦しくなる。
壇上に立っているのは、人の顔を覚えることが苦手な達也がひと目で覚えてしまった顔だった。
「え?」
「友達の弟に似たやつ」
秋にちらっと見ただけだった。けれど、間違いないと思う。
「へえ……案外本人じゃないの?」
寛樹は圭へ視線を向けた。
そうであることを心の奥底では願っていたかもしれない。今、落胆している自分がいる。
「違う。名前が違うから、違う」
ゆうたろう――――そう呼ばれていた。
最後に会ったのは、駅のホームだった。泣きじゃくるやつの頭をなでてやることしかできなかった。
『お前も、がんばれよ』
そう言って別れてから、七年が経つ。あの時、ゆうたろうは、中学三年だった。
まだ忘れていなかったのだと、達也は思った。
そう、あの時から、まだ圭が学生で見学に来たときから気になってはいた。もしかしたらという気持ちだけを持ちつづけていた。だからと言って、本当に本人 だった ら、きっと困るのだろう。どうしたらいいのか分からない。
違って良かったんだ。達也は少しの寂しさとともにそう思った。
だいたい、面影があるだけで、印象はかなり違う。ゆうたろうは小さくて華奢で可愛くて。つい頭をなでてやりたくなる保護欲を刺激するタイプだった。けれ ど、壇上立つやつは、並んだ新人の中でも身長は高い方で、太っているわけでないが、華奢なわけでもなく、守ってやりたいと思うような印象はない。
体がまだできていない七年はどれだけ人を変えるかわからない。そのままの印象をもっているとは限らない。
けれど。
名前が違うことはどうしようもない。
「そんなに、気になるのか?」
寛樹が体を傾けてきて、耳元で囁く。
「……驚いただけだよ」
違ったのだから何も取り繕うことはない。記憶の奥へ沈めたことだ。
「そんな風には見えないけどな」
疑うように、寛樹が目を細める。
「仲間だったんだ」
「え?」
「お互い出来た兄貴をもっていて。だから比べられて辛いこともあって」
「お前、兄貴いたの? そんな話したことないよな」
「ん……三十そこそこで大学の助教授なんてやつの話聞いたって面白くないだろ」
「へえ――――……そりゃすごいな」
寛樹がため息まじりの声を出す。
「俺の兄貴は勉強だけだったからまだしも、あいつの兄貴……友達なんだけど、何でもできるやつでさ。いるじゃん。小学生の時から何やってもできるやつっ て。テストは全部100点で運動会ではリレーの選手みたいなやつがさ。そういうやつだったんだ」
おまけに容姿まで整っていて、世界中の運をすべて集めてきたんじゃないか。そう思えるようなやつだった。
「何もしないで、何でもできるやつなんかいないだろ」
「集中力っていうの? 授業だけで全部頭に入っちゃうって感じかな」
必死に勉強している姿を見たことはない。それでも、ダントツのトップだった。
「そんなやつが、ただのオトモダチだったわけか?」
寛樹の声に棘があった。
「……そうだよ、友達だった。高校を卒業してから一度も会っていない。手紙の一本、電話の一本もないし、こちらからもしていない」
そう決めたわけじゃない。今思えばそうだったと思うだけだ。同窓会には出なかった。それだけは故意だった。
「質問の意味分かっているんだろ?」
「だから答えてるだろ。友達だったんだ」
「俺は、そいつがお前の最初の相手か? って聞いてるんだぞ」
寛樹が声を潜めて、耳打ちする。
ざわざわと話し声が周りから聞こえてきて、ガタガタと席を立つ音がした。ふと見た壇上には、もう誰もいなかった。
「もう、昔の話だよ」
言いながら、達也は席を立った。
「それじゃ、答えになってないだろ」
「そう思いたかったら、思っていいよ」
寛樹の返事は聞かずに、達也は出口へ向かう人の波に紛れた。
いわゆる一流企業といわれるところではあれ、全所員三百人程度の場末の研究所だ。新入社員も大卒は五名で院卒が二名、そのうち男は四人で女が三人だった。 そんな中にいる確率ははるかに少ないはずだ。
それでも、まだ諦めの悪い細胞がぐずぐず言う。似ていると思った自分の感覚をどこかで信じたいと思っている。
――――名前が違うだろ
そう言い聞かせると、表向きのぐずぐずは静まった。そうやって、心の奥には、もやもやした霧が溜まっていく。捌け口がないまま、消えていくのを待つことし かできない霧が……。


新入社員は一週間居ただけで、研修のため本社へ行った。
その間、何も無かった。それは、当たり前のことといえばそうだ。数回姿を見かけ、一度は研究室まで見学に来た。けれど、それだけだった。視線が合ったこと も、言葉を交わしたこともなかった。
何か社内がそわそわしているような一週間が過ぎ、それはまるで夢だったかのようにすべては元に戻った。


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