空は青かった。
「じゃあ、行ってくるよ。なるべく早く帰ってくるから」
木戸を開けて、アレシオが振り返る。
「はい」
シリスは微笑みながら、頭を少し傾げた。
背を向けたアレシオが、一瞬立ち止まって、また振り返った。
「リューシュは、まだ来るのか?」
アレシオは五歳になった自分の息子の名前を出した。
「木の上にいらっしゃるのをお見かけして声をおかけしました。お父様に怒られたと口を尖らせておいででした」
アレシオと同じ髪の色と瞳の色をもつ、つんとした表情が浮かぶ。
「ライバルは自分の子になるのかな?」
アレシオは不安げな声を出した。
「逆ですよ。リューシュさまはあなたに愛されたいのです。どうしたらあなたに愛されるのか、リューシュが私に尋ねるのはいつもそのようなことです。もう少 し、リューシュさまと遊んでさしあげてください」
いいなあ、シリスはきれいな髪をしていて。リューシュはいつも恨めしそうに髪を触ってきた。
どうしたら、お父様は僕を愛してくれるんだろう。つまらなそうに口を尖らせる。
どうしたら、そう言うリューシュの視線の先にあるのはアレシオの姿だった。
「そうか……」
安堵したような、それでもまだ不安のような複雑な声をアレシオは出した。
「あなたが思うより、あなたを愛している方は多いですよ。クレアさまも……」
「クレアは……」
言葉尻を取ったくせに、アレシオは口を噤んだ。同性を愛することをよく思わない人もいる。
「初めからそうだったとお思いですか? 苦しい胸の内を癒して差し上げていたのがアリアです」
「それは……僕を責めているの? 」
アレシオが眉を寄せた。
「いいえ」
シリスは頭をふった。
自分は幸せだと思う。それを忘れてはいけない。
アレシオがふっと笑った。
「今日はいい天気だね」
空を見上げる。
空には雲ひとつない青空が広がっていた。
「いいえ、お昼すぎには一雨きます。激しい雨は一時間ほどで収まりますから、雨音が聞こえたら動かない方が賢明です」
「分かったよ」
「それから、パリスさまに、南からの風に気をつけてくださいとお伝えください」
「うん。分かった」
アレシオが頷く。

シリスは自分の力が戻ってきたことを感謝せずにはいられなかった。
木戸を出て姿が見えなくなるまでアレシオを見送り空を見上げると、高い空を鷹が気持ちよさそうに飛んでいた。


あの日から五年が経った。
アレシオは身を池に沈めると言った。自分は構わない。けれど、アレシオは王となるのだから、決して道連れにしてはいけない人だった。
アレシオに思いとどまらせる方法はただひとつ、自分が力を取り戻すことだった。
それは、諦めていたことだった。アレシオの気をすべて消すくらいならいらないと思った力だった。けれど、アレシオを助けるためにはそれしか方法がないと 思った時、風が変わった。それは唐突に。
けれど、ほんの一瞬感じたと思った風はすぐに、また心地よいだけのものに変わった。
そんな不安定なものを力とは呼べない。
どうしたらアレシオを助けられる?
飲まされた薬が効く前に。
意識があるうちに。
人が近づいてくる気配を感じた時、方法はあったとシリスは思った。アレシオを助けられるのなら、自分はどうなってもいいと思った。

見つかってからしばらくはアレシオと引き離された。それは当然のことだと思った。アレシオはずいぶん抗議をしてくれたようだったけれど、それが聞き入れら れることはなかった。
そして、自分はもうこの世にいない存在だと思われていると思っていたのは違っていた。
王はすべてを知っていた。
ハービィもヒューもパリスも、森で見つかったものは別人だとわかっていたらしい。
ただ、それを誰も口外することはなかった。知らないふりをして見守っていてくれたのだと思うと、言葉が無かった。
森に入ったことでさえ知っていたのは数人で、公には勉強のため国内を旅していることになっていたらしい。
「何か感じるようになったか? 」
ヒューに訊かれ
「感じるときもあります」
とだけシリスは答えた。
一回だけ、ほんの一瞬感じただけだとは言えなかった。
わずかな時間、話を聞かれただけで、シリスはバートンのもとへ送られた。
今まではアレシオが傍にいなければ、じりじりする気持ちを抱えていたのに、不思議と気持ちは落ち着いていた。理由は後で分かった。アレシオに飲まされた 薬。それは、強い精神安定剤だとバートンから聞いた。強い薬だから、多用も常用もできないという。薬に依存することは危険だから、強くならなければいけな いとバートンに言われた。
アレシオを本当に守りたいと思うなら、強くならなければいけない。
自分を消すことは決して解決の道ではない。悲しむ人はすぐ近くにいる。
もう諦めない。もうアレシオを悲しませたりしない。もう自分に負けない。
シリスはそう決めた。
少しづつ、体は風を感じはじめた。空が話し掛けてくれるようになった。木々が囁きかけてくれるようになった。加えて、人の心の声も聞けるようになった。

先日海外の貿易商が王宮を訪ねてきた。
王まで乗り気になった話に、シリスは危険信号を読み取った。
人の心を読めることを知られたくはなかった。けれど、見過ごすこともできなかった。
アレシオにすべてを話して、事なきを得た。
「すべて分かるの? 」
アレシオが不思議そうに聞いた。
「すべてではありません。強く思っていることを」
一番大切だと思うこと、大切だと思う人のこと、今したいこと。
「じゃあ、僕が今思っていることは? 」
アレシオが訊くから、シリスはアレシオの唇に触れた。
「簡単すぎたね」
アレシオは笑った。
「怖くありませんか? 」
人に心を見られてしまうことは、自分なら嫌だとシリスは思う。
「いいよ。シリスになら」
手が優しく髪を撫でる。
この人には敵わない。シリスはそう思った。そう何度思ったことだろう。知るごとに惹かれていくばかりだった。

今、シリスは自分を癒してくれた池のほとりに小さい宮を建ててもらい、アレシオと二人で暮らしていた。時折マーシャが来てくれるけれど、何もかも自分達で やることにはしている。
アレシオに王位を継ぐつもりはないようだった。今、新しい国のあり方を考えている。急にすべてを変えることは無理だとしても、新しく変わっていこうと思わ なければ何も変わらない。

木の匂いを風が運んでくる。
湿った風は、近いうちに雨がくることを教えてくれた。
木の匂いは、草が木が生気に満ちていることを教えてくれる。
見上げた高く青い空は空気が澄んでいることを教えてくれる。

そして、アレシオはいつでも、どこからでも、愛している、と心に囁きかけてくれた。



Fin.





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