ベッドの中で一人シリスは震えていた。
誰も教えてくれなくても、アレシオが口にしなくても、その日が来たことは分かっていた。
アレシオが愛してくれているのは自分だよ、そう言い聞かせても、体は言うことを聞かない。体中の血が逆流しているような気がする。体がぞわぞわしてじっと
していることができなくて、呼吸が苦しくて、顔は自然に歪んでしまう。誰か自分を捕まえていて欲しい、そう思っても誰もいない。せめて、心休まるところへ
行きたいと思っても、警備がいつもより厳重になっているらしい。いつもより多くの人の気を感じた。
待っていれば、アレシオは自分のところへ帰ってくる。
同じ日に生まれた宿命を持っていても、自分にアレシオの子供を産むことはできないから、だから、アレシオは自分の役目を果たすために、クレアのところへ
行ったの過ぎない。
自分の役目を果たして自由になるために。
どこまでも一緒に。
一緒にいこう、シリス。
口には出さなくても、アレシオの心がいつも語りかけてくれた。
そのためには、アレシオは自分の役目を果たさなければいけなかった。それは誰にも責められない。誰にも止めることはできない。
分かっているのに、アレシオが自分ではない誰かを抱くことを体は嫌がっていた。
アレシオの気が伝わってくる。
――――いやだっ!
シリスは心の中で叫んだ。
いやだよ! やめて――――
他の誰かに感じないで欲しい。自分だけのものであって欲しい。
アレシオは自分だけのものだ。
いやだっ――――
体中の血液が沸騰してしまったようになって、感情が体を支配していく。残っている理性が押し留めようとするのに、聞いてはくれない。
いやだ、いやだっ!
シリスはベッドから飛び上がると、棚に置いてあった籠から果物ナイフを手に持った。ナイフの取ってを握り締めて、ナイフを握り締めている自分の手を見て
唇を噛んだ。
自分は何をしようとしているんだろうと思う。このナイフで誰を刺そうとしているのか、それを思うと自分が恐ろしくなってくる。
ナイフを握り締めたまま、シリスは部屋を飛び出した。
暗闇が目隠しをしてくれることを祈った。なるべく人の気をさけて、たったひとつの気持ちを落ち着けることができる池のほとりを目指した。
やっと着くと岩陰に隠れるようにして、何度も深い息を吐き、ナイフを放り投げると、両手で頭を押さえた。
――――いやだっ
いつもなら静まってくる気持ちが、今日に限っては違っていた。何度もかぶりを振って、頭に浮かぶものを振り払おうとした。なのに、振り払うどころか、アレ
シオの息遣いが耳の奥で響きだす。実際に聞こえないはずのものが、まるですぐ傍で起こっているように音を響かせる。
――――やめて
心の中で叫びながら、シリスは放り投げたナイフを探した。
月明かりに光るものを草の合間に見つけて、取り上げると思い切り手首に刺した。瞬間、鋭い痛みが走って、頭の中は白くなった。
――――これでいいんだ
薄れていく意識の中で、シリスはそう思った。
ふっと気が付くと、シリスは大きな河の縁に立っていた。向こう岸が見えない大きな河は見たことがなく、国のどこを探してもないだろうと思う。
――――ここはどこ?
問いかけに答えてくれる人はいない。
突然隣に人が現れて、その人の前に大きな橋がかかった。その人が橋に足をかけ渡っていく。見ていると、橋はその人が通った後、煙のように消えていく。
その人自体も段々と薄くなり消えていった。
次次に人が現れて、橋を渡っていった。けれど、自分の前に橋は現れない。
――――どうしたらいい?
自分はずっとここに立ちつづけて橋がかかるのを待つしかないのだろうか。そんなことを考えていた。
「シリス!」
突然背後からかけられた声はアレシオのもので、振り返りたかったけれど、シリスは振り返ることはやめた。アレシオのところへ戻っても、自分は邪魔ものでし
かな
い。またいつクレアを手にかけようとするか分からない。ことが起こってからでは遅い。クレアはアレシオの子を身ごもる人だ。
「シリス!」
もう一度かけられた声にも答えなかった。
――――ごめんなさい
シリスは心の中で呟いた。
アレシオにかけられた思いには答えられなかった。もう少し待って欲しいと言われた言葉に答えられなかった。
「シリス」
三度目にかけられた声は、声だけでなくぬくもりを持っていた。温かくいつも包んでくれるアレシオの気そのままに、体をやさしく包んでいく。胸が熱くなっ
て、涙が一筋流れた。
ぬくもりはそのまま形になって手を握る。目の前が暗くなって自分は目を閉じていたことを知った。目を開けると、目の前にアレシオの顔があった。
「よかった、シリス」
アレシオが顔を歪めた。その後ろに背が高く体格の良い横幅ならアレシオの二倍はあるのじゃないかと思える医師のバートンの顔が見えた。
「あ……」
見つかってはいけない身だった。アレシオに非がかかってしまう。
「あ……」
言葉はでなくて、シリスはただかぶりを振った。
「大丈夫だよ、シリス。何も心配しなくていいから」
アレシオが体を押さえつけようとする。手首には白い包帯が巻かれ、深紅色のパックから伸びたチューブは腕に刺さっていた。
「動かない方がいい。あなたのために取った血で、アレシオもふらふらなんだから」
バートンは腕ぐみをして見下ろしていた。
「血? 」
それは、今自分に流されているもの以外は考えられなかった。
「型が同じだったことが、不幸中の幸いと言えばそうだが。それでは、契りの意味はないな」
バートンがふんと鼻を鳴らす。
昔、他人の血液が体に入ることは死を意味した。王と神官の契りはその流れを汲む。
「まあ、意識が戻ったのなら、もう大丈夫だろう」
バートンが手首を取り上げると、脈を診た。
「ありがとう、バートン」
アレシオがバートンを見上げる。その横顔が切なげで、シリスは思わず目を伏せた。自分はいつもこの人を悲しませてしまう。
「ハービィには、アレシオが命を絶とうとしたと伝えておくよ。精神的に不安定になっているから、誰にも近づかせない方がいい、とも伝えておこう。ついで
に、
あんたもなって付け加えておくよ」
バートンがアレシオに向かって言った。
「ごめんなさい。嘘をつかせてしまうことになるね」
アレシオが目を伏せる。
「俺の仕事は人の命を助けることだから、この場合はそうするのがいいと判断しただけだ。普通はあれだけ思いっきりよく刺せるもんじゃない。やったやつが精
神的に酷く不安定であることは確かだ。せっかく俺が助けてやったんだから、ちゃんと面倒見てやれよ。」
バートンがアレシオの髪をくしゃっとなでる。
「なんか、まだ僕のこと五歳児くらいに見てるでしょ」
アレシオが拗ねるように唇を尖らせた。
「いや、大きくなったと思ってるよ。初めて会ったときはこんなだった」
バートンがアレシオの目の前で両手を広げて並べた。
「当たり前だよ」
アレシオが噛み付くように言った。
「人が育つことは当たり前なんかじゃない。当たり前だと思えることに感謝するんだな。じゃあ、俺は行くから。夕方また見にくる。チューブはパックがなく
なったら外しておけ」
「僕が? 」
珍しくアレシオが不安そうな声を出した。
「他に誰がいる? 誰かを呼ぶのは困るんだろ? ただ、引っこ抜いておけばいい」
「分かったよ」
今度は不服そうに答えた。
アレシオの耳元でバートンが何か呟くと、アレシオは辛そうに顔を伏せた。そのアレシオにバートンが肩を二、三回軽く叩くと、アレシオも頷く。
そのまま、バートンは部屋を出ていってしまい、姿が見えなくなった後、シリスはお礼を言うことを忘れていたことに気がついた。
部屋の入り口でバートンを見送ったらしいアレシオが戻ってきて、切なげな顔をすると、頬を撫でた。
「ごめんね、シリス」
潤んだ瞳が赤くなっていた。伝わってくる切なさに胸が痛くなる。
「いえ……」
シリスは頭を振った。
「謝らなければいけないのは私の方です。アレシオさまが……」
その先は胸がいっぱいで言葉にはできなかった。
どれほどの思いをかけてくれるか知っているくせに、いつも答えることができずにいる。
「ずっと一緒にいるから、許して」
頬を撫でていた手が頭に回されて、ぎゅっと抱きしめられた。アレシオの心音がすぐそこで聞こえた。
それから言葉どおり、アレシオはずっと傍についていてくれた。