その日がいつか来ることをシリスは分かっていた。
自分を抱く温かい腕は、いつまでも自分だけのものじゃない。定めのもとアレシオには決められた人がいる。
シリスは池のほとりでぼんやりと水面を眺めていた。

気が狂いそうになるほどの気持ちを抑えてくれるのは、アレシオのぬくもりと深い藍色をもつこの池のほとりだった。クレアがアレシオの部屋を訪ねてきてから 日が落ちる のを待てなくなり、危険だと知りながらも日が高いときに部屋を出ることが多くなった。
黒髪をもつものは自分しかいない。見つかってしまえば、申し開きはできない。外へ出るようになったことを心配したアレシオが髪を染めるように準備してくれ た。髪の色が変われば、誤魔 化せるかもしれない、そう思うのは当たり前のことだ。
なのに、体は神経をもたない髪であっても、何かで覆われることを嫌がった。呼吸が苦しくなって、じっとしていることができなくて、それでも我慢しなければ いけないと冷たいものが肌を伝うことを感じながら拳を握り耐えていたら、意識は落ちていった。驚 いたアレシオはすぐに染料を拭ってくれて、抱きしめてくれた。仕方なく、せめて目立たないようにと、腰まであった髪を短く肩まで切った。
シリスのきれいな髪は好きだけれど。そう言いながら、アレシオは丁寧に髪を切ってくれた。
それでも、色は変わらないのだから、見つかったら分かってしまう。
毎日疲れた顔をして戻ってくるアレシオを見ることは辛かった。
ソファに腰を下ろし、宙を見上げて深くため息をつく。その後、必ず笑顔を見せてくれた。
「好きだよ、シリス」
そう毎日言ってくれた。その気持ちを疑う理由など欠片もない。
けれど、その日は確実にくる。
アレシオは妻を娶る。
――――その日、自分はどうなってしまうのだろう

空も木も風も何も教えてはくれない。池の水面は静かに揺れているだけだった。それでも、ここにいれば、心は穏やかだった。幼いときから自然に木々に囲まれ ていたから、懐かしさがあるのかもしれない。アレシオが抱きしめてくれないとき、気持ちを収めてくれるのは、ここしかなかった。

アレシオの気が近づいてくる――――そう感じながら、シリスは池の水面を眺めていた。
池のほとりのある大きな岩は隠れみのになった。その岩陰に隠れるようにしていたのに、アレシオはそこに隠れていると知っていたかのように、岩陰から覗いた 顔は笑顔だった。
「やっぱり、ここだったのか」
ほっとしたような声を出し、隣に腰を下ろした。
「昼は危険だよ……」
ぼそっと言う。
「気をつけています」
誰も無闇に覗くことができないアレシオの部屋にいるのが一番安全なのだと分かっている。けれど、居ても立っても居られなくて、足は池のほとりに向いてしま う。
初めてここに来たときは、ただ気を収めたくて意味もなく部屋を飛び出してきただけだった。人の気をさけながら歩いているうちにここへたどり着いたとき、体 は力が抜けて崩れ落ちた。不思議と苛苛していた気持ちが収まっていたことに気がついた。それは、久しぶりに外へ出たからだと思っていた。外へ出れば、外気 にふれれば収まる。その時はそう思ったけれど、違っていた。
「ここがそんなに好き? 」
「はい」
癒してくれるのは、ここしかない。
「僕より? 」
アレシオの問いかけにシリスはあわてて頭を振った。見つめる瞳が笑う。
「よかった」
ため息交じりにアレシオは呟いた。頭に手を回されて、シリスはアレシオの肩に頭をのせた。

「ここの水はね、山に降った雨が地中に染み込んで、長い間かけて山を下りてきたものが湧き水となってあふれ出てきたものなんだって。色んな成分が溶け込ん でいて、こんな濃い色をもっている。今はそんなことないけれど、昔、薬になると飲んだりしたこともあったそうだよ」
初めて聞く話だった。
「そうだったのですか……」
「水はそれだけで、解毒作用があるというから、シリスがここを好きだというのが分かる気がする」
アレシオが頬を寄せてくる。そのまま、軽く唇に触れた。
「アレシオさま……」
シリスはアレシオの唇から逃れるように顔を伏せた。人目に触れるところでは、危険な行為だった。
「大丈夫だよ。近くに人はいない、そうだよね? 」
アレシオが顎に手をかけて、上に向ける。
「こんなことより、シリスが見つかってしまう方がずっと危険なんだよ」
目の前のアレシオの瞳は小さく揺れていた。
「来ちゃいけないなんて言わない。だけど、気をつけて……」
手は背中へ回されて抱きしめられた。
「シリスの力を戻す方法をきっと、見つけるから。もし――――」
口を噤んだアレシオは、ぎゅっとシリスを抱きしめた。口にしなくても、シリスには分かった。

どこまでも一緒に行こう。
そう言った言葉は一時の感情ではないと、触れ合う肌を通してアレシオの決意がシリスの中へ流れこんできた。


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