木立の中を風が渦巻く。シリスの体を撫でるように掠めていく風が残していくのは心地よさだけだった。
森へ入ってもう何日経つのかシリスには分からなかった。数えることをやめていた。意味のないことだと思えた。
いつまでも隠しておくことはできないと、ヒューにすべてを話した結果、シリスは自分はもう邪魔ものでしかないことを知った。アレシオのすべての気を消すな んてことはできない。それは命を落とすことよりしたくない、できない。なれば、道はひとつしかなかった。
今はただ時が経つことをじっと待つだけだった。時がすべてを解決してくれる。体がその機能を止めるその時をじっと待つだけだ。
重く感じる体は座っていることさえできなくなって地面に崩れ落ちる。草がクッションがわりに受け止めてくれたおかげで、あまり痛さは感じなかった。空腹は 感じなくなって久しい。
――――アレシオさまのために……
そう思いながらも、ひとつ心残りはあった。絶対に部屋へ伺うと言った約束を破ってしまった。それを謝ることもできない。会わない方がいいだろうと言った ヒューの言葉は正しいと思ったし、落胆するアレシオの顔もシリスは見たくはなかった。
頬にぽつっと冷たいものが弾けた。
――――雨?
どうりで梢の間から見える空が少し暗いと思った。そう思いながら笑いがでる。雨が落ちてくるまで分からないなんて、使いものにならない証拠だ。
良かったんだ、これで。そう思いながら、シリスは目を閉じた。暗闇の中で、脳裏はアレシオの笑顔を映す。ぽつぽつと雨粒が体を打つ。衣に雨粒が染みて、肌 に直接冷たさを感じた。地面に弾ける雨音が耳の中に響く。雨足が強くなってくることを体を打ち付ける雨粒で感じる。衣に広がる雨粒の染みが体を冷やしてい く。この雨が止む頃には、自分は自分の姿を天上から見ているのだろうかとシリスはぼんやり思った。
天上と言われるところが本当に存在するのかは分からない。もし、存在するとすれば、今度こそ自由に思う人の傍にいられるのだろうか、と思う。
いつも、どんなときでも――――そう思っていたら、突然、シリスの脳裏からアレシオの姿が消えて違う人物の顔が浮かんだ。
クレア・シフォン。彼女は生まれたときからアレシオの許婚と決まっていた。
シリスはクレアと公式の場でしか会うことは無かった。それも数えるほどだった。グレーの瞳に薄い栗色の髪をもつ、同じ歳であるのに大人びたツンとした表情 は気高さをもっていた。
時がくれば、アレシオはクレアと婚礼をあげる。それはこの国の言い伝えであり決められたことだ。
――――良かったんだ、これで
シリスは心の中で呟いた。
神官ならば、アレシオとクレアの祝い事を取り仕切らなければならない。心から祝うことはきっとできなくて、それは神官としてあってはいけないことだ。
雨は酷くなっていく。意識は途切れ途切れになっていた。落ちていこうとする意識の中で、シリスは唐突にアレシオを感じた。

――――来てはいけない
そう心の中で叫んでも、声にもだせなければ、たとえ声に出したとしてもまだ遠いアレシオに聞こえるはずは無かった。いけない、そう思いながらもまっすぐに 近づいてくるアレシオにただ無事でいて欲しいとシリスは願った。
雨音に消されながらも、遠くで草を踏む足音が水溜りを弾く足音が地につく耳に時折聞こえた。その音は、少しづつ自分に近づいてくることをシリスは感じた。 アレシオに間 違いはなかった。
「シリス!」
雨音のフィルターを通し、一番聞きたかった人の声をシリスは聞いた。バシャバシャと水を弾く足音が近づき抱きかかえられて、シリスはゆっくり目を開いた。
「シリス、良かったシリス……」
腕の中にぎゅっと抱きしめられ、心臓が規則正しく鼓動する音と共に血の匂いを感じた。
どこかで怪我を。
それは枝にひっかけられたものか、獣に襲われてできたものか。それを確かめることさえシリスにはもうできなかった。
「いけません……アレシオさま……すぐお戻りになってください」
野生の獣はいつも餌を探している。血の匂いは印になってしまう。
「ん、シリス一緒に戻ろう」
頬に暖かい体温を感じた。ぎゅっと頭を抱きかかえられて、頬を擦り合わせる。熱い吐息が頬を掠める。
「私は戻ることはできません……」
これは、自分が選んだ道だった。
「シリスが戻らないというなら、僕も戻らない。こうしてずっとシリスを抱いている」
アレシオが更に強く抱きしめる。
「いけません、アレシオさま……あなたは戻らねばいけない人です」
神官に代わりはいる。けれど、王となるべく定められたものに代わりはいない。
「なら……一緒に戻ろうよ、シリス」
抱きかかえられる体をシリスはどうすることもできなかった。言葉さえ、やっとで出している。それも、アレシオが耳を寄せているからやっと聞こえる程度の声 しか出せていない。
「分かってください……これは処刑なのです」
主となるものを傷つけずに、自らの存在を消す。神官として力を失ってしまったものに最期に与えられた道だった。
「じゃあ、僕も同罪だから一緒に処刑を受けるよ」
アレシオの声に迷いは見えなかった。
「アレシオさま……」
どう言えば分かってもらえるのか、そう思いながらシリスは言葉がでなかった。
雨は降り続いていた。体は冷えていく。このまま自分が命を失えばアレシオも道連れにしてしまう。それだけはしてはいけないことだった。
「シリスを見捨てるなんて、僕にはできない。それはシリスを苦しめることだと言われても……僕にはできないよ。僕が絶対守るから、絶対守るから、だから、 僕の傍にいて……」
背中を抱きかかえ肩口に顔を埋めたアレシオがはっとしたようにシリスから離れた。
静かにシリスを草の上に寝かすと、自分が着ていた雨着を脱ぎ、それで、シリスの体を包んだ。
シリスは力なく頭をふった。今までアレシオが身に付けていた厚手の雨着は温かかった。けれど、それは自分に施されることではない。
また、抱き上げられて手が頬を撫でる。
「シリス、僕を恨んでいいよ。それでも、僕はシリスに傍にいて欲しいんだ」
腕を引かれて体を起こされ、背を向けてアレシオは腕を引き自分の体へ回した。
「お願いだよ、シリス僕に掴まって……」
アレシオの声は悲愴さを伴っていた。
だめです――――そう言わなければいけないことは分かっていた。早く、お一人で戻ってください。そして立派な王に――――。
けれど、その前にこの森を抜 けなければいけない。血の匂いは獣を呼んでしまうだろう。
シリスはありったけの力を出してアレシオの体を抱き寄せるように掴まった。自分の命はそう長くない。森を出るまでの間アレシオを守れればいい、そう思っ た。
「軽くなったね」
シリスを背負って立ち上がったアレシオが悲しそうに呟いた。


背負われて、シリスはアレシオの匂いと体温を感じていた。雨は降り続いていて、雨着に雨が打ち付ける。揺れる体とともに意識も揺れていた。どのくらい時間 が経っ たのか、今どこにいるのか、それすらも分からなく、ただ、触れている体を離し たくないと思っていた。
突然体が宙に浮いて、次に背中がふわっと受け止められる感触がした。シリスはその感触に覚えがあった。
――――あ……
シリスが体を起こそうとすると、上から押さえつけられた。
「お願いだから、大人しくしていて……」
悲痛な声が落ちてくる。
「でも……ベッドを汚して――――」
「いいよ。今、体を拭いてあげる、水は? 何か欲しいものはない? 」
言葉を遮られたアレシオの問いにシリスは小さくかぶりを振った。望むことはアレシオの手を煩わせないことだった。
「だめだよ」
体からアレシオの手が離れる。背を向けたアレシオはサイドテーブルの上にある水差しに手を伸ばした。
「アレシオさま……」
アレシオにはもう何もして欲しくなかった。森を抜けるまでと思っていたのに、思う以上に自分の命はあったらしい。
アレシオの顔が近づいてくると、そのまま唇を塞がれて舌で口をこじ開けられた。そして、舌から冷たい滴が落ちてきて、それは細い流れになって口の中へ落ち てくる。喉元に落ちていく水を吐き出すことはできなくて飲み込んだ。それは、干からびていた体の中へ染み込んでいく。
「もう少しいる? 」
問われて、またかぶりを振った。自分は生きていてはいけない存在だった。問い掛けたくせに答えなんて関係ないかのように、アレシオはまた水を口に含むと、 口移しで水を含ませてくれる。
「シリスが生きていないなら、僕も生きてはいない」
唇を離したアレシオの手が優しく髪を撫でる。
「いけません。それは……」
アレシオはこの国ではいなくてならない人だった。
「じゃあ、シリスも生きていて」
アレシオが頬に唇を寄せる。唇の温かさはいつも変わらないものだった。
「それは――――」
国のために許されないことだった。
「シリスは何も心配することなんてない。僕が守るから、だから生きていて」
アレシオが頬を寄せて擦り合わせる。
「アレシオ、さま……」
シリスはまた頭を振った。自分が邪魔な存在になることは分かっていた。
「誤魔化しや冗談じゃない。僕は本気だよ。シリスと離れていることなんてできないって分かったんだ。シリスがだめだと言っても僕はシリスの後を追う。それ がいやだと思うなら、シリス……」
ぎゅっと頭を抱きしめられて、シリスはもう頭を振ることもできなかった。
言っているだけだと思った。アレシオが自分の役目を放り出すとは思えない。
けれど、もし本気だったら?
それを確かめることなんてできない。

「待って、お湯を持ってくる」
アレシオはシリスの手を取ってぎゅっと一度握ると、ベッドから離れて行った。天蓋から引かれている布は三方を隠していて、アレシオの姿を見ることはできな かった。た だ、がたんと引き出しを開ける音やドアが開く音がして、微かに水が流れる音がした。
目を開けていることも辛くて、シリスは目を閉じるとゆっくりと息を吐いた。
自分の存在が邪魔になることは分かっているのに、消すことも許されないらしい。それを無理無体だと思いながらも、まだ、アレシオの 声を聞くこと、触れることが許されることを喜ぶ気持ちがある。
足音が近づいてくると、桶を持ったアレシオが不安そうに覗く。そんな顔をさせているのが自分だと思うとシリスは胸が疼いた。
桶から出したタオルを絞ると、アレシオはそっとシリスの頬を拭った。柔らかい温かいものが頬を撫でる。
「アレシオ、さま……」
シリスは頭を振った。このようなことをしてもらえる立場に自分はない。けれど、自分でと思っても体は重くて思うように動いてはくれないだろうと思った。下 手に動いては部屋を余計汚してしまう。
「シリス、きみはまだ僕の神官なんだから僕の命令を聞く義務があるでしょう? 」
アレシオが耳にはめられたピアスにそっと触れた。
「今はただ元気になって。前のように笑顔を見せて。難しいことはその後で考えよう。まだ父もパリスも元気なんだから、僕らには時間がある。急ぐことはない よ」
「でも――――……」
考えて得られるような策があるとは思えなかった。
「命を失うことは簡単だよ。だけど、失った命は二度と戻らない。お願いだよ、シリス。悪いのは全部僕なんだ。嫌がるシリスに強要したのは僕なんだから ――――」
アレシオの言葉を遮るようにシリスは自分にできる精一杯の力でアレシオの腕を握ると頭を振った。強要されたわけじゃない。自分も望んでいたことだ。それだ けは分かって欲しかった。
アレシオは一瞬怪訝そうな顔をした。
「僕を許してくれるなら……シリス、時間が欲しい……」
言いながら、アレシオは目を伏せた。
顔をきれいに拭ってくれた後、身につけていたものをすべて取り、体も丁寧に拭ってくれた。髪も拭いて梳いてくれた。柔らかい肌触りの寝衣を着せてくれた 後、ほっとしたように笑うとアレシオは頬に 軽くキスを落としてくれた。
「何か口にした方がいいね」
呟くように言うと、アレシオはベッドから離れすぐに帰ってきた。
「ごめん。今はこんなものしかないけど……」
言いながらアレシオが口に含ませてくれたものは、口の中で甘くとろけた。
「朝になったら、何か作ってもらうから――――」
「だめです――――」
シリスは思わず口にしていた。
自分がここに居ることは誰にも知られてはいけない。自分はともかく、アレシオに何も咎めがないとは思えない。
「心配しなくていい。シリスは少し寝るといいよ」
前髪をすくうように撫でると、アレシオは軽く微笑んだ。
「アレシオさま……」
そう呼んだシリスの声は、天蓋の布を引かれた音でかき消された。
離れていく足音の後、ドアの閉まる音が聞こえた。

シリスは、ゆっくり息を吐いた。
失った命は戻らない――――それは分かっていた。時間がすべてを解決するとは思えない。
けれど、もう少し。
アレシオが欲しいと言った時間を。
自分は地獄へ落ちてもかまわない。だから、もう少しだけ時間を――――。
誰に願えばいいのか分からない願いをシリスは心の中で呟いた。


***

裏口の木戸が低い音を響かせた。
「なんだ? 」
王はベッドから体を起こすと、木戸へ向かって声をかけた。
「アレシオさまがシリスさまを連れて戻りました」
低い声が伝える。
「そうか」
王に驚きは無かった。アレシオが何かを起こす、そんな気はしていた。
「どういたしますか? 」
「放っておけ」
「しかし……」
「他言は無用。報告だけは続けてくれ」
「はっ、分かりました」
相手の承認を聞くと、王は小さくため息をついた。
「いずれは国を継ぐものなら、自分のやったことは自分で始末をつけてもらおう」
誰もいない空(くう)に向かって王は険しい顔をして目を細めると独り言ちた。


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