扉を閉め、明かりも消し、暗い部屋の中央でシリスはただぼんやりと座っていた。
空気の流れが読めない。木々のさえずりが聞こえない。空は何も教えてくれなかった。いつもは肌を撫でるように風が絡んでくるのに何も感じなくて、何もない 空虚の中へ放り込まれた感じさえする。
アレシオの傍にいたときは、包んでくれるアレシオを感じた。部屋を出ると、そのまま遠ざかっていくアレシオの気配しか体には感じなかった。補うものは 何もな く、アレシオの気配が途切れたとき、体は何も感じなくなっていた。
記憶があるかぎり、今までこんなことは無かった。いつも何かを感じていた。それは、昨日神官としての契りを結んだことで、これからどうしても必要になる力 だった。
自然に感じていたものを、どうしたら感じられるようになるのかなんて分からない。ただ、耳を澄ますように周りの気配を感じていただけだ。今もそうしている のに、何も 感じない、何も囁きかけてくれない。沈んだ気持ちにふっと感じるものがあった。
――――アレシオさま
今、ただひとつシリスに感じられるものだった。

シリスはヒューにメモを託していた。アレシオはそのメモを見たのだろうとシリスは思った。会いたくないと、来ないで欲しいと何度も書こうとしてためらって それでも書いたものは破り捨てた。
約束を守ることはできなくなりました。
メモにはただそう書いた。
今日は都合が悪くなったのだと流してくれるのならば、それで良かった。近づいてくる気配に胸が痛くなってくる。期待に添うことのできない自分が歯がゆい。 昼すぎに雨音が聞こえたときの絶望感は、今までに感じたことがないほど暗く冷たいものだった。

近づいてくる気配をただ感じながら、シリスは何もできずにいた。立つことさえも。
近づいてくるほど鮮やかになる気がその姿を脳裏に描く。少し眉根を寄せ辛そうな顔をして木立の中を走ってくる。
――――きっと
そうシリスは思った。
たとえ、来ないで欲しいと書き添えたとしてもアレシオは来ただろう。まっすぐに自分を見てくれるその瞳に答えたかった。
熱いものが零れてきそうで、シリスはきゅっと唇を噛んだ。
どうすればいいのだろう。
神官として契りを結んだ以上、アレシオが新しい神官をたてることはできない。ただ、契りを結んだ神官が命を落とせば、その限りではない。力が戻らないその 時は、自分の存在を消すことが唯一アレシオに報いれる方法だった。
アレシオの気がすぐそこまで来ていた。扉の向こうで苦しげな表情を浮かべるアレシオが見える。
昨夜触れられた感覚が体に甦ってきて、実際触れられているわけではないのに思うだけで息があがっていく。耳に聞こえたのはヒューの声だった。


コツコツと扉が叩かれる音がした。
「シリス、アレシオさまにはお前が会いたくないと言っていると伝えたが、それでいいんだな」
扉の向こうからヒューの声がする。
「はい……ありがとうございます」
会いたくないわけじゃない。けれど、会えない。何も読めなくなったことを知られたら、どう思われるのか、それを考えると怖い。
「二日後の春祭りの日取りを決める式には出るというのがその条件だ。神官として命を受けたのだから、出席しなければいけないことは分かるな」
「はい」
シリスはそう答えるしかなかった。
「お前が不安に思うことはない。お前なら十分にやっていける。そう思うのは私だけではない。パリスもお前の先輩となるべきものもお前の力は認めている」
「……ありがとうございます」
それは、昨日までの話だ。
「今日、明日はゆっくり休めばいい。今のお前の顔を見たらアレシオさまも心配なさるだろう」
「はい……」
待っているから――――そう言っていたアレシオの声は聞こえていた。
「何があってもシリスを信じるとアレシオさまは言っていた。次に会うときには、いつもの顔を見せてあげなさい」
「……はい」
自分でもそう願う。
「……何か欲しいものがあるか? 」
「いいえ、今は何も」
「そうか。では何かあったら言ってきなさい」
「はい。ありがとうございます」
誰も見ていないことは分かっていても、シリスは頭を下げた。耳に遠ざかるヒューの足音が聞こえた。シリスは下げた頭を上げられなかった。



逃れることはできない。
シリスはパリスの後ろを少し俯きながら歩いていた。庵から王宮の建物まで歩いて20分少しかかる。車を出してくれると言う話をシリスは断った。木立の中を 歩くことは好きだった。それだけではなく、気持ちを落ち着かせたかった。状況は変わらない。何も体は感じてくれない。これから先自分はどうなるのだろう。 アレシオは……――――思うことは不安ばかりだった。
シリスは一人で歩いていくつもりだったのに、パリスが一緒に行こうと言ってくれた。
王より二つ年上だというパリスは自分にとって父のような存在だった。憧れてもいたし、慕ってもいた。こんなに早く同じ立場に立つことになるとは思わなかっ た。
そよぐ風は心地よかった。けれど、ただそれだけだった。いつもはもっと色んなことを教えてくれる。これからどうなるのか、風はどう変わるのか、空はどう変 わるのか。なのに、今は何も分からない。

「アレシオさまが心配しておられた」
パリスが少し顔を向けて声をかけてくる。
「……そうですか」
胸が痛いほど締め付けられた。
「シリスほどの力があれば、何も怖いものはないだろう? 」
問いかけにシリスは答えることができなかった。
「何も怖がることはないと、私は思うよ」
続けられた言葉が胸に沁みる。
まだこの人がいてくれる。まだ自分には時間がある。けれど、先が見えないトンネルの中にいるようで、出口はどこなのか、いや、出口があるのかさえ疑わし い。
逃れたい気持ちを抱えながらも、前へ出す足は一歩一歩進んでいく。今はアレシオにこれ以上の心配をかけてはいけないと思った。
広間の扉の前に立つと、パリスが後ろを向いた。
「ちゃんと準備はできているね」
パリスが軽く微笑む。
「はい」
答えると、シリスは目を閉じて大きく息を吸った。

広間の扉を開けて、最初にシリスの目に飛び込んできたのは、アレシオの不安そうな顔だった。玉座の斜め前に立ち、金糸で刺繍を施された艶のあるベージュの 裾の長い正装をま とっている。柔らかそうな栗色の髪が肩先でウェーブをもつ。大きな瞳はいつも気高そうに見下ろすのに、今日は不安そうに小さく揺れていた。引きずられそう になる気持ちを振り切るようにシリスは今度はゆっくり息を吐いた。
自分が笑えば、きっとアレシオの不安な気持ちを軽くできると分かっている。笑おうと思ったのに、できたのは少し口元を緩めることぐらいだった。それでも、 少し気持ちは通じたようだった。アレシオの瞳は答えるように笑ってくれた。

内務大臣であるシドの号令で、ばらけていた家臣が所定の位置につく。シリスもパリスについて、玉座の前に膝をついた。
今日は何も言うことはない。ただ、この場にいればよいだけのはずだった。
王が玉座に着いて、祭りの式次第の説明が始まった。その後、パリスが日にちと場所を進言し、承認を得て式は終了となるはずだった。
アレシオの視線を感じながら、シリスは顔を伏せていた。今持つ不安な感情を表に出さない自信はなかった。
シドがパリスを指名して、祭りの日取りが決められるときだった。
「せっかくシリスも来ているのだから、シリスにも見てもらったらどうだろう。どうかな、アレシオ」
王がアレシオへ声をかけた。
――――え?
シリスの心臓はどくどくと鳴り出した。
「それは――――」
アレシオが口篭もる。
「シリスも言いたいことがあるのではないか? 」
王の言葉に、シリスは鼓動はどんどん早まっていく。自分の言葉はすべて、アレシオの功過に繋がっていく。もし自分の言ったことで祭りが失敗すればそれはア レシオの責任になってしまう。
「父上、僕達はまだまだ未熟なので父上とパリスを習って精進したいと思います。もう少し時間をいただけないでしょうか」
アレシオの声が静まっている広間に響いた。
「ん? 珍しく殊勝なことを言うな」
王の声は驚きが混じっていた。
「シリスを神官に迎え、少しですが王となる責任が分かってきたような気がします」
アレシオの声は今までより大人びて聞こえた。
シリスはアレシオの言葉すべてが自分を庇ってくれているものだと思った。
「それは、頼もしい。では、パリス――――」
王の呼びかけにパリスが応えた。
どくどくと弾んでいたシリスの心臓が少しづつ収まっていった。その代わりに、痛いほどの切なさが胸を占領する。アレシオの視線を感じながら、シリスは最後 まで顔をあげることはできなかった。


「シリス!」
背後から掛けられた声にシリスの足は止まった。無視することはできなかった。
「では、私は先に戻っています」
パリスはシリスの肩に手を置き軽く叩くと、背を見せて先へ歩いていった。
「シリス」
もう一度呼ばれた声はすぐ後ろだと感じたから、シリスは振り向いて笑顔を作った。助けてくれた感謝のつもりだったのに、思い通りにはならなくて笑顔を作っ たはずの自分でもこれは 笑顔じゃないと分かった。
「ありがとうございました」
まず頭を下げた。何も言うことにできなかっただろう自分を助けてくれたのはこの人だった。
「そんなことはいいんだ。それより……」
アレシオが口を噤む。
「何でしょうか……」
「少し、部屋へ来れない? 何もしないよ。ただ少し話がしたいんだ」
この間外した天気のことを追求されるのだろうか、とシリスは思った。晴れると言った予想は見事に外れた。今日のアレシオの発言はそれを受けてのことだろ う。信じると口では言ってもその実信じられないのは分かる。けれど、思ってくれているのも分かる。
「庵へ戻らないと」
出てきたのは、拒む言葉だった。また何か聞かれたとき、どう答えればよいか分からない。これ以上落胆もさせたくない、心配もかけたくない。
「どうしても? 」
アレシオが顔を覗き込む。いつもは勝気な瞳が不安げに揺れていた。
「明日、伺います」
それは、単なる先延ばしだった。けれど。
「絶対? 」
「はい、必ず」
アレシオをまっすぐ見て、シリスは答えた。
いつまでもこの状態でいていいはずは無く、どこかでけりをつけなければいけない。
シリスはアレシオと別れた足のまま、自分たちのいる庵とは少し離れたところにあるヒューの庵へ行った。


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