神官は風を読み、空と会話し、木と戯れ、太陽の光と触れ合う。その中で未来を予想する。
繊細な神経と広い視野を要求され、神官の能力で国の豊かさが左右される。
魚船をどこへ出すか、どこでどんな作付けを行うか、それは神官の予言によって導かれる。神官の予言が外れれば、他国に頼る術のないこの国では、国自
体の存続さえ怪しくなる。そのため、神官には王に対する忠誠を求められた。
王もその忠誠に答えるため、神官は一人しかたてられない。
神官に一番大切なことは、人に心を見せないこと。そして、人との交わりは自分の気力を左右することであるから行うべきではない。
シリスは意味も分からない幼い頃から、そう教えられていた。
王宮の端に位置する木立の中に笑い声が響く。
「アレシオさまっ!」
叫び声と大きな足音がそれに続く。
「休憩だって言ったよ!」
幼い声が返す。
「それはっ、静かに休むための時間ですっ」
はぁ、はぁと息を間に挟みながら、大きな足音は段々ゆっくりになっていく。
「休憩は好きに使っていい時間だって、ハービィは言っていたよ」
幼い声はまだ元気だった。
「それは、アレシオさまだけでしょう。シリスは違いますっ。シリスっ、戻ってきなさい!」
大きな足音はその後数回聞こえて、ぱたっと止まった。
笑い声は、元気に遠ざかっていく。
「まったく――――」
ため息とともに、シリスの教育係であるヒューはぼやいた。
「あれえ、もう追いかけっこは終わりみたいだ」
アレシオは遠ざかっていくヒューの姿を見て、つまらなそうに呟いた。
「ハービィなら、もう少しがんばってくれるのに」
走る速度を緩める。
「でも、脱出成功ってことだね」
アレシオが手を繋いでいるシリスへ視線を向けると、シリスは苦しげに顔をゆがめていた。
「大丈夫? 」
アレシオが足を止め、シリスの顔をのぞきこもうとすると、シリスの体は崩れるようにその場に倒れた。
――――え?
驚いてアレシオがシリスの体を抱きとめると、シリスは目を閉じ腕の中ではぁはぁと荒い息を繰り返していた。
「しっかりしてよ」
アレシオがシリスの頬を軽く叩くと、シリスは薄く目をあけて口元が少しだけ微笑んだ。
腕の中で苦しげに息をするシリスを見ながら、一緒に遊ぼうと思っていた計画は潰れたらしいとアレシオは悟った。
アレシオはずっと、シリスと二人きりになる機会をうかがっていた。初めて会ったのは七歳の誕生パーティの席で、その時シリスが同じ日に生まれたことと神官
になるために勉強をしていることを知った。
まっすぐで艶やかな黒い髪は肩を隠くほどの長さをもっていた。すっとした目と鼻を持つきりっとした顔立ちが微笑むと優しくなった。アレシオはシリスにひと
目で惹かれていた。どれほど優秀な神官がい
たとしても、自分はシリスを神官として任命するんだとその時思った。
シリスは同じ王宮にいるのだと分かっていたから、アレシオは次の日から時間があればシリスを探した。自由になる時間はそれほどなくて、生まれた時から住ん
でいる王宮であるの
に、自分
が知っているのはほんの一部だったのだと知った。
シリスを見つけるまで三ヶ月かかった。
そして、最初は見ているだけだった。近づくことを拒む空気をそこに感じた。けれど、会いに行くごとに空気が変わっていくのを
感じた。
「こんにちは」
そうシリスが声をかけてくれたとき、アレシオは飛び上がるほど嬉しかった。一日中嬉しくて、顔が自然に緩んで、先生であるハービィのお小言もにこにこしな
がら聞いていられた。
二人きりで一緒に遊べたらどんなにいいだろう、そう思っていた。
国王である父に願い出たこともある。
その時、シリスは修行中の身だから、そんな勝手なことはできないと言われた。
いいじゃないか、少しくらい。そうずっと思っていた。
そうずっと思いながら、会えるのは公の行事の席ぐらいで、時間があれば、アレシオはシリスに会いに行った。いや、見に行った。
王宮の端にあり木々に囲まれたそこには、いくつかの庵が円をなすように並んでいる。庵は一人に一つ与えられ、神官となるものはその中央に目を閉じ座ってい
た。
アレシオはいつも庵の周りにある木の中から一番シリスが一番よく見える木を選んで上からシリスを見ていた。ただ座っているだけのシリスをどれだけ見ていて
も飽きなかった。
修行中のシリスの邪魔をしてはいけないことは分かっていた。だから、見ているだけだった。シリスが声をかけてくれるまで、自分から声をかけることもしな
かっ
た。
そして三年が経った。
「それでは、少し休憩にしましょう」
そんな声が聞こえてきたから、アレシオは木から飛び降りた。
「行こう」
そう言って、シリスの手を引いた。初めて触れた手は少し冷たくてでも、柔らかかった。シリスは少し驚いた顔をしていたけれど、すぐに笑ってくれた。
そして、手を取って行こうとしたら。
「アレシオさま」
ヒューの怖い声が聞こえてきて、アレシオはシリスを引っ張って走りだしていた。
――――どうしよう
アレシオは辺りを見回した。王宮の建物と神官の居住区の間にある森の中に自分達はいる。板が敷かれ道の形はしていても、あまり人は通らない。少し自分の方
が大きいとはいえ、シリスを担いで庵へ戻ることも王宮の建物へ行くことも難しいと思った。
誰か人が通らないかな、そう思っていたアレシオの目に小さな建物が映った。あそこまでなら、何とか行けるかもしれない。
「ねえ、肩に捕まれる? 」
アレシオはシリスに声をかけた。
まだ荒い息を漏らすシリスが小さく頷く。
アレシオは体を捻ってシリスに肩を掴ませると、シリスを背負った。
「ごめんなさい……」
荒い息の中でシリスが呟いた。
「ううん。悪いのは僕だよ」
二人きりになれると思ったら嬉しくて、シリスのことを考えていなかった。
シリスがかぶりを振ったのをアレシオは気配で感じた。
小屋に入ると、むっとしたかび臭さが鼻をついた。天井近くにある小さな窓から入る光でここが書庫であることを知った。背の高い書棚が部屋中に整然と並んで
い
て、そこには隙間なく本が詰まっているようだった。
部屋の隅にソファを見つけると、上に積もったほこりを掃って、アレシオはシリスを座らせた。
かび臭さと埃はいい環境とは思えなかったけれど、少し休まなければシリスは動けそうもなかった。
「ちょっと待ってて」
アレシオはシリスに声をかけ、小屋の外へ出た。小屋に入る前に小屋の角に小さな蛇口を見つけていて、水がでればいいなと思っていた。
願いながら蛇口をあけると、申し訳なさ程度の水がちょろちょろと出た。アレシオは水を口に含むと小屋へ戻った。
まだ荒い息をつくシリスの頬に手をあてると、シリスが力なく微笑む。あごに手をかけて口を少しあけさせると、自分の口でシリスの口を塞いだ。
驚いたらしいシリスが体をピクリとさせ、喉を鳴らしたけれど、そのままアレシオは自分の口に含んだ水をシリスの口へと注いだ。少し零れて、それでも、シリ
スは喉をごくりと言わせて飲み下した。
触れた唇はやっぱり少し冷たくて、柔らかかった。
自分の口の中に含んだ水が無くなっても、アレシオは唇を離したくなかった。
親愛の情として、頬のキスを受けることはよくある。けれど、人と唇を重ねたのは初めてで、胸の中がほわんと温かくなっていた。
突然バサッと音がして、埃が舞い上がってきて、息が苦しくなって、アレシオはシリスを離した。
ふと床を見ると、本が落ちていた。
どこから落ちたのだろうと、見上げると自分の背より少し高いところの一番端が空いていた。
――あそこ、か
そう思ってシリスを見た。
「大丈夫?」
アレシオが問いかけると、シリスが小さく頷く。
「もう少しお水飲む?」
アレシオにできるのは、それくらいだった。
「大丈夫です。アレシオさま……」
シリスは顔を伏せた。
「あ、ごめん、いやだった?」
水を飲ませてあげたいと思っただけだけれど、唇に触れるのはごく親しい間だけだと、ファービィが言っていたのを思い出した。
「いえ、いいえ。アレシオさま」
シリスは言いながら、頭を振った。
――落ちた本を元に戻さなければいけないかな。
もう一度落ちた本へ視線を向けると、アレシオは目に入った言葉が気になり、手にとって読み始めた。
神官との交わり―――― 一回り大きい字でその文字は書かれていた。
気力を高め、自然を読み取る能力を伸ばすことができる。
難しい言葉が書き連ねられている文章で、アレシオが読むことができたのはそれくらいだった。
交わり?
その言葉の意味することをアレシオは知らなかった。
「神王書」
シリスが呟いた。
「知っているの?」
シリスが表紙を示す。
「王と神官の理を示したものです」
補足するように言う。
ならば、そのうち自分も手にすることになるだろうとアレシオは思った。
しばらく小屋の中で休んで、息が落ち着いたシリスと、今度は歩いて庵へ戻った。
遊ぶことはできなかったけれど、二人きりの時間が持てて、アレシオはそれなりに嬉しかった。横を並んで歩く。それだけのことに胸が弾む自分を感じた。
ヒューにこってり絞られて、ハービィにもいつもより二倍くらいお小言をもらって、今度またシリスを連れ出すようなことがあれば、神官の居住区である庵へ行
くことを禁止すると言い渡された。
シリスはただ座っているだけだと思ったのは違ったらしい。
全ての神経を集中させて、自然と会話しているという。それは、体力を酷く消耗させることだという。言葉として理解はしても、実際どういうことかアレシオに
は分からなかった。
ヒューに睨まれながらも、アレシオはシリスのところへ通うことをやめなかった。木の上からただシリスを見ていた。
そんな努力は認められたらしい。
週に一回、アレシオはシリスと話す時間を認められた。