ハロスはエカティとの国境にほど近い農地が点在しているのどかな村だった。
村で長をしているというテリウスの父親の家は、村に入ってすぐ尋ねた村民が教えてくれた。
馬を引きながら、ジュデはナオトと並んで歩いていた。馬に乗っていると、話もできなければ、距離も遠い。
もう村に入ったし、まだ太陽は高い、急ぐ必要もないのだから、景色を見ながら、のんびり歩いたほうが良いと、ジュデがナオトに言った。特にする話があるわ
けじゃないけれど、ただ近くにいることを感じるだけでジュデは気持ちが安らいだ。
教えてもらった家の前に着くと、テリウスの父親らしき人物は庭に水を撒いていた。
元国務会議長のランス・パトリク。その人は十年ほど前に、王宮から姿を消した。
ナオトに気づいたらしいランスは、水をやる手を止め、ゆっくりと水の入った桶を地面に下ろすと、深深と頭を下げた。
「こんなところまで、よくいらっしゃいました」
懐かしそうに目を細めながら、ランスは飲み物の入った器をジュデとナオトの前に置いた。
まるで、ジュデたちが来ることを予期していたかのように、驚きはないようだった。なんの躊躇いもなく、家の中へ通してくれた。そして出してくれた飲み物
は、薄い鶯色をした爽やかな香りを放つものだった。お茶の一種ではあると思うけれど、ジュデには初めて感じた香りだった。
「テリウスから話を聞いていらっしゃったのですか?」
ジュデは疑問を口にした。突然の来訪者を驚きもせず迎えてくれた。それは、あらかじめ知っていたとしか思えなかった。
「いいえ。私はテリウスとはここ十年ほど連絡を絶っております」
よく見るとテリウスに似た涼しげな目元が、懐かしさを含む。返ってきた答えは意外なものだった。
「私は自分の意志で王宮を去った者です」
ランスはそう続けた。
その言葉には何か意味があるのだろう、とは思った。王宮を去らなければいけない何か、理由が。
ジュデは返す言葉が思いつかなかった。ナオトもそうなのか、視線を落とすとお茶を一口含んだ。
「おいしいですね」
ナオトがかけた言葉に、ランスは微笑み、
「ありがとうございます」
と軽く頭を下げた。
時間がゆったりと流れていく。ジュデはそんな気がした。静かにお茶を飲む。沈黙が心地よくさえ、感じた。
「私のことを覚えていらっしゃいますか? 」
ランスがナオトに尋ねた。
「微かに。私に対して優しい目を向けてくれた方は少なかったですから。まして、初めてお目にかかった方で微笑んでくださった方は私の記憶の中ではお一人で
した」
ランスが顔をゆがめる。
「それでも、お幸せだったでしょう? 」
「そうですね。私はとても幸せだった、いえ、幸せだと思います」
ナオトの答えにランスが今度は満足そうに、微笑んだ。
「ジュデさまも、覚えていらっしゃいますか? 」
ジュデに視線を向けて問う。ジュデは返す言葉に詰まった。
「――――ごめんなさい」
ナオトが覚えていると言うのに、なぜ自分は覚えていないのだろうと思う。テリウスにこの話を聞いた時、ナオトが一人でいる時に会ったのだと思っていたが、
違うらしい。
「無理もありませんね。まだお小さかったですから。それでも、とても元気でいらっしゃいましたが」
自分の知らない過去を他人が知っているというのは、なんだか落ち着かない。その時、自分はどうしていたのだろう、とジュデは不安になった。
「どこで、お会いしたのでしょうか? 」
王宮の中だろうか。それとも――――。
「エカティ王宮の近くにある広場で。ジュデさまは、木に登っておいででした。けれど、飛び降りてきて、私の前に立ちはだかりました」
「あ、ごめんなさい」
思わず、謝罪の言葉がでる。顔に似合わず元気が良すぎるとはよく言われた。子供だったからと言い訳はしても、年を重ねた今なら、木から飛び降りて人の前に
立ちはだかる、なんていうことは失礼なことだと分かる。
「いいえ。私はとても嬉しかったのです。その時は、あなたが皇子であることを知りませんでしたが、ナオトさまを守ってくださる方がいらっしゃったことは心
強かったのですよ」
――――ナオトを守る?
そう言われて、ひとつが光景が頭の中にポンと浮かんだ。
『ディンを苛めたら許さない』
そう言った気がする。ディンに近寄った人がいたから。ディンに近寄る知らない人はディンを苛めるのだと、その時は思っていた。でも、違ったことが一回だけ
あった。優しく微笑んだ人は頭を撫でてくれた。あまりにあっけなくて、その時のことは忘れていた。
「探しに来たのですか? 」
ユキナさまをディンを。エカティの王宮まで。
「どうしても納得できなかったものですから。なにより、ユキナさまが大切にされていたペンダントがないというのは、信じられないことでした。どこかにユキ
ナさまは隠れていらっしゃるのではないかと、そう信じておりました」
ランスの話を聞きながら、ジュデは疑問を持った。
ディンをユキナの子供だと分かったのだろうと思う。探していながら、なぜ、何もしなかったのか。
「ジュデさまは不思議そうな顔をしていらっしゃいますね」
ランスが続けた。
「ディンを、ううん、ナオトを見つけたのでしょう。でも、あなたは何もしなかった」
ランスと初めて会った広場ではしばらく一緒に話をしたり、遊んだりしたような気がする。スタンに見つかって、連れ戻されるとき、『お元気で』そうランスは
笑いかけてくれた。それから、何もなかった。もう、見ることも。
「お幸せそうに見えたので」
ランスは言った。
そして、
「王宮に連れて帰ることはできません。このような田舎でのんびりと過ごすことはできるでしょう。けれど、ジュデさま、あなたのようにナオトさまを理解して
くださる方ができるかどうかはわかりません。あなたのお傍にいることが良いのだろうと、あの時はそう思ったのです」
と続けた。
今夜はぜひお泊りくださいと言ってくれたランスの言葉に、ジュデとナオトは甘えることにした。
街に買い物に行っていたという、ランスの妻のアイラは、久しぶりのお客だといって、料理の腕を振るってくれた。
ハロスに来ること、それが今までの目的だった。テリウスの父に会い、目的は果たしたことになる。
明日から、どうするのだろう、とジュデは思った。
あてもないまま、村や町を回るのも良い。気に入ったところがあれば、そこに住む準備すれば良い。西へ行くのか、東へ行くのか。
「ナオト、明日からどうする? 」
ランスが用意してくれた部屋の二つ並んだベッドのうちのひとつにジュデは腰を降ろし、窓の影から外を見ているナオトに訊いた。
しばらく待っていたけれど、ナオトの返事がない。
「ナオト?」
窓へ近づいたジュデに、ナオトは向きを変えずに、人差し指を口元へ当てた。
静かに、とその仕草は示している。
ジュデはナオトの傍へ行き、窓の外をうかがった。小高いところにあるランスの家からは、辺りがよく見渡せた。暗闇の中を小さな火がちらちらと何個も動いて
いる。人が集まっているのだろう。もう暗いのに?
小さな灯りはひとつの場所を目指しているように見えた。そして、それらは予想通りひとつの場所に吸い込まれていく。
「私は様子を見てきますので、ジュデさまは先にお休みください」
窓に視線を向けたまま、小さい声でナオトは言った。
「僕も行く」
一人で置いていかれることは嫌だとジュデは思った。
「一人の方が動きやすいのです」
そう言ったナオトの腕をジュデは掴んだ。
「一人でなんて、行かせない」
何があるのか分からない。知らない土地、知らない人々。
ランスを疑うわけではないけれど、何か、はありそうだ。
「ジュデさまが心配なさることはありませんよ。たぶん」
ナオトはジュデの手に手を重ねた。
「でも」
「分かりました。では、一緒に参りましょう」
言いながら、ナオトは腕を掴んでいたジュデの手を取った。
空に散らばる星がきれいだった。
暑い季節ではあるけれど、太陽が沈んだ後は、涼しい優しい風が吹いていた。時折、少し強い風が長いナオトの髪を揺らす。
「気持ちいいね」
ジュデは呟いた。
視界がきかない夜は危険をさけるために動かない。だから、夜に並んで歩けることは滅多にあることじゃない。
「そうですね」
ナオトが答える。
答えながら、ナオトの思考は違うところへいっているのだと、ジュデは思った。
目的の建物が近づいてくると、ナオトが目配せをする。ジュデはナオトの後ろへ下がった。集会所らしい建物の窓は少し開けられていた。小さな声と灯りが漏れ
ている。静かに近寄ると、壁に身体をつけた。
微かにしか声は聞こえない。けれど、あまり近づくことも危険だろう。何が行われているか、わからないのだから。
「何をおっしゃっているのです」
ひときわ大きい声が聞こえた。
その声に答えた声は小さくて、ジュデにはよく聞こえなかった。ただ、『ナオト』という名前と『大事』という言葉だけが聞き取れた。ジュデよりも窓に近かっ
たナオトの方が聞こえたかもしれない。
「望まないはずがないではありませんか」
先ほどとは違う声だった。
「そうだ。ナオトさまに」
複数の声が口々に叫んでいた。