ジュデがマディバに来てから、二年の歳月が流れた。
近衛中隊をまかされるようになり、一年後にはユキナとの婚礼が待っている。
その準備は半ば公に進んでいた。

だからといって、ユキナとの間が近づいたわけではない。
週に一度の会食と、決められた歓談がユキナと関わる時間だった。私用でユキナが呼ぶのはテリウスに決まっていて、それについてジュデが不満に思うことも無 かった。
所詮、政略結婚などそんなものだと思う。
得られるものは、権力と何不自由ない生活。それを自分が望んでいるかどうかは問題ではない。王族として生まれた以上、最高の地位は国王であるし、望んでな れるものでもない。

特に大きな事件もなく、平穏に日々は過ぎていった。
ジュデは遅い昼食をとるために、詰め所から自室へ戻ろうとしていた。人が行きかう回廊で、向かいからこちらへ来る人物にふと視線が止まり、足まで止まって しまった。
――――え?
何事もないように通りすぎる人に声を掛けた。
「待って」
まるで、自分の声など聞こえないように通り過ぎる人に、もう一度声をかけた。
「待って下さい」
回廊に響きわたるほど大きな声で。
一瞬人々はみなジュデを見たけれど、ジュデの視線の先に自らがいないことを知ると、訝しげな表情をしながらも、動きだす。その中で、ジュデと、ジュデが目 に止めた人物と、その人を挟むように立つ二人の兵士が残された。

向かい合いながら、沈黙が流れる。怪訝そうな表情がジュデに向けられる。
「ディン」
ジュデは呟くように口にした。
応えるように、その人が口を開く。懐かしい声で聞こえたそれは、理解できない言葉だった。
「どうかなさいましたか?」
隣の兵が、まるで代わりのように声をかけてきた。
「ディン、ディンだよね」
もういないはずのディンが目に前に立っている。そうジュデは思った。
「お人違いではないですか?この方は今日初めて、こちらにいらした方です」
ジュデが話しかけた人ではなく、隣の兵士がジュデに応える。
「申し訳ありませんが、急ぎますので失礼いたします」
そう付け加えて、両脇の兵士はジュデに頭を下げ、踵を返す。ジュデがディンだと思ったその人は、ジュデに向かって軽く微笑むと兵士に倣って、振り返り歩い て行った。
「ディンだよ」
ジュデはその場を立ち去ることができずに呟いた。
上げた前髪と長い髪を束ねた姿は、以前のディンとは異なる印象を感じた。けれど、同じ髪の色と瞳の色を待ち、なにより、一目見てディンだと思ってしまっ た。
ディンはもういないと、分かっているはずなのに。

「ジュデさま、会議の時間ですよ」
突然かけられた声に、顔を上げると目の前にテリウスの顔があった。
「あ」
小さく声を上げると、ジュデは席を立った。
「珍しいですね。いつもは一番最初に席につかれている方が」
皮肉とも聞こえる言葉に、ジュデは視線を伏せた。
「ディンが」
いた――――そう言葉にすることはできなかった。いるはずはない。
「ああ」
テリウスが相槌を打つ。
「とても良く似ていらっしゃいますね」
「知ってるの?」
驚きで見上げると、テリウスは微かに笑う。
「ナオト・ユズハさま。王妃ユキナさまの甥にあたる方だそうです。もうお会いになったのですか?」
意味ありげな視線で問う。
「見かけただけ、だよ」
声をかけて、ディンだよね、と問いかけたことは言えなかった。
国務会に参加するようになって半年は過ぎただろうか。月に一回の定例会には、大きな議題が出されるはずなのに、ジュデは今日の内容を知らなかった。

いつも会議が行われる部屋へ、一歩入った途端、ジュデは足が止まってしまった。国王の隣にナオトが座っていた。
後ろから来たテリウスに押されるように中へ入る。いったい自分がどこに座るべきかさえ、忘れてしまい、あいていた席に座ろうしたら、テリウスに後ろから注 意された。
自分が自分ではなくなってしまったようだった。目にはナオトしか入らなかった。胸が痛くなって、苦しささえ感じた。
「今日は大切なお客さまをお迎えしましたので、ご紹介をさせていただきます」
全員が席に着いたことを確かめて、議長が発言した。
「ユキナさまの故郷であるジェインからいらした、ナオト・ユズハさまです」
隣の兵士から耳打ちされると、ナオトは席を立って頭を下げた。そのまま、腰を下ろす。
ナオトが腰を下ろすと、議長が補足するように付け加えた。
「ナオトさまは、まだこちらに来られたばかりで、言葉がよくお分かりになりません。色々な国について勉強されたいと各国を回っていらっしゃるそうです。王 宮に滞在することになりますので、お見知りおきください。今日は顔見せだけということですので、ここで退席していただきます」
議長の言葉に隣の兵士がナオトに耳打ちすると、ナオトは立ち上がり、口を開いた。けれど、それはやはりジュデには理解できない言葉だった。
「ナオトさまの言葉を通訳させていただきます。マディバはとても活気のある国だと聞いています。ぜひ、色々なことを吸収したいと思っております。ご指導よ ろしくお願いいたします。とのことです」
兵士の言葉の後で、ナオトは軽く頭を下げ、そのまま部屋を出ていった。
ジュデはずっとナオトを見ていた。というより、目が離せなかった。ナオトが部屋を出て行った後は、議長の言葉さえ、頭の中をすり抜けていった。
――――違う?
違って当たりまえだ。けれど、それをジュデは納得できなかった。

肩を叩かれたことで、ジュデははっと意識が戻った。いままで、座っていたはずの人達の影は既になかった。
「ジュデさま」
背後からテリウスの声がした。
「あ、もう少しここに座っていていいかな?」
とても立つ気にはなれなかった。
「それでは、交代の時間までにはお戻りください」
「うん、分かった」
言いながら軽く頷く。テリウスが後ろを抜け、部屋を出ていくのが気配で分かった。
一人になると、なお、心がざわめいた。
どうしてもディンに見えてしまう。違うとは思えない。回廊で会った少しの時間だけではなく、会議の場であったときも、ディンだと、そう思った。

「テリウス、ごめんなさい。見回りを誰かに交代して欲しいのだけれど、できるかな? できなければ――――」
見回り交代の少し前、ジュデは詰め所にいたテリウスにそう切り出した。テリウスがいなければ、仕方ないと思った。自分の仕事なのだから、やらなければいけ ない。けれど、何もなければよいが、何かあったときに対処できる自信はなかった。
どうしても、ナオトが気になる。頭から離れない。
「どうかしたのですか?」
テリウスがうかがうような視線を向ける。
「ちょっと、気分が悪くて」
まんざら嘘ではなかった。ざわざわする胸が止められない。
「そんなに、気になりますか?」
しっかり見抜かれている、そうジュデは思った。けれど、認めたくなくて、テリウスに答えを返すことができなかった。
「そんなに似ているというのなら、彼に代わりになってもらったらいかがですか?」
意外な言葉がテリウスの口からでてきた。
「代わり?」
「今はまだ無理ですが、言葉がわかるようになれば、あなたの隊に組み入れましょう」
「他国の人間なのに、軍隊に?」
「あなたもそうでしょう。ジュデさま、まあ、制限は加えられますが。ナオトさまは、剣はもとより、弓も得意だそうです」
「弓?」
「ええ、ジェインでは盛んだそうですから。強い戦力になります。まだ、ご本人には確認していないので分かりませんが、そうなれば、ジュデさまも気が紛れる のではないですか?」
――――気が紛れる? ディンの代わり?
少しジュデの返事を待っていたテリウスは、諦めたように手元の粘土板に視線を向けた。
「分かりました。それではジュデさまの代わりに――――」
「やっぱり、いいよ。テリウス」
ジュデはテリウスの言葉を遮ると。詰め所を飛び出した。
ディ ンの代わり――――そう思ったら、心臓の鼓動が激しくなった。一人で部屋に居たら、きっともてあましてしまう。大人しく部屋にいることなんてできない。部 屋を飛び出しあてもなく王宮の中を歩き回ってしまいそうだった。それでは、何のために代わってもらうのかわからない。今は仕事中なんだ、そう思ってジュデ はナオトのことを頭から追い出そうとした。
「違うんだね」
あんなに似ているのに。
ディンは、弓ができなかった。少しやったみたいだけど、どうしても曲がってしまうのだと言っていた。エカティでは必要なことではなかったから、そのままに なってしまったようだった。その後の話を聞いてはいないし、やっていた様子もない。

ナオトの弓の腕前を見る機会は意外に早くやってきた。
ユキナの発案で、王宮内でナオトを歓迎するパーティが行われた。その席上で弓の腕前を披露してもらうことになった。
参加者全員が弓を持ち、的を狙った。
弓をやったことがなかったジュデを含め、ほとんどの客はとんでもない方向へ弓矢を飛ばした。その中で、テリウスとナオトは群を抜いていた。
ナオトの弓から弾かれた矢はきれいな直線を引いて、的に突き刺さる。もしかしたら、と思っていたジュデの期待などこなごなに砕いてしまった。

――――代わり?
テリウスに言われてから、ジュデの心の片隅に居座っている言葉だった。
見ることができない、声を聞くことも、かけることもできない、触れることもできない、ディンの代わり。
その言葉に誘惑されそうになる。望んでしまいそうになる自分がいる。けれど、それをディンは許してくれるのだろうか、と不安になる自分もいる。

まだ話すことは十分ではないが、聞くことはほとんどできる、とナオトがジュデの隊に配属されたのは、ジュデがナオトを始めて見た日から一ヶ月が経ってい た。
「いつまでこちらに居られるのですか?」
朝礼に向かう道すがら、ジュデはナオトに訊いた。ずっと訊きたかったことだった。けれど、ジュデにナオトと話す機会は無かった。国を渡り歩いてきたという ナオトはどれくらい居るつもりなのだろう。それから、どうするのか。
「決めて、いません」
笑顔を見せながら、言葉を確かめるように、ゆっくりとナオトは言った。少ない言葉が物足りなく思えたけれど、言葉を覚えたばかりなのだから、仕方ないのか もしれない。
顔も、声もそっくりなのに、なぜディンじゃないのだろう。変な苛立ちが心に燻る。
王宮、東側の広場では、兵が整列して待っていた。その脇にテリウスの姿もあった。ナオトを迎える初日であったからか。
号令をかけ、いつもの挨拶を終えた後、ジュデはナオトを紹介した。正式な兵ではない。隊長付き、すなわち、ジュデの傍にいることになる。代わりにしなさ い、と言ったテリウスが約束を果たしてくれたということだ。
傍において、代わりだと思えばいいでしょう。そうすれば、あなたも楽になるになるでしょうと。

持ち場へ散るように、命令すると、兵たちは隊列をとりながら、移動する。兵たちの移動が終わるのを見届けると、ジュデたちは広場を後にした。交代で行って いる王宮の見回りの時間まで、詰め所で待機することになる。
「そういえば」
そうジュデは言葉にした。
「あなたの剣の腕前はまだ見せていただいてないですね」
ふとした思いつきだった。弓術は見せてもらっても、その時、剣にまでは話題がいかなかった。弓の腕を見ただけで、周りにいたものはため息しかでなかった。 十発放った矢は全て、的の真ん中を打ち抜いていた。
「少し、時間がありますから、お手合わせ願いますか? テリウスもいるし」
後ろを歩くテリウスに声をかける。
「おもしろそうですね」
テリウスが軽く笑いながら応えた。
「分かり、ました」
ナオトは少し不安げな表情をしながらも、承諾した。

中庭で、最初、テリウスとナオトが向かいあった。剣を構えるナオトの仕草を見て、ジュデは、はっと思った。右手で剣を剣筒から出し左手を添える、そんな普 通の仕草の中にディンを見つけた。タイミングを取るように、左手の手首を回転させる。それはたぶん、無意識でやっているのだろう、とジュデは思っていた。 かっこいいな、とジュデが真似をしたら、ディンに注意された。動作が遅れるから変な癖をつけない方がいいとその時ディンは言った。自分はやっているのに、 と不満にも思ったけれど、その不満を口にして、ディンがやめてしまったらつまらない、その時はそう思ったから、口にしなかった。ディンの秘密を知ってし まったようで、楽しくもあった。

同じ癖?
誰にも癖はあるものだ。巡り巡って同じ癖を持つ人物がいることもないわけじゃないだろう。でも――――。
テリウスとナオトは位置を変えながらしばらく睨みあっていた。それは、お互いの出方を見ているようで、先に剣を振ったナオトにテリウスが剣をあわせる。 2、3回剣をあわせたところで、テリウスが剣を手から落とした。落とされた剣は地中に突き刺さる。それは、あきらかにわざとだと思えた。
「短時間では、勝負がつきそうにありませんね。残念ですが、またの機会にしましょう」
そう言いながら、テリウスが地面から剣を引き抜いた。そのままジュデの方へ歩いてくる。
「次は、ジュデさまですよ」
テリウスがジュデに向かって微かに笑う。ナオトはジュデを見て、目を細めた。
ジュデはナオトの前に歩み出た。位置を測り、剣筒から剣を抜いて、ナオトを見る。さっきと同じように、テリウスを対したときと同じように、ナオトは剣を構 えた。左手が描く軌跡がジュデの頭の中で繰り返される。
ナオトと睨み合いながら、ジュデの思考は過去へ飛んでいく。ディンと数え切れないほど剣をあわせた、その頃に。
ディンが自分を傷つけるはずはないと思うから、ディンは自分がどんなことをしても交わせると信じているから、それこそ、思うがまま剣を振るった。それを、 全て受け止めてくれて、そして叱ってくれた。
いつも、先に剣を振るのはジュデだった。相手の隙をじっくりと見ることができなくて、だいたい、ディンに隙なんてあるんだろうか、と思っていた。テリウス もそうだ。隙なんて分からない。うっかり隙だと思うと、誘いだったりする。まだ、自分は未熟だと思う。なぜ、もっと、真剣にやってこなかったのか。甘やか されていたことが外にでて初めて分かった。

ナオトにも隙を見つけることはできない。それどころか、何処でも狙ってこい、というように見えた。ジュデが振った剣はナオトに受けられる。それは予定通 り。剣をあわせながら、相手の隙を探っていく。間合いをはかり、相手の裏をかく。
ナオトが振った剣をジュデが受ける。合わされた剣はお互いを弾く。何度も剣を合わせながら、ジュデは胸が熱くなって、目の前が霞んできた。
『左が弱い』
合わされた剣から声が聞こえる。それが、幻聴だということをジュデは分かっていた。
『遅い』
一瞬遅れた反応に、叱責が飛ぶ。ジュデだけに聞こえる声が。
剣をあわせていくと相手の強さが分かる。この相手に自分が勝つか負けるか、あるいは、同じ程度の力か。練習ではなく相手の力が見たいと言ったのだから、分 かったその時点で引けばよい。勝負をつける必要はない。テリウスのように。
数度剣をあわせて、ジュデにはこの勝負の先が見えた。だから、やめればいい。剣を引けば、相手も剣を引くだろう。
けれど、ジュデは終わらせたくなかった。なのに、向かいあいながら、間合いを測りながら、目の前が滲んで、ぼやけてくる。
ナオトが剣を引いて、剣筒に収めた。ジュデにはこれ以上続けられないと、分かったのだろう。
ジュデは、剣を握ったまま、地面にしゃがみこんでしまった。
――――ディンじゃない?
こんなに似ているのに、まるでディンと剣をあわせていると錯覚してしまうほど、似ているのに。

「ジュデさま、もうよろしいですか?」
近づいてきたテリウスがジュデに手を差し伸べた。
「あ、うん」
テリウスの手を借りて、ジュデは立ち上がった。
「どうでしたか?」
見ていて分かっただろう、と思うのにテリウスは訊いてきた。
「僕が敵う相手じゃない」
勝負はきっと、ナオトの思うがままだ。それほどの力がある。思うがまま剣を振るえたディンのように。
「ずっと、この国に留まって欲しいと思いませんか?」
テリウスが耳うちする。
「そうだね」
そう応えると、ジュデは剣を剣筒に収めた。
でも、本当にそう思ってる? ジュデは自分に問い返す。

あまりにもディンに似すぎていることが、苦しく思える。
あのとき、冷たくなったディンを見ていなければ、ナオトをディンだと疑いはしない。けれど、自分は見て、触れているから。あの冷たい感触を今でも思い出せ るから。理性の隅っこでディンじゃないと否定できる。
ディンは一人しかいない。だから、ディンじゃない。
代わり?――――そんなことできないよ。
ディンは言うんだろうね、テリウスみたいに。気が紛れるでしょうって。望まれるままにって。
頭では理解できても、気持ちはついていかない。ディンに対する思いはディンにしか向けられない。

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