風がそよぐ。
それは、ディンの声に聞こえた。優しく身体を包んで、ここにいるよ、と囁いてくれる。
見ることも、触れることも敵わないけれど、酷く頼りない存在だけれど、少しでも痕跡を掴みたいとジュデは思った。
――――ディン、ここにいるよね
応えてはくれないことは分かっていても、問いかけた。問いかけることで、少しでもかかわりたいと思った。
ディンは忘れろと言ったけれど、忘れたくは無かった。
何の争いもなく、退屈な毎日がただ過ぎていく。
ディンの件があった後、二週間ほどして、ジュデに一通の書簡が届いた。
フェスから送られたそれは、王宮に滞在したことのお礼とその後の近況が書かれていた。ディンに伝えて欲しい頼んだのはフェスだ。ディンに伝わったことは、
分かっている。けれど、フェスの書簡に、ディンのことが何も書かれていないことが、却って不思議だった。書簡は下読みされるから、迂闊なことを書けないの
は分かる。けれど、どこで会ったかくらいは、書いてもかまわないのではないか、と思う。わざわざ書簡を寄こしてくる内容でもないような気がする。人
を使って送るのだから、どうしても伝えたいことがあったはずだ。
何を? そう思ったときに、最後の文が気になった。
『昔、よく宝物を隠しましたね。先日、それを見つけて懐かしく思いました。あの楽しかった頃がまた来ないかと思っております。』
ただの昔話と流したけれど、何かを伝えたいとしたら、ここしかないような気がした。
雨の日の手慰みに、王宮にいる子供達がやっていた遊びのひとつ。それぞれみんな宝物を隠して、見つけた者がそれをもらえるというものだった。
狭い部屋の中では、すぐに見つかってしまった。ただひとつ、フェスが隠したものだけが見つからなかった。
みんな降参して、フェスにどこへ隠したのかを問いつめた。小さなガラス玉、それはフェスが使っていたお絵かき用の粘土板の中に埋め込まれていた。
粘土板に書かれた書簡。この中に、何かを埋め込んでいるのだろうか。
焼かれた粘土板は割らなければ、中を調べることはできない。もし、中のものまで割ってしまったら、取り返しはつかない。
だからといって、眺めていても何も変わりはしない。
ジュデは短剣を取り出すと、柄の先で粘土板の端を崩した。少しづつ、少しづつ。どこに何が入っているのかは分からない。少しづつ削っていくと、中に薄い粘
土板が入っているのがわかった。力を入れて叩いたら直ぐに割れてしまいそうな厚さに、慎重にそれを包んでいる粘土板を削った。
現れた粘土板は文字が刻まれていて、最後にはディンの署名があった。
きっと、フェスはディンから頼まれたのだろう、と想像はつく。
ジュデさま――――そう書かれた文字を見るだけで、これをディンが刻んだのかと思うと胸が苦しくなる。
『フェスから伝言を聞きました。とても信じられないことではありますが、ジュデさまのお言葉ですので信じます。ただ、ジュデさまには為すべきことがあるは
ずです。そのためには、私のことで動くことは良いことではありません。自分のことは自分で解決します。ですから、ジュデさまはご自分のことだけ、お考えく
ださい。どこにいても、ジュデさまがお健やかでいられることを祈っております。自分の道をお進みください。それが私の一番の願いです。ディン』
最初は躊躇いながら、けれど、どんどん目は文字を追っていき、読み終わったあとは、言葉が無かった。
テリウスが言っていたことは正しかったのだと、改めて思った。
父への思慕をひとつも読み取れない。ジュデさま、おやめください。そうディンが叫んでいるのが聞こえてくるようだった。
フェスに書簡を託し、すぐにマディバへ来たのだろうか。危険なことを止めさせるために。
いつもそうだね、ディン。
自分のことは省みないで。いつも、いつも守ってくれるんだ。
身体に増える傷だけではなく、命まで。
「僕の一番望んでいることは、ディンと一緒に居ることだったのに」
どんな環境でも良かった。恵まれた王宮の中でなくても、毎日の生活が安定していなくても、ただ傍に居られれば良い。傍でぬくもりを感じていられれば良い。
そう思っていた。
でも、ディンは違う。国のため、それが一番だ。
愛していると言ってくれた言葉を疑いはしない。けれど、そんな気持ちより、国の方が優先されるんだ。
どちらを選ぶかといったら、国を選ぶよね。でなければ、婚姻の話がでた時に、連れ出してくれたはずだ。
テリウスも同じ。だから、二人の言うことは同じなんだ。
ディンはもういないのだと、頭では理解していた。冷たい身体に触れたのだから。けれど、あれは夢ではなかったのかと、心の中ではどこか疑っていた。
ディンが刻んだ粘土板を読んで、ディンはもういないのだと、心も理解した。ディンは確かに意志を持ってここに来たんだ。
何かが突然すっぽり抜けて、心に空洞が現れる。そこを風が吹き抜けていく。
「本当に宝物だね」
ディンが最後に刻んだ文字。
「けれど、ディンはこれを僕が持っていることを望まないよね」
ディンが望むことはいつも、嫌だと思うことばかりだから。文字が読み取れないくらいに、粉々にしてしまいなさいって言うんだ、きっと。
「でも、もう、ディンは僕に何も言えないでしょう。僕の好きなようにしちゃうよ。ディンがいけないんだ。僕に何も言えないところへ行ってしまうから」
ジュデは棚から布を取り出すと、床に広げその中に薄い粘土板を置き、剣の柄で粘土板を叩いた。文章が読み取れないほど粉々に砕くと、欠片をひとつ手に取
る。
「これだけは持っていていいでしょう」
書簡の一番端、そこにはディンの名が刻まれていた。
小さな袋へ入れると、懐にしのばせ、その上に両手を重ねた。
「これで、一緒だよ。いつでも」
為すべきことを――――。
ディンの言葉が聞こえてくる。
うん、分かってる。
ジュデは心の中で応えた。
ジュデはテリウスに国王に取り次いで欲しいと頼んだ。
「国王さまにお願いしたいことがあるんだ」
そう言ったジュデに、テリウスは怪訝な視線を投げた。
「どういったことですか?」
恐る恐るといった風に問いかけてくる。
「ディンのことじゃないよ。自分がこれからどうしたらいいのか、考えた結果なんだ」
「私には言えないことですか?」
あくまでも、テリウスは疑っているようだった。
「軍に入隊したい、と思って。戦車も操れるようになったし、そんなに足手まといにはならないと思う。理論や作られた中での練習より実践の方が学べることも
多いと思うんだ」
「それは、正論ですが……」
どこか納得できない表情でテリウスが応えた。
「兵士とも、直接接した方が良いと思う。僕はよそ者だから、反発を感じる人もいるでしょう。僕を知ってもらって、それで反発されるのは仕方ない。けれど、
できるなら分かってもらいたい、と思う。ダメかな?」
「それは――――」
テリウスが困ったように口を噤んだ。
「本当に、それだけですか?」
再び、開いた口は疑問を告げる。
「国のためになることを、そう考えたら、王宮の中で安穏としていることじゃないって思う。国のため、そうディンが言うから、ディンの願いを叶えたい、安心
してもらいたいんだ。テリウス、それだけだよ」
まっすぐにテリウスの瞳を見る。そこには、疑念が読み取れた。
「本当だよ」
そうジュデは付け加えた。
「わかりました」
テリウスは観念したように、応えた。
近衛隊第11小隊長、それがジュデに与えられた地位だった。主に王宮と王族の警備にあたる数十人の兵士の統括を行う。
朝会の整列から始まり、王宮の見回り、外出する王族、謁見の場の警備、とジュデの生活は一変した。軍隊も初めてなら、隊長という地位も始めてのジュデに
は、テリウスが補佐についた。
テリウスが国王付きという特別な地位にあることをジュデは初めて知った。国王直属であり、必要なとき必要な人材を募る。部隊に所属していれば、制限され
ることも多いが、テリウスにはそれがない。通常国王からの命令はテリウスを通して行われる。それは、テリウスの命令は国王からの命令と同じだということ
だ。
王宮の見回りと警備は色々な情報をもたらしてくれた。
例えば、国王が誰と寝室を共にしているか。誰が誰の部屋へ尋ねてくるか。それは、絶対的な権力により、口に出すことは許されない。現に、情報を漏らした
と処分される兵士もいた。辺境の地への永久労働、それは、国を守るためにものでもあった。きれいごとでは済まされない、現実がそこにはあった。
「直ぐに音を上げられるかと思いました」
街中を見回っていたときに、隣を歩くテリウスが声をかけてきた。
「音をあげてなんか、いられないよ」
そう応えたジュデに、テリウスが笑いかけてくれる。仲間意識なのだろうか、以前とは少し関係が変わってきたような気がした。少なくとも以前は笑いかけてく
れることは無かった。
少しづつ慣れていくにつれ、テリウスが補ってくれることも少なくなっていく。テリウスのことを自分ひとりで占有できる人物だともジュデは思っていなかっ
た。きっとジュデな
らば抱えきれないほどの案件をテリウスは持っているのだろうと思える。テリウスに休む時間はあるのだろうか、と思うこともあった。
物取り、殺人、……安定している国とは言え、事件はある。ただ、街中の事件は主に衛兵の担当になっているので、ジュデに関わることは無かった。時折、治安
の維持のために街を見回ることはある。けれど、その時に事件がおこることなど無かったし、また確率も少ないと思えた。
だから、軍隊に入りたいと言ったジュデは許されたのだろう。厳選された人材が近衛隊には集められていた。警備の中に自らの身柄を置くようなものだ。
「テリウスさまっ」
ジュデが詰め所で待機していたときに、一人の兵士が駆け込んできた。
「テリウスはいないけれど、何か急用?」
その兵士は一瞬ためらいながらも、ジュデに頭を下げた。
「実は、アストラカンの潜伏先が分かったと、今」
アストラカン――――名前だけは聞いたことがある。敵国に情報を流す秘密組織らしい。
テリウスはたぶん、ユキナのとこにいる。呼ばれて行ったばかりだ。
「じゃあ、僕が行くよ」
そう言うと、ジュデは立ち上がった。潜入先ならば、賊の一人でも生きて捕らえれば良いのだろう。
「しかし」
「逃げられては、マズイでしょう。一刻をあらそうのだから、テリウスを探している時間は勿体ないよ」
「しかし、ジュデさま」
「知らせてきたものは何処にいるの?先に行っているから、ウイリィとフランゼを呼んできてくれる?」
腕のたつ二人の兵士を指名した。大勢で動くとどうしても目立つ、それはこの場合賢いこととは思えなかった。
「何もジュデさまが行かれることは」
「どこ?」
ジュデはただ質問を繰り返した。
「西門の詰め所に。しかし」
「大丈夫。責任は僕が取ります」
「テリウスさまの指示を待った方が――――」
「大丈夫だよ」
もう一度言うと、ジュデは詰め所を出て、西門へ向かった。
ウイリィとフランゼが来るのを待って、通報者と共に目的地へ向かった。通報者はジュデの顔を見ると、一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。テリウスが来ると思っ
ていたのだろう。たぶん、テリウスの手のものだ。
王宮の中だけではなく、街にもテリウスは密偵を持っている。テリウスのために動く人間がいる。
街外れの一見普通の民家に見えるそこは、静けさを保っていた。
「中に何人いるかわかる?」
「たぶん、五人くらいかと」
ジュデの問いに通報者は答える。
「五人か……」
ならば、特に策などいらない、三人で十分だ。
「気絶させるか、手か足を狙って。なるべく生きたまま捕まえたい。ただ、自衛は優先だよ」
ジュデはそう指示を出した。
「はっ」
ウイリィとフランゼは同時に応える。
外から中をうかがうと、三人の影だけは確認できた。二人は外へ出ているということか。帰りを待った方が良いのは分かる。けれど、時間はない。
ジュデは目線で指示を出すと、中へ押し入った。突然のことだったからだろう、部屋にいた者はあわてながら剣を構える。一番腕がたつだろうと思われる人物の
前にジュデは立った。
剣を掲げて睨みあう。相手が振りかぶってきた剣を受ける。相手の剣を受けながら、ジュデの心に迷いが生まれてきた。入隊したいと志願したときから、願って
いたことがやっと叶う。なのに、迷いは大きくなっていく。視線の端で、ウイリィとフランゼが相手を捕らえたのが分かった。縄を後ろ手に縛りあげて、ジュデ
の方へ向き直る。
「手出しは無用だよ」
二人に向かって、そう叫んだ。初めて剣をあわせたときに、分かった。向かってくる剣をはじくのなど簡単なことだと。
相手の剣がジュデの胸を突こうとしたとき、ジュデは身体を捻って、手で剣を叩き落した。剣すらいらない相手だ、そう思った。
ウイリィとフランゼが駆け寄り
縛りあげる。
「あなたの目的がわかりましたよ。ジュデさま」
背後からテリウスの声が聞こえた。後を追ってきたのだろうが、思っていたより早い。ジュデが王宮を出るときには、既に見えるところにいたのかもしれない。
「何でも、分かっちゃうんだね」
ジュデはひとつため息をこぼすと、そう呟いた。
きっと、ディンにも分かってしまっただろう。そして、非難するんだ。
「そんなことをして、何になるのですか」
声はテリウスなのに、ディンに言われているような気がした。
テリウスは、捕らえた者を官署へ送るよう連れてきた者に、残りの者を捕らえるために引き続きこの家の中に留まると、ジュデ、ウイリィ、フランゼに命じた。
ジュデは部屋の隅まで行くと床に腰をおろした。誰かが現れるまで待つしかない。ウイリィは扉の傍で外をうかがっていたし、フランゼは窓の端から外をうか
がっていた。何か変化があれば、知らせてくるだろう。
テリウスが、ジュデと背中合わせに座ってきた。
「僕を残していいの?」
独り言のようにジュデは呟いた。
「なぜ、そう思うのですか?」
背中を合わせたまま、テリウスが応える。
「僕の目的が分かったのでしょう?ならば、こんなところに僕を置いておくのは本意ではないでしょう?」
王宮に帰れ、と言われると思っていた。
「ジュデさまが、そんなに手柄を欲しがっているとは思いませんでした」
「テリウス」
「剣を交えるまでもない相手に、苦戦してみせるなど、演技もなかなかでしたよ」
「皮肉を言わないでよ」
「言いたくもなります。すっかり騙されていました」
「騙してなんかいないよ。ちゃんと国のために、動いているでしょう」
「あなたは彼の願いを叶えたいと言いました。彼の願いはあなたにこんなことをさせることではないはずです」
「国のために、動いてるよ。大きな組織の人間を捕らえることは大事なはずだ」
「何か誤解をしていますね?」
「え?」
振り向いたジュデにテリウスも視線を合わせる。
「愛する人を守りたいから、国のために動くのです。国のために、愛する人を失っては本末転倒です」
「でも、ディンは、国を守ることを一番に考えていたよ。国を守るために――――」
「命を落としても許される、と?」
ジュデの言葉を遮るようにテリウスが言った。
「だって、そうなってしまったら、仕方ないだろう」
「そうならないように、彼はあなたを仕込んだのでしょう。剣さえいらないような相手にやられて、仕方なかったで済ますつもりだったのですか?」
テリウスに見られたのは、たった一振り二振りだったと思うのに、すっかり見透かされていた。
「それでは、あなたのために命まで落とした彼は救われませんね」
言い捨てるように、テリウスは続けた。
ジュデはテリウスの視線から逃れるように、視線を伏せ、前へ向き直った。
分かってはいた。それが本末転倒なのは。
けれど、それが、一番早くディンに会える方法だと思った。
太陽が傾きかけた頃、馬のひずめの音が聞こえてきた。
フランゼが目配せをする。この家の主が帰ってきたらしい。ジュデが何をする間もなく、残りの者は取り押さえられた。
それから、何もテリウスは言わなかった。隊を辞めさせられるかと思ったけれど、何も変わらなかった。監視が厳しくなることも無かった。
ある意味見捨てられたようにも思った。お前なんか知らない、勝手にしろと。
テリウスに見捨てられるということは、ディンにも見捨てられることと同じだと思えた。
それは意図的だろうとはっきり分かるほど、テリウスはジュデの前に姿を見せなくなった。
しばらくぶりに回廊ですれ違ったテリウスの背後に向かって、ジュデは叫んだ。
「ごめんなさい。もう馬鹿なことはしないよ」
ごめん、ディン。そう心の中で呟いた。
大好きなディンが守ってくれたのに、それを無駄にしようとしてごめんなさい。
分かっているのに、ディンが何を望んでいるのか。
それを、自分の都合でまげてしまった。
「分かれば、いいのです」
足を止めたテリウスがゆっくり振り返り、答えてくれた。
テリウスの答えはそのままディンの言葉に聞こえる。
訊くことはできないから、ただ願うだけだけれど、ディンも許してくれると思った。