ジュデは地下牢に入ったことは無かった。
ただ一度だけ、入り口の前を通ったことがある。そこは、壁にぽっかりと黒い口を開けていた。逃げ出してしまった馬を追いかけて、足を踏みいれたことのない
王宮の北の庭へ入ってしまったときのことだ。
馬を探すことよりも気になって、先を進めなくなった。かと言って、一人で中に入る勇気もない。
「ここは、何?」
後を追ってきたテリウスにジュデは尋ねた。王宮内を案内してくれたとき、ここは通らなかった。大して重要なところでも、ジュデにとって必要なところでもな
いのだろう。けれど、なにか不気味な感じがして、知らずにいることを怖いと感じた。そこに何があるのか、知ってしまえばなんでもないことが結
構あるものだ。知らないことは、それだけで不安にもなる。
「そこは、地下牢です。ジュデさまには関係のないところです」
事務的な声でテリウスは答えた。感情のない声、テリウスは意図的にそう接しているのだと、ジュデは思っていた。家臣として、ただ付いているのだと、示して
いるように。それでも、ジュデが望むそれ以上のことをテリウスはしてくれるから、この王宮の中では一番信頼はできる人物だった。
「牢なのに……番人はいないの?」
ただ、ぽっかりと壁に口をあけただけのところ。捕らえた人を入れるところならば、、見張る番人が必要なはずだ。周りに小屋もない。
「ここが使われることは滅多にございません。国内で警備が一番厳しい王宮で、何も好き好んで悪さを行う者もいないでしょう」
「王宮で捕らえられた者だけが入る場所?」
「そうです。一時的に捕らえておく場所です。王宮内に長く罪人を留めておくのも賢明とは言えません。せいぜい一昼夜、捕らえられた者がいる時だけ、見張り
を置きます」
テリウスの答えは、納得できるもので、その時はただ通りすぎた。
あの場所に、今、ディンがいるかもしれない。
ディンかどうか、それは会って確かめるしかなかった。そうかもしれない、とか、違うかもしれない、とかそんなあやふやなことで済ますわけにはいかない。
今までに一度しか行ったことのない場所に、ジュデは日が落ちてから向かった。少しでも人の目をさけるために。
地下牢の入り口には、松明を掲げた兵士が両脇に立っていた。それは、捕らえられた人がいることを物語っている。少し離れたところに、焚き火の番をしている
兵士が一人いる。三人で見張っているということか。
ジュデが近づくと、ジュデに気が付いた兵士が片手に剣を掴み、松明を掲げる。やっと闇に慣れてきた目が火に照らされて、視界がぼやけ、立ち止まった。
「ジュデさま、こんなところに何用ですか?」
火が遠ざかり、声を発した兵士の顔が見えた。国王付きの兵士の一人であり、何度か顔を見たことがある。
「ユキナさまに頼まれて、捕らえられている者に少し聞きたいことがあります」
罪人に会うというコトは、たぶん、ジュデの一存でできることではないだろう。一度止められてしまっては、機会がなくなる。ユキナの名前をだしたのは一か八
かのかけだった。
ユキナに確かめられればわかるだろう。その時間だけでも良い。とにかく、ディンかどうかだけでも確かめなければいけない。
「ジュデさまのいらっしゃるところではありません。私が訊いて参ります。どのようなことでしょうか?」
「いいんだ」
ジュデはそう答えると強引に兵の間を割り、入り口を抜けた。
「ジュデさまっ」
入り口から呼ぶ声を無視するように、足早に先に進んだ。ジュデに剣を向けることはないだろう、とは思っていた。後を追ってこられるだろうかと思ったが、後
から追ってくる足
音は無かった。所々松明が置かれてはいても、内部は薄暗かった。入ったときは気が付かなかったけれど、しばらく進むと、湿っぽい生臭い匂いを
ジュデは感じた。思わず、顔をゆがめてしまうほどの匂い。苔の類なのだろうか、松明で照らされる壁は薄黒い緑色のものがあちこちにこびりついている。罪人
を捕らえるところであり、日ごろ使う場所でもないからか、手入れなどはされていないのだろう。太陽さえ当たらない、逃げるところのない空気は淀んでいる。
しばらく歩くと奥に突き当たり、開けた横を見ると、檻が並んでいるのがぼんやりと見えた。
――――ここにいる?
檻の中でひとつだけ、薄い明かりが揺らめいている場所がある。そこだろうか、とジュデは足を進めた。
こんなところにディンがいるはずはない、そう思おうとした。
早く確かめたいと思うのに、足はなかなか進まなかった。一歩一歩、それでも目的の場所は近づいてくる。
あと一歩踏み出せば、檻の前に出る。そこでジュデは立ち止まった。ゆっくりしている時間もない。ユキナに頼まれたというのが嘘だとばれれば、連れ出されて
しまうだろう。
一呼吸息を整えると、ゆっくりと一歩を踏み出した。足音で人が来る気配を感じていたのだろう。壁に凭れるように毛布で身体を包んでいた者が、檻の外へ視線
を向けていた。
「ディン」
ジュデは思わず叫んでいた。駆け寄って檻の格子に手をかけた。まさかとは思いながらも、認めたくはないと思いながらも、きっとディンだと思っていた。やっ
ぱり、という言葉が頭の中で回る。
ディンは驚きの瞳でジュデを見ると、そのまま顔を伏せた。
「ディン、なぜ?」
そこまでしか言葉ができなかった。なぜ、待っていてくれなかった。
ディンはゆっくり毛布を落とすと、ジュデの前に跪く。
「お久しぶりです。ジュデさま」
「ディン、ディン」
格子を挟んでいることが煩わしかった。腕を伸ばして抱き寄せたいのに、硬い枠はそれを阻む。
ディンは顔をあげると人差し指を口に当てた。静かに、という仕草にジュデは言葉を呑んだ。
「ここは、ジュデさまがいらっしゃるところではありません」
「だって、ディン」
「罪人と通じていると知られたら、ジュデさまのお立場だけでなく、国にも良いことはありません」
「ディンは何もしていない、じゃないか」
「事実は関係ありません。王族の言葉の方が優先されます」
「そんなの」
「エカティでもそうでしたよ」
「でも」
「私のことは忘れて、ジュデさまにはやるべきことがあるはずです」
「そんなの、嫌だ。ディンが見てくれていると思うから、ディンが見守っていてくれると思うから、だからがんばれるんだ。ディンを忘れるなんて嫌だ」
ジュデの格子を握る手に力が入る。こんなもの壊してしまいたい。今すぐ連れ出したい。思うだけでできないことは分かっている。それが悔しい。
ディンが格子を掴んでいたジュデの手に触れた。暖かい、昔と変わらない暖かさをもつそれをジュデはすがるように握り締めた。ディンのぬくもりが触れたこと
に酷く安心した。
「私はどこからでも、ジュデさまを見守っています。ジュデさま――――私の愛したジュデさまならできるはずです」
ディンの言葉にジュデはディンの顔を覗き込んだ。
――――ディン?
言葉は出なかった。胸が熱くなってくる。こんな時に、そんな言葉をくれるのはずるいよ、ジュデは心の中で不満をこぼした。
ディンは優しく笑うと、ジュデの手を握り返し、手をすっと引いた。ジュデの手は空間に取り残される。
「ジュデさまのおかげで、父と会うことができました。ありがとうございます。最後にジュデさまにお会いできて心残りはありません」
「ディン?」
「ジュデさまなら、成し遂げられます。ですから、前を向いて先を進んでください」
「でも、ディン」
「ジュデさま、今何をするべきか考えてください。何のためにこの国に来たのか」
「それは――――」
「私はジュデさまが王冠を頂く姿を見たいと思います。それが、私の願いでもあります。ですから、早く」
ジュデは格子を握り締めた。こんなところにディンを置いたまま、行くことなんてできない。
どうしたら、どうしたら――――その言葉がジュデの頭に渦巻くだけで何も解決策は考えられない。
「ジュデさま。私を失望させたいのですか?」
いつもとは違うディンの冷たい声が沈黙を破った。聞いたことのない声音が胸を針のように刺す。
ジュデが顔をあげると、ディンが冷たくジュデを見下ろす。目を細め、非難するように。
「ディン」
「立ち上がって、ここを出て行ってください。そんなジュデさまを私は見たくありません」
言い捨てると、背中を見せる。
「嫌だ、ディン」
「ジュデさま、立ち上がって」
ディンの言葉は凛としていた。罪人として囚われたというのに少しの弱さも見えない。
自分がこれ以上留まっていたら、ディンに嫌われるとジュデは思った。
それはジュデにとって一番あって欲しくないことだった。
「ジュデさまは為すべき事をなさってください」
立ち上がったジュデにかけたディンの声音はいつものものに戻っていた。
「ディン」
ディンはゆっくり振り返ると笑顔を見せる。
「お健やかに」
そう言葉にすると、早くと仕草で促す。
「大好きだよ、ディン」
ジュデはそれだけを告げると背中を向けた。
「ジュデさま、私もです」
ディンの声は優しかった。
その声を背中で感じて、ジュデは一歩前へ踏み出した。きっと、振り向いたら、もう先に進むことはできなくなってしまうと思ったから。
ディンに嫌われてしまうのは嫌だから。ジュデは前を見るしか無かった。
どうすればいいのだろう――――それだけが、頭の中を回っていた。
地下牢の入り口を抜けると、見張りの兵士の他にテリウスが立っていた。
「テリウス」
「ジュデさま、好奇心もいい加減になさってください。部屋までお送りしますので」
テリウスは冷たい声で言い、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい」
そう口にしたジュデの言葉が聞こえないかのように、テリウスは前へ進むように促す。
来た時は、暗い庭を月明かりを頼りに歩いてきた。今は後ろにいるテリウスが松明をかざす。
「テリウス?」
兵士の姿が消え、静けさが辺りを包むなかで、後ろを歩くテリウスに声をかけた。
「何でしょうか」
「どうなるのかな、あの、捕まった人は」
ジュデがテリウスに顔を向けても、ジュデの問いに返る言葉は無かった。
部外者は知る必要がないということなのか。ならば、尚更、ディンを助けだすのは難しい。
「今、最高機関である国務会が行われています。そちらでの結果待ちです」
少しの沈黙の後、テリウスは答えをくれた。
「何をやったの?彼は」
テリウスが答えてくれたコトに、ほっとして問いかけた。知りたい、何でもいいから。その中にディンを助けだすヒントはないだろうか。
「それも、今審議中です」
「それって」
思わず声がでた。何もやってない者を無理やり罪人にしているように感じた。
「王弟陛下が反逆者だと言われたら、反逆者なのです。彼にとって不幸だったのは、個室ではなく謁見の席であったことです。多数のものが聞いた言葉は無いこ
とにはできません」
「でも」
「王族は絶対の存在です。そうでなければ国は安定しません」
「でも、彼は」
皇太子なんだ。ディンも父に会えたと言っていた。そう喉まで言葉があがってくる。けれど、声にすることは躊躇ってしまった。確証はない。
「ジュデさま。好奇心もいい加減になさってくださいと申し上げたはずです」
「あ、でも、彼の持っていたペンダントは?」
ユキナの話ではディンは差し出したと言った。
「ジュデさま、これ以上このコトに踏み込まれると、あなたの立場も悪くなります。少し謹んでいただけないでしょうか。国務会で全て決められます。そして決
定どおりにコトは進められます。それだけです」
テリウスの厳しい言葉はこれ以上の質問は許さないと暗に伝えてくるようだった。
国務会にジュデは一度オブザーバーとして出たことがある。国王、王弟、数人の貴族と月ごとに変わる数人の部族の長が集まり意見を出し、審議する。内容に
よってメンバーは変わるというから今回は誰がでているのか分からない。
「今夜は外には出られませんように」
テリウスはジュデを部屋まで送ると、扉の前で言った。
「警備が厳しくなっております。不審者と間違えられる可能性もありますので、絶対外には出られませんように」
返事をしなかったジュデに、念を押すように再度言う。
「わかりました」
しぶしぶ答えたジュデに軽く頭を下げるとテリウスは来た道を戻って行った。
ディンを助けることはできないと、テリウスの言葉から読み取れた。関わるなと言っていた。ディンと同じように。
ディンを助けることはできないと、そうはっきり言われたとしても諦めることなどできない。
明かりを落とした部屋の中で、ジュデは窓から外を眺めながら、思いを巡らした。どうすればいいのだろう。
ユキナとテリウスに助けてもらうことはできない。王宮の兵士に信頼できる者はいない。言いつけたことに従ってはくれる。けれど、それはただこの国に忠実な
だけだ。身の危険を感じるかも知れないことに加担してくれるとは思えない。
国王に直接訴えるしかないのだろうか。
はたして、自分の意見がどこまで信用されるのか。王弟陛下と比べれば戦うまでに勝負は決まっている。正攻法ではいけない。何か、国に利益があること。ディ
ンを釈放することで、国に利益があることをみつけなければいけない。
国の父母に頼んで――――そう考えがいったところで、かぶりを振った。心配をかけるだけじゃない。下手をすれば国同士の争いになってしまう。今、父母が力
を貸してくれるとも思えない。
黒い絨毯に小さな宝石をちりばめたような空が少しづつ明かりを取り戻していった。空が青く見えるころ、地平線にオレンジの帯が広がる。
時間は過ぎていくのに、良い考えなど浮かばない。地下牢に留めておくのはせいぜい一昼夜だとテリウスは言っていた。今日の午後にはディンに何かしらの決定
が下される。それまでに、何か案を。そう思うだけで何も浮かばない。
いつもの時間に、マダム・チャウは朝食の用意を整えてくれた。焼きたてのパンは香ばしくて、スープは舌に優しい。
ディンは何か食べ物を口にしているのだろうか、そう思ったらと心が騒いで落ち着かなくなった。夜は明けたのだから、もうテリウスの言葉に逆らうことにはな
らない。食事が終わったら、そう、朝の講義が始まる前に、ディンにパンを持っていこう。ディンに怒られるかもしれない、だけど、ディンの顔を見ないと、何
も手につきそうにない。
パンをひとつ取り膝においていた掛け布にくるもうとした時、重く大きな鐘の音がひとつだけ聞こえた。
ジュデがマディバに来て聞いたことのある鐘の音はもっと軽くて打ち鳴らすように何回も鳴っていたし、それは夕方に限ったことだった。それは、教会で祭事が
ある時にならされる鐘の音だという。
窓の傍で繕いものをしていたマダム・チャウが顔を上げて「まあ」と低く呟いた。
「何かあったの?」
鐘の音は何かを知らせるものだ。少なくとも、エカティでは。
「処刑があったようですね。ここしばらくは無かったのですが」
マダム・チャウはジュデに答えると、また繕いものを始めた。
処刑?
その言葉が頭の中で段々と大きくなる。
まさか?
ジュデはそのまま、立ち上がると部屋を飛び出した。膝からパンと掛け布が落ちたのが分かったけれど、拾うことはできなかった。後ろからジュデを呼ぶマダ
ム・チャウの声が聞こえたけれど、応える余裕も無かった。食事中に席を立つのは良くないこととは知っている。
――――ごめんなさい。マダム・チャウ
心の中で謝りながら、ジュデは走った。絶対に違う、それを確かめるだけ、と。
居室は王宮の南側に立っている。北側の庭は王宮の中ではもっとも遠い。普通は人の足で走っていく場所ではない。速さを考えれば馬を取りに行ったほうが早
い。この間は夜であったし、目立ちたくは無かった。だから馬は使わなかったけれど、今は少しでも早く着きたい。けれど、馬を取りに行くことさえ、煩わしく
思える。一直線にディンのいるところまで、行くことしか考えられなかった。
地下牢の前に兵士がいれば良い、それだけ確認すれば良い。
それだけ。
けれど、地下牢は初めて見た時と同じように、ぽっかりと黒い空間をあけているだけだった。
それは、もうそこにディンがいないことを示していた。
それを信じたくなくて、ディンは地下牢の中へ足を踏み入れた。太陽の光は届かない。用のない空間に松明も置かれてはいない。ほんの入り口だけ、明かりが差
し込んでいても奥は真っ暗な闇が広がっている。
何も見えないそこへ行くことは、恐怖が募る。ディンが居るはずはない、どう考えても。それでも、そこから去ることはできなかった。
暗闇を歩くために、頼りになるものは何もない。
ジュデはそっと壁に手を這わせた。柔らかいぬるっとしたものが手に触れる。気味悪さに一旦引いてしまった手を恐る恐る戻した。壁を伝っていくしか方法は無
かった。暗闇をまっすぐ歩く自信もなければ、突き当たりも分からない。
ゆっくりと一歩一歩歩きながら、心臓は早く大きな鼓動を響かせていた。
暗闇に恐怖心を駈られる。けれど、この先にディンに居て欲しい。兵士はきっと交代の時間で、通路の松明は時間が経ち消えただけだ。奥に、きっとディンはい
る。
昨日より、はるかに長い時間をかけ、たどりついた先は、期待に反して誰もいなかった。暗闇に慣れた目がぼんやりと辺りを映す。
「ディン?」
呼びかけた声に返ってくるものもなかった。
ディンはいない。そう思うと恐怖心が全身を襲った。暗闇が自分を襲ってくるように感じる。迫ってくる暗闇から逃れるように、踵を返すと微かに見える明かり
に向かってジュデは走った。後ろから闇が追いかけてくる。大きな手を広げて、ジュデを包み込もうとする。すぐそこまで迫っていた闇がふっと消えたと感じた
とき、ジュデは外に出ていた。
――――違う
荒い息を整えながら、そう思った。
「違うよ」
地面に跪き、呟く。
どこかへ移されただけ。きっとそうだ。
ディンは皇太子なんだ。処刑なんて、ある筈がない。あっちゃいけない。
いくら言葉で否定しても、胸のざわめきは収まらない。
「ディン」
呼んだ声に返る声はなく、風に流されるように消えていく。
「どこにいるの?」
訊いた言葉に返ってくるのは、風の音だけだった。