フェスも小さい頃からジュデの傍にいた。両親が王宮に勤めていることもありフェスが王宮にいる
ことは大人にとって都合が良かったのだろう。、仕えるというよりは遊び相手に近かった。歳はジュデよりも一歳上であり、大人しく、外に出て駆け回るより
は、絵を描いたり、物を読むことを好んだ。ジュデとディンが木登
りをしている時、フェスは下で土に枝で絵を描いていた。昔から細い金髪の髪を編みこむように束ねていて、いつも優しい笑みをたたえていた。それは今でも変
わらない。今の目前にいるフェスも。
「あ……フェス、遠いところをよく来てくれました。ありがとう」
懐かしい気持ちはある。よく擦り傷を作ってしまうジュデとディンを手当てしてくれたのはフェスだった。大人に知られたら、お小言は免れないからと、こっそ
りと傷薬をとってきて、手当てをしてくれた。木から落ちて、二人とも動けなかったときに、人を呼んできてくれたのもフェスだ。
馬に乗るようになってから、ジュデはフェスとはあまり行動を共にしなくなった。運動が得意ではないフェスに乗馬を無理強いはできなかった。
それでも、雨の日につまらなそうに部屋でくすぶるジュデにフェスは物語を聞かせてくれた。遠い遠い昔の話をフェスはどこで読んだのか、聞いたのか。わくわ
くする冒険がそこにはあった。
フェスがくすりと笑った。
「ディンではなくて残念だと、お顔に描いてあります。期待させて申し訳ありません」
それは、勝手に思い込んで、ユキナの話もそこそこに飛び出してきたジュデが悪い。
「そんなことないよ。フェスに会えてうれしいよ。本当だよ、フェス」
取り繕うような言葉を告げた後、笑おうとしたのに、顔は上手く動いてくれなかった。
「ジュデさま――――何かをしていらっしゃった途中ではないのですか?」
フェスの問いかけに自分の姿を見下ろした。
長い剣を腰にさしたまま、それも、裾の短い服では、王族として客に向かう服装ではない。それを、ジュデは忘れていた。
「あ、」
声を上げたジュデに、フェスは、また、くすりと笑う。
「私は今日、ここに泊めていただくことになりました。ジュデさまとお話しをしたく思いますが、まだ時間はたっぷりありますのでどうぞ、私にはかまわず、用
をお続けください」
以前とかわらぬ、穏やかな声でフェスは言った。
「ありがとう――――フェスは変わらないね」
穏やかさも優しさも、暖かさも。
「そうでしょうか……ジュデさまは、お変わりになられましたね。凛々しくおなりになりました。きっとディンもジュデさまにお会いしたいと思っていると思い
ます」
――――ディン
自分の頭の中では、いつも繰り返している言葉なのに人の声で聞いて、ジュデは胸が熱くなった。
「そんなことはないよ。……僕も、話たいことはたくさんあるんだ。夕食を一緒に取れるようにしてもらおうと思うけれど、いいかな?」
「光栄です。ジュデさま」
フェスが頭を下げる。
「じゃあ、また、その時に」
「分かりました」
フェスがもう一度頭を下げた。
ジュデはフェスに笑いかけると、ドアを閉めた。今度は上手く笑えたことにほっとした。
閉じたドアの前で、周りを見回す。人がいないことを確認すると、ジュデは小さく息を吐いた。
フェスに会えたことは確かにうれしい。けれど、それ以上に、ディンへの気持ちが膨れあがるのを感じた。忘れることは無かったと、そう思いながらも、今まで
は奥底に沈んでいた気持ちが膨れ上がってくる。
いつも傍にいたはずだった。居て欲しいときに、来て欲しい時に、いつも。
それを、懐かしい顔を見て、現実だったと確認させられる。ディンを思い浮かべるのは、頭の中だった。そこでは、現実と空想の境を彷徨っていて、頭の中では
鮮明に描き出せるそれは、現実ではない。
今、ここにフェスはいる。フェスがいる時には、いつもディンがいたはずだ。なのに、なのに、なぜディンはいないのだろう。なぜ、ディンは来てくれなかった
のだろう。そのことが、胸を締め付ける。
小さいため息をもうひとつこぼすと、ジュデはフェスのいた部屋を離れた。
マダム・チャウは食事の支度を終えると、軽く頭を下げ挨拶をし、部屋から出ていった。
それがマダム・チャウの気配りだと分かる。一人であるいつもとは違う。目の前には、フェスが座っている。
「懐かしく思うよ。たった一年しか経っていないのに」
そう言ったジュデに、フェスはただ優しく笑った。
「みんな元気?変わりない?」
そうジュデが続けると、
「皆様、お元気ですよ。ただ……」
フェスはジュデに答え、視線を落とした。
「ただ?」
聞き返したジュデに、フェスは一度開きかけた口を噤む。それは、楽しい話ではないと、ジュデは感じた。
「――――先に食事にしよう。マダム・チャウの料理は美味しいんだ。温かいうちに頂こう」
意識的に明るい声を出し、ジュデはフェスに皿を勧めた。食事を始める前に、悲しい気持ちにはなりたくなかった。せっかく来てくれたフェスのためにも、せめ
てひとつ
は楽しい思いを持って帰って欲しかった。自国へ帰れば、フェスはこの国でのことを国王や王妃に報告するだろう。自分は元気で、恵まれた環境にいるのだと、
知って欲しかった。きっ
と、遠くで案じることしかできない、父や母に。
「おいしい――――」
スープに口をつけたフェスが呟く。
「でしょう。この国は食材が豊富だから」
痩せた土地しか持たないエカティとは違う。豊富な物資が集まってくる。それを豊かだと人は表現するのだろう。豊かだからこそ、欲望も大きくなるのかもしれ
ない。食べられることは当たり前、人はその先を欲する。美味しいもの、手には入り難いものを。それを手に入れられる権力を。
食事をしながら、ジュデはマディバに来てからのことを話した。国の政治や歴史の講義、乗馬や剣の練習、エカティにいたときと、何も変わりがないことを。い
つもの食事の時は、マダム・チャウが楽しい話をしてくれることも。話と聞いて、聞きたいと言ったフェスに、この間聞いた、話をした。嵐で沈没した船に乗っ
ていた傷ついた兵士を献身的に看病した女の人が見初められて王妃になった話。それは、聞いていた時には、気づかなかったけれど、王妃ユキナのことだったか
もしれない。ジュデはフェスに聞かせながらそう思った。
食事が終わったことを知らせる鈴をジュデが鳴らすと、ほんの少しの時間を置いて、マダム・チャウが部屋が来てくれた。空いた皿を下げ、果物が盛られた大皿
と飲み物を置いてくれる。陶器の茶碗に入れられた飲みものは、爽やかな香りを持ち琥珀色をしていた。
「いい香りですね」
フェスが琥珀色を湛える陶器に顔を近づける。
「うん。紅い茶と言うんだ」
草の葉を煎じて飲む。それはエカティにもある。草の種類によって、味も香りも違う。時には病を治すこともある。紅い茶は、高貴な香りがすると好まれてい
た。
「フェス、さっき言いかけたことは何?」
食事中もジュデはずっと気になっていた。それがディンのことでなければよいのに。そうは思ってみても、きっとディンのことなのだろうと思う。エカティ自体
に何か動きがあるとは聞かない。隣国として、エカティの情報は入ってくる。そこに問題だと感じられることはない。
「ディンは――――」
フェスの言葉に身体がこわばるのが分かった。やっぱり――――。
「ディンが、どうかしたの?」
ジュデはフェスの言葉を待ってはいられなかった。催促するように、問いかける。
「大したことではないのです」
フェスはあわててかぶりを振り、続けた。
「ジュデさまが王宮を離れた後、ディンも王宮を出ていきました」
「何処へ?」
思わず、言葉が出た。何処へ、ディンは何処へ、そう心が急かす。ジュデが18歳になるまで、ディンは王宮を出ていかないと言った。それは、ジュデが王宮を
離れたことで、意味がなくなったかもしれない。それでも、その時ジュデにはエカティに戻る希望はあった。
「――――分かりません。ただ、街で見かけたという話も聞きます。国の何処かにいるのではないかと思いますが、場所はわかりません」
「何故?何故、ディンは王宮を出たの?」
そんなことをフェスに聞いても応えられないだろう、と頭では分かっているのに言葉がでてしまう。
「ジュデさまがいなくなって出世する道も絶たれたからだろう、と言う者もいます」
「そんな」
ディンは周りからそんな風に見られていたのかと思うと、ショックが先にたった。
「それは、ごく少数の者です。ただ、何故かは分からないのです。ジュデさまの身を案じるならば、王宮にいた方がジュデさまの情報は入ってくるでしょう。も
しかすると、という話もあったのですが」
「え、何?」
「単なる憶測です。街で見かけたという話から、その可能性はなくなりました」
「フェス、はっきり言って」
期せず、口調がきつくなったことに、ジュデは唇を噛んだ。ディンがいなくなったと聞いて、直ぐにでも確かめたいと思っても自由になる身体はない。
「ジュデさまを追ってマディバへ行ったのではないか、とも言われていました。ディンほどの剣の使い手ならば軍に入隊することも可能だろうと」
「ディンが?」
「ですが、違ったようです」
フェスの答えにジュデは視線を落とした。
「すみません。ジュデさまを期待させるようなことを言ってしまいました」
フェスの声は、自分を責めているように聞こえた。
「いいんだ。フェス」
ジュデはかぶりを振った。「教えてくれてありがとう。ディンはまだ、エカティにいるってことだよね」
まだ、父親を捜すために旅立ったわけじゃない。まだ、遠くへ行ってしまったわけではない。
「はい、そうかと。ディンが国王さまや王妃さまに何も告げずに何処かへ行くとは考えられません。国王さまに尋ねてみればわかることなのかもしれません」
ディンのことはよく思っていない人もいる。それは素性が分からないからだ。
ディンに、あなたの父はマディバの王なのだと告げることはできないだろうかとジュデは思った。そうできれば、人の目より、何よりディンが安心するはずだ。
ジュデはそう思った。
――――フェスに頼むことはできないだろうか。
まだエカティにいるというディンに、手遅れにならないうちに。けれど、フェスに伝えても良いのだろうか。フェスは自分の話を信じてくれるだろうか。
「フェス」
呼びかけながらジュデは、フェスの瞳を窺った。小さい頃から共に育ってきた。フェスが信用できる人物であることは自分がよく分かっている。
「はい」
突然の呼びかけに、フェスは驚いたような声を出した。
「ユキナさまに会われましたか?」
ジュデの問いかけに、フェスははっとした表情を見せた。
ユキナを、ユキナがいつも胸に下げているペンダントを、フェスは目に留めただろうか。
「ペンダントですか?」
答えながら、フェスが目を細める。
フェスは同じことを考えたのだと、ジュデは思った。
「ディン、と同じデザインのもの。手に取り見せていただいて、そう確信しています」
フェスも頷く。
「ディンの身元がわかる手がかりになりますね」
そうフェスが口にした。
そう、手がかり。
「ユキナさまからペンダントについて伺い、ディンの両親の身元がわかりました。けれど、僕がそう思っただけで、正しいとは思っているけれど、証拠はありま
せん」
「分かったのですかっ?」
フェスが両手をテーブルにつくとガタッと椅子の音を響かせ立ち上がった。
「フェス、僕はできるならば、ディンを探し出して伝えたい。けれど、自由になれる身体はなくて、できないんだ。フェス、僕の代わりにディンを探して伝えて
欲しい。だめだろうか。頼めるのは、フェスしかいないんだ」
見上げた視線をフェスはそのまま受け止めてくれた。しばらく、まっすぐ見ていた真剣な瞳は、溶けたように優しくなる。
「ジュデさま。返事は決まっていますよ。私がジュデさまに逆らえるはずもなく、ディンは私の大切な友人の一人です」
「フェス」
「きっと、ディンを探し出して伝えます」
フェスはそう言い切った。
ジュデは静かに立ち上がると、テーブルを回り、フェスの隣に立った。人差し指を口にあて、フェスに声を出さないように示すと、耳元で小さく囁いた。ディン
の父が誰であるかを。
「え?」
驚きのまま声をあげたフェスが顔を回し、ジュデを見つめる。
「本当だよ。確かなんだ」
小さな声でジュデは告げた。
「信じられない?」
そう続けたジュデに、フェスはかぶりを振った。
「ジュデさまがおっしゃったことだから信じます」
「ディンに伝えて。僕がきっと確証を掴むから、何処へも行かないで欲しいと」
今、ディンは何処にいるか分からない。もしかすると、もう手遅れかもしれない。
「お約束します、ジュデさま。必ずディンに伝えます」
ジュデはフェスの手を取りぎゅっと握った。間に合うようにと祈るような気持ちをこめて。
次の日、フェスは王宮を後にした。王宮の正門の前で、ジュデは小さくなっていくフェスを、その姿が見えなくなるまで見送った。
フェスはきっとディンに伝えてくれるだろう。そうなると、自分ものんびりはしていられない、とジュデは思う。
アリテア二世がディンの父である確証を掴むと、言葉にしたのだから、それを守られければいけない。
けれど、どうやって?
相談する相手もいない、自分のために動いてくれる人もいない。
そんな地で、どうすればよいのだろう。
ジュデは空を見上げた。
――――ディン、教えて。