ジュデが生まれ育ったエカティ王国は、国土の三分の二が山林で覆われ、人口がおよそ三十万人の小国だった。木材の伐採と草木染が主要 な産業で、棚田を作り必要な穀物を育てている。豊かではない分、国同士争いに巻き込まれることもなかった。
穏やかに、平和に、ジュデは生まれてから十五年間をこの国で過ごした。
隣国マディバは、広く肥沃な平野を持ち、金属の加工を主な産業としている。人口は五百万人を超え、大きな港を持ち活発な外交関係はいまだ破られたことのな い無 敵の軍隊に守られ、発展を続けている。
今、マディバに直系の皇太子はいない。マディバの国王はジュデと同じ今年十五歳になる一人娘の皇女を溺愛しているという評判だった。最初の妻は子供を持た ぬまま病に倒れ、後に入った皇女の母親も数年前に病で命を落としている。
その、マディバの皇女がジュデを望んでいる。
婿養子候補の一人として。
皇女と婚姻を結べば、将来マディバの王となる。それは、エカティにも少なからず利益をもたらすだろう。
もし、婚姻を結べなければ――――それは考えることさえはばかられる。

「ジュデはどう思う?」
国王がゆっくりと言葉にする。
「……父上のお心のままに」
少しの沈黙をおいてジュデは答えた。自分に国王の器があるとは思わない。けれど、自分が決められることでも、意見を言えることでもない。
「そうか」
そう答えた後で、国王は小さく息を吐いた。それはジュデには安堵のため息に聞こえた。
やんちゃな息子が嫌だと駄々をこねると心配をしていたのだろうかと思う。
嫌だと言えるなら――――嫌だと言ってやめることができるなら、何回でも言う。声がでなくなっても、もう一生声を出すことができなくなっても良いから、と ジュデは思う。でも、そうはならないだろう。隣国でもある大国に逆らうことなどできるはずがない。
それに――――そんなことをしたら、きっとディンに軽蔑される。それは嫌だった。
婚姻が許されるのは十八歳になってからだ。候補の一人ということは、他にも候補者がいるということだ。まだ、決まったわけじゃない。全てを諦めなければい けないわけじゃない。
ジュデはそう自分を納得させた。

国王の隣で様子を見守っていた王妃が席から降りて、ジュデの前に座ると、ジュデの頬に手をあてた。
「美しく生まれついたばかりに……」
王妃である母は言いながら、ジュデを頬を擦る。
美しい――――ジュデはそう何度も言われたことがある。
けれど自分の姿を見ると、青い瞳はガラス玉のようだし、くせのあるブロンドの髪は自分の思い通りにはならなくて、白い肌は夏の日差しにあたると、すぐ赤く なってしまう。それに比べて、ディンの琥珀のような澄んだ瞳や、まっすぐなさらさらした髪や、日にあたると褐色になる肌が、すごくきれいだと思っていた。
自分はどうしてこんなにもディンと違うのだろうと、ジュデは子供のころ自分がすごく嫌いだった。
それでも、ディンがきれいだと言ってくれるから、自分のことも好きになりたいとは思っていた。ディンは自分にとって失うことは考えられないほどの存在だ。
ディンは――――ディンはこの話を聞いてどう思ったのだろう。
ディンの姿を探してみたけれど、視界で捕らえられるところにはいなかった。

「それでは、使者に返事を伝えよう。迎えの間に通すように」
国王は立ち上がり、傍にいるものに命を伝えた。
「ジュデ」
先ほどより、優しい声で国王が呼ぶ。
「はい」
ジュデは軽く頭を下げて答えた。
「出発は一週間後だ。それまで、身体をいとうように」
ぴくんと反応したジュデは、顔をあげ国王を見た。
一週間後?
「よいな」
ジュデの答えを聞くつもりはないかのように、国王は身体を翻す。
「ジュデ」
母がジュデの肩を抱いた。
「僕は、まだ十五歳になったばかりで――――」
「分かってるわ。ジュデ」
「まだ婚姻はできないはず」
エカティではそうだ。マディバは違うのだろうかと頭の中で記憶を探る。隣国についての講義など、まともに聞いてはいなかった。所詮、自分には必要のないも のだと思っていた。
「マディバの国王になるための教育を受けさせたいと、そう使者の方が言われておりました。あなたは三年間、マディバで教育を受け、国王としての素質を見ら れるのです」
母の手が髪を優しくなでる。
「こんな形であなたを手放すことになるとは思わなかった」
そう続けた母の青い瞳は潤んでいた。
末っ子で、たぶん、一番甘えていたと思う。熱心に勉強する兄達を横目で見ながら、剣術や乗馬に励んだ。それを許してもらえた。
「――――僕は大丈夫ですよ。母上」
根拠のない言葉だったけれど、これ以上母に辛い顔をさせたくはなかった。
脳裏にディンの顔が浮かぶ。ディンに会いたい、そう思った。自分が部屋を出るとき、ディンはそこに残っていた。
「部屋に戻ります」
母に笑顔を見せると、ジュデは立ち上がった。


ドアをノックする音が聞こえた。ディンだ。ジュデはそう思って突っ伏していたベッドから飛び上がりドアを開けたのに、そこに立っていたのはスタンだっ た。
「お声をかけていただければ、来ていただく必要はありませんよ。ジュデさま」
スタンは軽く頭を下げる。
「何か用ですか? ディンは? 僕が呼んだのはディンなのに」
スタンはジュデの前をすり抜けるように部屋へ入った。
「ディンはこちらへは参りません。そんな我が侭はもう通らないのですよ」
ジュデは手にしていたドアの取っ手を離すと、支えを失ったドアは鈍い音をたてて閉じた。
「なんで、我が侭なの? ディンは僕の――――」
ジュデがスタンに向かって叫ぶと、先の言葉を遮るようにスタンが振り返る。
「ディンには既に新しい仕事が与えられています。もうあなたの側近ではありません」
ジュデは自分の耳を疑った。主人であるはずの自分は何も知らされずにそんなことがあるはずはない。
「なぜ? 僕は何も聞いていないのに、なぜそんなことが」
「マディバへ発つまでに一週間しかないのです。もう、遊んでいる時間はないのですよ」
「だからって――――僕にはディンが必要なんだ。ディンがいてくれるなら、何でもするよ。傍にいてくれるだけでいい。苦手な勉強だって、何だって、文句を 言わない よ。 本当だよ。だから」
たとえ、王宮の中でディンを見つけられたとしても、新しい仕事を与えられたというディンを自分が自由に連れ出すことはできない。それは 分かっている。スタンに訴えて、だめなら国王に、自分にはディンが必要だと分かってもらうしか、ない。
「マディバに行けば、ディンはいません。ディンだけじゃない、この国から誰もあなたに付いてはいけないのです。人どころか、物も、この国から持っていく事 はできません。ディンがいなければ、何もできないでは困るのですよ」
「え?」
人を連れていくことも、物を持っていくことも、許されない?
「それに、あなたのためならば命さえも投げ出してしまうディンが、今、あなたの傍にいることはわが国にとってはとても危険なことです――――意味が分かり ますか?」
「分からないよ。ディンは危険なんかじゃない」
スタンは小さく息を吐いた。
「今まで、わが国が平和でいられたのは、この国を侵略したところで、得るものは無かったからです。けれど、名誉を傷つけたとなれば別です。あなたは望まれ たのですから、マディバへ行かねばなりません」
「分かってるよ、そんなこと」
「ディンがあなたを逃がさないという保障がどこにありますか? あなたがマディバへ行かなければ、この国は滅ぼされてしまうでしょう。それは、簡単な事で す」
「ディンが――――そんなことは――――」
ディンが国に逆らうとは考えられない。けれど、自分が望んだことをディンは叶えてくれた。ひとつの例外もなく。
「あなたが素直に承知したことを、国王さまはいぶかしんでいらっしゃいます。あなたは自由を求めていた。それはディンに影響されているのでしょう。あなた がディンを慕っていることは誰でも分かっています。口にはしませんが、十八になれば王籍を離れるだろうとは国王さまも王妃さまも予想されていたと思いま す。ならば、今自由を失うことを素直に受け入れるとは思えません」
「……それは、父上は僕が逃げると思っているということ?」
「あなたが、そしてディンがそのことに手を貸すほど馬鹿だとは思いません。ただ、そういう可能性もあるということです。進んで行かせたくないのは、国王さ まも王妃さまも同 じお気持ちです。けれど、一国の王として、それはできないということはジュデさまもお分かりだと思いたいのですが」
「分かってるよ、そんなこと」
「では、マディバがあなたに求めているものは何だか分かりますか?」
国王として迎えいれるのだとすれば――――。
「判断力とか、統率力」
「誰もあなたには国王としての資質を望んではいません。あなたに求められているのは、マディバの皇女と子を成すことです。それも男の子を――――国王の地 位についたとしても、それは中継ぎにすぎないのですよ」
スタンの言葉に、ジュデは言葉をなくした。
さらに、スタンは言葉を続けた。
「マディバに行けば、回りは全て敵だと思わなければいけません。他国の人間が中継ぎにせよ国王になることを望まない人間もいます。周りに守られて、好意し か受 けたことのないあなたに、人を疑えというのは難しいことかもしれま せん。けれど、あなたには知らねばならないことがたくさんあるのです」
スタンの声は、初めて聞くような厳しさを持っていた。
マディバに行かなければならないことは分かっている。他国に敵がいることも予想できる。今までさぼっていた勉強をやらなければならないことも分かる。それ は、皇 子として生まれついた自分の義務だということも理解できる。
けれど――――。
「ディンには――――ディンにはもう会えないの?」
「あなたが、この運命を受けいれていく覚悟ができたと分かれば、最後の夜、みながジュデさまにお別れをするときの席にディンも加えましょう」
別れの席?
もう、あと、ただ一度しか会えない。ひと時も離れたくないと思うのに、ディンがいれば他には何もいらないと思うのに、あと、もう、ただ一度だけ?
「親を失ったディンも、この国の王子としてあなたが生まれたことも、そして、あなたのことがマディバの皇女の目に留まったことも、すべて運命なのです。運 命は受け入れるしかないのです――――ひとつだけ言っておきます。明日にでもあなたをマディバへお迎えしたいと言った使者に、一週間の余裕を欲しいと願い でたのは国王さまです。少しでも長く手元におきたいというお気持ちがあったのだと思います。この一週間の間に何かがあれば、それは、国王さまのお気持ちを 無にしたことになります。それだけは、覚えておいてください」
「……わかったよ」
ジュデが呟くように答えると、それでは、と言って頭を下げたスタンは部屋は出ていった。

この国に生まれたことを幸せだとジュデは思っていた。
それは、ディンがいたからだ。ディンが傍にいなくなる。そう思っただけで、胸に不安が広がる。
でも、この国の皇子としての役目を果たさなければいけない。
知っていながら何も言わなかったディンも、それを望んでいるのだ、きっと。
「ディン」
呼んでも答えがないことは分かっていた。
「ディンっ」
でも、呼ばずにはいられない。
ずっと一緒にいられると、そう思ったばかりだった。
運命は残酷だと、そう思わずにはいられなかった。

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