この空の下で。
山の頂まではもう少しだった。
ジュデは獣道に覆いかぶさる草や枝を避けながら駆け上がっていた。
「ジュデ様、早くお戻りにならないと、今から戻っても間に合うかどうか」
息を切らしながら、後から追ってくるディンが叫んでいる。
「だって、もう少しなんだ」
もう少しで頂だった。ここまで来てこのまま戻るなんてジュデにはできなかった。
「見晴らし台までという、約束だったはずです」
ディンは先を止めようとする。
ディンの言葉を聞き流し、ジュデは足を止めなかった。
確かにジュデはそう言った。
誕生日のプレゼントに見晴台まで連れていって欲しいと。
少し困った顔をしてディンは頷いた。
もっと子供の頃、ジュデはディンと一緒によく王宮を抜け出して山に遊びに来た。いつからか、それはできなくなった。
怒られるのがディンだと分かったからだ。
三歳年上のディンはこの国の第三王子として生まれたジュデの遊び相手兼側仕えだった。
楽しかった記憶を思う度に、また山へ行きたいと思ってもジュデは我慢してきた。けれど、今日だけは、どうしても山の頂まで来たかった。今まで見た中で一番
きれい
だった景色の中で、誰にも話を聞かれることのない場所で、ディンに聞いてもらいたい事があった。
頭上から零れてくる光が明るくなってくる。少しづつ、木々のカーテンが薄くなってくる。以前の記憶をたどりながら、もうすぐ山頂だと思った。
もうすぐだ――――と思ったときにジュデは後ろから腕を掴まれ、先を行く事ができなくなった。
後ろを振り向くと、予想した人物がジュデの腕を捕らえていた。
「ディン」
他に人が居るはずも無かった。
「ジュデさま」
ディンが困ったような顔をする。今日午後から開かれるはずのジュデの誕生会には、もう間に合わないかもしれない。それはきっと、ディンの責任になってしま
う。
「ごめんなさい。でも、僕――――」
どうしても来たかった。だから、今日は王宮に帰ったら、何があってもディンを守るつもりでいた。
ここで引き戻されるのは嫌だった。誰が聞いているかわからない王宮ではできない話で、帰り道に話を聞いてもらう時間など無いはず。山を駆け下りて、見晴台
に繋
がれている馬に乗り、全力でとばさなければいけない。
まだ帰りたくないという意味で、ジュデはかぶりを振った。
硬かったディンの表情が緩んで、口元が笑みを持つ。
「大人しく帰ってはくれないのでしょう――――私が先に行きます」
そう言いながら、ディンはジュデの腕をさすった。
細く、道とは言えない木々の間を駆け上がってきたときに、枝に弾かれたのか、無数の傷がジュデの肌に走っていた。
薄く血が滲んでいるものもある。夢中で走っていたからだろ
う。気づかなかった痛みを、ジュデは傷を見て初めて感じた。
同じ傷がディンの肌にもついている。
「ごめんなさい」
ジュデがディンの肌に触れようとした時、ディンは身体を翻して、ジュデの先に立った。
「急ぎましょう」
手で草を掻き分けるようにしてジュデを待つ。
「うん」
軽くうなづくと、ジュデはディンに導かれながら歩いた。
いつも自分はディンに守られているとジュデは思う。初めて会ったのは五歳の時だった。その時すでに、ディンの剣術は大の大人を負かすほどだったという。
ディンに親はいない。行きずりの女がディンを産み落とすと直ぐに息を引き取ったという。
身元のわからない子供の措置に困っているという話を王妃であるジュデの母が耳にして、王宮に引き取ったのだとジュデは聞いていた。
木立の中を抜けると、目の前が一気に開ける。緑の絨毯のような尾根が捩れるように広がる先には微かに海が見えて、光を反射させきらきらと光っていた。
木にもたれかかると、ジュデは大きく息を吐いた。ここまで来ないと海は見えない。行ったことのないそこは、憧れでもあった。
「気は済みましたか? 」
ディンが顔をうかがうように訊いてきた。薄いブラウンの瞳が見上げてくる。ジュデはゆるくかぶりを振った。
「まだ、もう少し――――」
目的は海を見ることじゃない。
「ディン」
呼びかけると、ディンは膝をたてるように腰を下ろし、顔を伏せた。
「はい」
「僕は今日で十五歳になるんだ」
ジュデはこの時を待っていた。子供の戯れだと信じてもらえない年ではなく、大人と認められないまでも、人格を認めてもらえる年齢。
「はい」
「あと三年、十八になったら僕は王籍を離れる」
ディンが驚いたように顔をあげた。
「――――ジュデさま」
貧しい国の知恵なのだろう、皇太子を除いて、十八歳を過ぎていれば王籍を離れることが許されている。民間に入り、王族としての特権を捨てる。自由を手に入
れられるかわりに、保護してくれるものを失う。
何人かは、そうして自由を手に入れ、国を去ったと聞いている。その先に、何があったかは知らない。
「もうすぐ、ディンは十八になる。大人として認められる年になる。そうしたら、親を探しに行くのだとディンは僕に話してくれたよね」
それは、遠い昔に聞いた話だ。一度だけ聞いた話を忘れることは無かった。ディンが自分の傍から居なくなってしまう。それは、一番起こって欲しくないこと
だった。
「ジュデさま、それは――――」
「あと三年待って欲しい。僕も一緒に連れていって欲しい。剣だってもっと練習するし、勉強だってする。乗馬はずいぶん上手くなったでしょう。ディンの足手
まといにならないように、何でもするよ。我がままも言わない。だから」
ジュデはディンが頷いてくれることを願った。今まで、ディンはジュデの願いを拒んだことはなかった。
けれど。
ディンは驚きの表情を見せたまま、答えはくれなかった。一度開きかけた口は声をださないまま閉じられる。
「ディンが約束してくれないなら、僕はもう王宮には戻らない」
それは、最後の切り札だった。
このまま戻ってしまったら、ディンはきっと一人で王宮を出ていってしまう。ディンがいないのなら、生きていても仕方ないと本当に思う。
けれど、ディン分かっているよね。
ジュデは心の中でささやきかけた。
嫌なら断っていいんだ。王宮に帰らないなんて言ったって、ディンに本気で手を掴まえられたら、抵抗することなんてできな
い。逃げだしたところで
きっと
捕まってしまう。王宮に連れ戻されてしまえば、ディンの助けなしに、抜け出すことなんてできない。
ディンがついているから、許される部分も大きい。ディンはそれだけ周りから信頼されている。
「私には――――それほど想っていただける価値はありません」
ディンは視線をふせ、ゆっくりと言葉にした。
「僕は、自分には、こんなにディンに守ってもらう価値なんてないと思うよ。でも、ディンはいつも守ってくれる。価値なんて言わないで」
「しかし、ジュデさま」
ディンがゆっくりと顔をあげた。肩まである、瞳と同じ薄いブラウンの髪がかすかに揺れる。
「以前は、誰もいないところでは、ジュデと呼んでくれたよ。ここには誰もいない、だからジュデって呼んでよ」
「あの時は、私もまだ子供でした」
「王籍を離れたら、またジュデって呼んでくれるよね」
「ジュデさま、それは」
「僕はディンと一緒にいたいだけなんだ。ディン」
分かって欲しいと思う。
はっきり迷惑だと言われたらあきらめる。もう生きていく必要もないと思うけど、ディンが嫌だと思うことを無理強いはしたくない。けれど、そんなやさしい言
葉じゃ諦めることなんてできない。
ディンの薄いブラウンの瞳は揺れていた。
困らせているのは分かっていた。
――ごめんね、ディン。困らせて。
でも、これだけは譲れなかった。ディンが一人で行ってしまうのは何にも代えられないほど嫌だった。
しばらく彷徨わせていた視線をジュデに戻し、ディンは諦めたようにゆっくりと息を吐いた。
「分かりました。ジュデさまが十八歳になるまで、許されるならお傍におかせていただきます。ですから、王籍の件はお考え直しください」
それは、ジュデにとって満足のいく答えではなかった。けれど――――。
「絶対、僕に言わずに王宮を出ていったりしない?」
「お約束いたします」
ディンが深く頭を下げる。
「絶対だよ。約束だよ」
「はい」
ディンは嘘は言わない。少なくともジュデの前ではそうだった。だから、ジュデはその答えで納得した。今、それ以上を望むことは無理なのだろうと理解した。
あと三年あるから、その間に少しでもディンの役にたつ人間になる。そうすれば、きっとディンも分かってくれる。
そう思うとジュデは、心がすごく軽くなった気がした。親を探しに行くのだとディンが話してくれたその時から、ジュデはディンが行ってしまうことに怯えてい
た。ディンは自分よりも
先に年を重ねていき、追いつくことはできなくて、年を重ねることはディンと離れるときが近づいているとしか思えなかった。
けれど、自由になれることを知ったときに、それは希望へと繋がった。
「じゃあ、帰ろう」
ジュデが言うと、ディンはすぐに立ち上がって帰路を導く。
少しでも早く王宮へ戻ろうと山を駆け下り馬を全力で飛ばした。
けれど、時間を越えることはできなかった。
王宮の裏門が見えたとき、その前を落ち着かないように歩きまわる人の姿が見えた。長い銀色の髪が動くたびにはためく。それは一目で教育係のスタンだと分
かった。先へ行こうとするディンを止めるように、ジュデは自分の乗った馬をディンの先へ回した。
「ジュデさま」
進路をふさがれて驚いた馬が一声啼くと、小さく後ずさる。
「ディンこれは命令だよ。僕が先に行くから、ディンは後からついてきて」
ジュデが命令すれば、ディンは従うしかない。
ディンの馬が啼いたことで、スタンは気がついたようだった。足を止め、ジュデとディンを見ている。
ジュデはゆっくりと馬を走らせると、スタンの前で馬を降りた。
「ジュデさま、どちらへ行っていられたのですっ」
スタンが叫び声をあげる。
怒られることは承知の上だった。いくら身内だけの会とはいえ、時間に遅れてしまったことは非がある。
「ごめんなさい。どうしても――――」
「とにかく、早く国王さまのところへ」
スタンはジュデの言葉を遮るように言うと、ジュデの腕を捕まえて引いた。
「ちょっと、待ってスタン。せめて、着替えを」
裾の短い剣士服の上に、腕や足には葉や枝で傷ついた後が残っている。怒られるのは覚悟の上、それでも正装を身に着けて父上には会いたかった。
立ち止まったスタンはジュデの頭の先から足先まで見ると、腕を離した。
「分かりました。それでは私は国王さまにジュデさまが見つかったと先にお知らせしてきます。ジュデさまも早くいらしてくださいますよう」
言葉も途中に、まるで一刻を争うかのように、スタンは身を翻し、足早に歩いて行った。
「急ぎましょう。私は馬をつないできますから、ジュデさまは先にお部屋へ」
「うん」
ディンの言葉にうなづく。
何か、気が抜けてしまった。スタンの姿を見たときに、絶対にお小言の一つや二つ言われると思っていた。
釈然としないまま王宮へ入ると、いつもと様子が違っていた。いつもはあまり人がいない通路を、所せましと人々が駆け抜けていく。王宮の中にはこれほどの人
がいたのかと、思うほどだった。
「ジュデさま」
ジュデに気づいたらしい誰かの声で、人々は一斉に止まった。
「ジュデさま。すぐに国王さまのところへ」
一人が言いながら、ジュデの前に跪く。
「分かっています」
ジュデがそう答えると、人々は一様に端によけ道をあけると、軽く頭を下げた。
なぜか、いつもとは違う空気を感じた。
スタンもいつもとは違っていた。王宮の中も。そこにいる人々まで。
部屋に入ると、扉に背をつき、息を吐いた。部屋に来るまでに疲れてしまった。ディンが言った待っていてくれるという言葉に、うれしいと思った気持ちすら、
どこかへ
飛ばされてし
まった。
生まれて初めて感じた違和感に胸がざわざわする。
そのまま動けずにいると、ドアをノックする音がした。
「ジュデさま」
ディンの声だった。
「どうぞ」
ドアから離れると、ディンが入ってくる。手にはぬれタオルを持っていた。
「さあ、これで拭って、早くお着替えを」
「うん」
ジュデが濡れタオルを受け取ると、ディンは後ろを向く。
「ねえ、ディン。なんか変だよね」
身体を拭いながら、ディンに声をかけた。ディンは聞こえなかったかのように答えてはくれない。
「ディン、何か知っているの?」
なんとなく、そんな気がした。部屋に入ってきたときの顔がいつもと違ってみえた。
「早く、国王さまのところへ」
少し振り返り、ディンが答える。
知っているけれど答えられない、ディンの答えはそう聞こえた。そして、それはたぶん良いことではないんだ。
その予感は的中した。
「ジュデ、お前に婚姻の申し込みがきている」
父である国王の前で跪いたジュデに、頭上から聞こえてきた言葉は想像もしないことだった。