消毒液のような鼻を刺す匂いがした。ぼこぼこと泡がはじける音もする。規則正しい機械音が耳障りだった。
身体は酷く重たかった。空気が意志を持って押さえつけているような気がする。目を開けようと思っても力は入らず、手を上げようと思っても、まるで夢の中に
いるように思い通りに動いてくれない。声を出そうと思っても、喉の奥へ流れこむ空気に邪魔されて出せなかった。
――――ここはどこで、僕はどうなっているのだろう
祐人はそう思った。
頭だけは自分の意志で働いてくれるようだった。
通り過ぎていく足音が聞こえる。
離れていくもの、近づいてくるもの、そのうちの一つが止まった。
そして、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
母親の声が聞こえて、かたっと小さな音がした。
ちゃんと帰ってきたらしい。そのことに祐人はほっとした。
「祐人くん、どうですか?」
ドアが開く音の後、聞こえてきた声に祐人の心臓がどくんと跳ねた。
「相変わらずよ――――少し見ていてくれるかしら。洗濯が終わった頃だから」
「はい」
衣擦れの音の後、ドアが閉まる音がする。
小さな足音が自分に近づいてきて、祐人の心臓がとくとくと走り出した。足音が止まると、かちゃっと小さな音がした。
少しの沈黙の後、「祐人」そう呼ぶ声がした。
今まで風のように通り過ぎていた声が、今、耳の中で響いていた。
――――遼平
そう答えたいのに、喉元で声が消えていく。
すっと身体の上を風が通り過ぎていくと、手を優しく握ってくる手があった。
その手を握り返したい。そう思ったのに、手に力が入らない。
「祐人?」
遼平の怪訝そうな声がした。
どんな顔してる?
一目でもいい、遼平の顔が見たい。そう思って、目を開こうとした。重くて、地球の重力は三倍になってしまったんじゃないか、そう思えるほど動かない身体
を、それでも意識を集中した。
急に開けた視界は眩しくて、遼平が黒い影に見えた。少しづつ慣れてくると、ぼんやりと霞みがかかったような遼平が目に映る。
遼平は驚いたような顔をして、何回か目を瞬いた。少しの間、見つめあっていた。
「おばさんっ」
突然遼平はドアの方を向かって叫ぶとガタンと大きな音をたてて席を立ち、そのまま背中を見せて部屋を出て行った。
握られていたはずの祐人の手はベッドの縁を掠め、下に落ちていた。
落とすなら、もう少し内側にして欲しかったな、そんな文句が頭を掠めて祐人は自分に呆れた。そんな自分を笑おうとしたのに、笑えなかった。
白い天井と壁はリナトの家と同じだった。天井に吊されたバッグから何本ものチューブが自分に向かって伸びていた。
帰ってきたんだ。そのことに、安堵と不安が交錯していた。
ばたばたと足音がしたと思ったら、突然湧いてきた白衣の軍団に囲まれていた。
「祐人くん?」
一番近くにいた医師に訊かれて、祐人は小さく頷いた。
その医師は周りの医師や看護士に何かを言っていた。近くにいた看護士は布団をめくり、祐人の腕を引っ張り出すと何かを巻いた。
遼平は? そう思って見回すと、入り口の近くに母親と並んで立っていた。母親の潤んだ瞳が目に入って、ごめん、そう祐人は心の中で呟いた。
「良かったですね」
そう言った遼平の声を耳が拾った。母親は小さく何度も頷いていた。
「俺、また明日来ます」
そう言って、軽く頭を下げた遼平に、母親はまた小さく頷いた。
「ありがとう」
小さな掠れた声が聞こえた。
また明日――――そう遼平は言った。明日になれば、また会える。そう思うと祐人はほっとして目を閉じた。
良かったと言葉では言っていたけれど、それが本心かどうかは分からない。本当に戻ってきて良かったのかは分からない。けれど、あまりに中途半端だったか
ら、けじめはつけなきゃいけないと思う。それはどんなに辛い結果でも。
――――大丈夫
祐人は心の中で呟いた。
リナトは優しかった。ユーリを愛していると痛いほど感じた。だから――――。
「良かった」
嵐が過ぎ去った後のような静けさの中で、母親は祐人の手を握りながら、溜息混じりに呟いた。身体に付けられていたチューブは半分ほどに減った。
「ごめ、ん」
心配をかけてしまったことを謝った。言葉だけで埋められるとは思わないけれど、今はそれしかできない。
母親は小さく笑うと視線を伏せた。
「遼平くんは、命の恩人なんだから大切にしないとね」
祐人の腕を優しく撫でる。
「人工呼吸をしてくれたって。手当が早かったから助かったんだって、もし遼平くんがいなかったら――――」
母親は口を噤んだ。
「ん……」
祐人は頷いた。
言われなくても大切な人だ。
「お父さんも会社の帰りに寄るって言っていたから、ちょっと下の売店に行ってくるわね」
母親は祐人の髪をくしゃっと撫でると、席を立った。
あの時から三ヶ月が経っていると教えてもらった。命を保つことしかしていない身体は元通りに動けるようになるために、リハビリをしないといけないという。
どのくらいで元へ戻るかは自分次第だと言われた。
学校は? と訊いたら籍だけは残してあると言う。留年になっても仕方ないと母親は言った。
不安は大きい。けれど、戻ってくる身体があっただけでも感謝しないといけないと思う。
見守るだけじゃない。何かをしたい時、身体がなければできない。
ぼこぼこと泡が弾ける音が闇の中で響いて聞こえた。
祐人は、はっと意識が戻った。自分の身体を感じてほっとする。意識が身体を抜け出すなんてことがそうそうあるわけないと思いながらも、今はまだ身体が欲し
かった。遼平とまだ一言も話していない。
廊下から足音が聞こえてきて、ドアの前で止まった。ドアが開いて、すっと光の線が壁に伸びる。看護士が様子を見に来たのかな、と祐人がドアへ視線を向ける
と黒い影が部屋へ入って来た。それが看護士でないことは一目見て分かった。
――――遼平?
最小限の光量を持った部屋の明かりが遼平を照らす。胸がとくとくと身体の中で響きだす。
遼平はベッドの横まで来ると、立ち止まって祐人を見下ろした。
「りょう……へい?」
「起きてたのか?」
「ん」
久しぶりに遼平と向かい合っていた。
「明日にしようかと、思ったんだけど」
言いながら遼平は壁にかけてあったパイプ椅子をベッドの横に置いて、そこに腰掛けた。
「もう、日課みたいになっていたから落ち着かなくて」
布団の中へ手を差し入れると、腕を優しく撫でる。遼平の手は温かかった。触れられたところが熱を持ち目覚めてくるような気がした。
廊下は時折、足早に通り過ぎていく足音が聞こえた。その音が通り過ぎるとまた静寂の時間が来る。
「りょうへい」
「ん?」
遼平が顔を上げる。
呼びかけてみても、祐人は何から言葉にしたらいいのか分からなかった。
「……ありがとう。助けて、くれて……」
遼平がいてくれたから、今ここに居られる。
「……俺が悪いんだよな。お前の言うことを信じてやらなかったから……」
遼平が視線を落とした。
「違うよ、僕が……」
自分の弱さがいけなかったんだ。今はそう思う。
「お前が倒れていくのを見た時、俺は……」
遼平の手が小刻みに震えていた。その震えを隠すかのように、祐人の腕をぎゅっと握る。
「いっ……」
思わず声が出た。上手く動かせない癖に感覚だけはちゃんとある。
「あ、ごめん」
遼平が驚いたような顔をして、手を緩めた。
「遼平は悪く、ない……僕が――――」
「いいよ、祐人。今は話すのも辛いんだろ? 筋肉がずいぶん弱っているって聞いた」
祐人の言葉を遮るように遼平は言った。
「ん」
正直、辛かった。思い通り動かない身体がじれったい。
今は何時頃なんだろう、と祐人は思った。父と母が面会時間ぎりぎりまでいたから、それから後のことは確かだ。
部屋に時計は無かった。カーテンが引かれていて、窓の外を見ることことこできない。
「俺、お前に謝らないといけないかな」
遼平がぽつんと言った。
「ん?」
遼平は祐人の腕を撫でていた手を離すと、祐人の唇にそっと触れた。そのまま優しく撫でる。突然のことに、祐人の身体は強ばった。
「俺、お前の唇に触れた。あの時は夢中だったけど、やっぱ、そういうことだよな」
言葉が示す意味を分かって、祐人は胸が熱くなった。胸の奥から溢れてくるものが、瞳を曇らせた。
「りょう……」
気持ちが無かったことは分かっている。それでも、遼平はそこまでして助けてくれようとした。
「もう一度、触れていい?」
突然の問いかけに祐人は戸惑った。
なぜそんなことを言うのだろうと思う。気持ちはないはずなのに。
答えられずにいた祐人に遼平の顔が近づいてきて、合わせるように祐人は目を閉じた。触れてきた唇はすぐに離れていった。
それでも、触れた感触は唇に残った。遼平の唇は柔らかくて、温かかった。
「お前のこと見ながらさ。キスしたら目がさめたりして、なんて思った。でも、結果が恐くて結局できなかったけどな」
遼平が自嘲するように笑う。
「男にキスしたいなんて思うの変かな? そんなことないよな。お前は好きだって言ってくれたもんな」
好きだよ。今でも。そう心に呟きながら、祐人は答えられずにいた。
今、この言葉を言ってしまうことが、遼平の重荷になってしまうのならば嫌だと思う。
「お前の気持ちに答えられるかどうかは、分からないけど」
遼平は一旦言葉を止めた。
「お前がいないと、つまんないよ」
不服そうに言う。
それで充分だよ、と祐人は思った。これからも、ずっと傍に居られる。
「お前に話したいこと沢山あるんだからな。覚悟しとけよ」
続けた遼平の言葉に、祐人は小さく頷いた。
何時間聞いていても、きっと飽きない。遼平の声は優しく身体の内側を撫でてくれているような気がした。できるのならば、ずっとこのまま傍にいて欲しいと
思った。
遼平に会いたかった。その遼平が今、手の届くところにいる。
「もう終電ないんだよな」
独り言のように遼平は言った。そして、祐人の顔を見ると目を細めた。
「始発まで、ここに居ていい?」
ばつが悪そうに言う遼平に、いいよ、いてくれよと祐人は思い切り頷きたかったのに、酷くゆっくりの動作は不服そうに見えたんじゃないか、と不安になった。
「りょうへい、いて……」
遼平に触れたくて、手を伸ばした。
驚いたように遼平は、祐人の手を掴んだ。掴まれた手を祐人は力一杯握り返した。
もう片方の手を添えて、遼平が笑ってくれた。
――――好きだよ
祐人は心の中で呟いた。
ずっとずっと遠い未来まで――――。
Fin.