いつもなら、すっと眠りに落ちていけるのに。
そう思いながら祐人はリナトの腕の中で息を潜めていた。
こんなところをユーリが見たら怒るだろうな、と思う。
リナトをゆっくり休ませることができない。
ユーリの気持ちを知るまでは深く考えることはなかった。与えられるそのままに腕の中で眠りに落ちていた。けれど、知ってしまったら躊躇う自分がいた。
「リナトは自分のベッドへ戻った方がいいよ」
言いたくない言葉をやっと口にした。
「……不安なんだ」
しばらくの沈黙の後、リナトはそう答えた。
「特に夜は。ずっと抱きしめていないと、その身体さえ空気の中へ溶け込んで消えてしまいそうな気がするんだ」
続けた言葉に痛いほど伝わってくる不安を感じて、祐人に言葉は無かった。
自分だって望んでいる。リナトの腕の中にいれば、何も怖いものはないと思えた。好きな人の腕の中にいる、そう思った。
なのに。
自分を見てくれないことに感じた不満はあった。今の気持ちはそれとは違う。何か正体の分からないものが胸の奥で燻る。今までは安らぎを感じたリナトの腕に も違和感を感じる。
リナトがくれた言葉は確かに望んだものではなかったけれど、自分を認めてくれて、ともに居たいと言ってくれた。それ以上何を望むというのか。満足できない 自分にも苛つく。
落ち着かない気持ちに、うとうとしながらもはっと目が覚めてしまい、また、うとうとする。そんなことを 繰り返しながら、空は明るくなって いった。朝がきても、胸の奥にあるもやもやはそのままで、その正体も分からなかった。


仕事へ出かけるリナトと共に、祐人は朝食を取っていた。
祐人――――風が声を運んでくる。気まぐれのようにやってきて祐人の気を引き一瞬で消えてしまうその声に、祐人は昨夜から胸に燻る違和感の原因が分かって しまった。
「祐人」
呼ばれた声に顔をあげた。テーブルを挟んで向かいあう前にはリナトがいた。
「何?」
「今日は帰りに――――……」
祐人の頭の中にはリナトの声が流れていく。けれど、それを理解することはできなかった。
「祐人?」
「あ、うん」
「聞いてたか?」
「え、あ、なんだっけ」
「帰りに何か買ってきて欲しいものかないか、と聞いただろ?」
「あ、」
一瞬考えた。
「何もないよ」
「いいのか?」
「うん」
頭が働かなかった。頭へ伝える信号をどこかで止められてしまったようだった。
「何か、気になることがあるのか」
リナトが怪訝そうに目を細める。
「そんなことないよ」
祐人は笑った。顔で笑いながら内側は酷く冷めていた。

外へ出てリナトを見送り、小さくなっていく背中を見つめていた。小さくなって、存在さえ分からないようになると、今度は空を見上げた。
「分かっちゃったよ」
空へ向かって呟く。
それは最初から分かっていたはずのことだった。
――――リナトは遼平じゃない
何を今更言っているんだと思う。初めから分かっていたはずだ。姿も声も違う。本質は同じとは言っても、時は流れ今この時に遼平はいない。分かっていたはず なのに同じだと思えるほど二人を重ねていた。それが違うのだと、今、分かってしまった。
祐人、そう呼ぶ声が違う。
当たり前だ。遼平じゃないんだから。
そうだよ、遼平じゃないんだ。
リナトが自分を認めてくれた途端に、本当に欲しいのは遼平の気持ちだと、自分の気持ちがまたわがままを言う。
「遼平……」
リナトは遼平に近い存在ではあってもそのものじゃない。
「嫌いじゃないんだ」
そう口に出して、リナトの言葉を思い出した。リナトも祐人のことを嫌いじゃないと言った。
リナトは嫌いじゃない。けれど、好きだとは言えない。好きなのは遼平であってリナトじゃない。二人を区別してしまったら、同じ言葉では言えない。
「遼平……」
呟いた声は空気の中へ消えていった。


胸がどくどくと波打っていた。
部屋へ入ると祐人はまっすぐベッドまで行き、縁に腰掛けた。
リナトは明かりをドアの横の杭にかけると、そのまま祐人のところまで来て、足を止めた。いつもなら、明かりは消すし、すぐ横へ腰を下ろすのに。そう思いな がら祐人はリナトを見上げた。
「嫌なんだろ?」
「え?」
「抱かれたくないと顔に書いてある」
「……そんなことないよ」
「今日からはベッドは別にした方がいいのかな」
「そんなことないよ。なんで、そんなこと言うんだよ」
自分の気持ちを見透かされていたことに動揺しながら、祐人は手を伸ばしてリナトの腕を掴んだ。
「昨日、俺があんなことを言ったからか?」
「あんなこと?」
すぐに思い当たることは無かった。
「お前を元の世界へ返してやる、と……」
リナトが目を細めた。
あ、と祐人は思った。頭の中には無かった。忘れていたことだった。ひとおもいに刺してやるとリナトに言われていたんだ、と祐人は他人事のように思った。
「リナトはそんなことしないよ。ユーリを待っているでしょう?」
取り返しがつかないことはしないでくれ、リナトは以前そう祐人に懇願した。
「ユーリはもうここにはいない。もう帰ってはこない」
諦めたような低い声でリナトが言う。
「なぜ、そんなことを言うの?」
「もし、ユーリに戻ってくる気があるのなら、自分がどうすればいいのか知りたいのなら、アイラさまの所へ行くはずだ。ユーリはアイラさまのことを知ってい たのだから」
「あ……」
「少なくとも、何か未練があるのなら、アイラさまに伝えてもいいはずだ。そう思わないか?」
祐人は答えられなかった。
何にも拘束されない自由な精神体になったのなら、誰の目にも触れずアイラに会うことは可能だ。
「それをしないのは、答えはひとつだと思わないか?」
戻るつもりはない?
「そんなことは――――」
ユーリはリナトを愛しているはずだ。それはユーリの記憶の中で痛いほどに感じた。
「だから、きっと、もうユーリは戻らない」
「……それでいいの、リナト」
いつから、リナトはそう思っていたのだろうと祐人は思った。自分のことに精一杯で、リナトの気持ちまで考えていなかった。
「俺には何もできない。なぜもっと前にあいつの気持ちを訊いてやらなかったのか。なぜもっと優しくしてやらなかったのか。そう後悔することしかできないん だ」
「リナト……」
胸が痛くなる。
――――ユーリ、もう戻ってこないの?
祐人は頭の中で叫んだ。
アイラに呼びかけてくれと言われていた。けれど、どうしたらいいのか分からない、と逃げていた。ユーリが戻ってきたら、自分がどうなってしまうのか分から ないというのは、ある種恐怖もある。
「じゃあ、昨日の言葉は本気だったの?」
祐人を殺し自分も命を絶ってユーリを探しに行く。そうリナトは言った。
「お前が望むならと、そう言っただろう。もうユーリを追ったところで探せるかどうかは分からない。お前が待ってくれるというなら、望みは全て絶たれたわけ じゃない」
絶たれたわけじゃない――――そう言いながらも、リナトは望みがあると思っているようには見えなかった。
このままの状態をリナトは望んでいる? そんなはずはない。
リナトも自分と同じ違和感を感じているはずだと、祐人は思う。
好きな人はどこか遠いところにいて、その面影を傍にいる人に求める。けれど、違うと分かっているから満たされるわけじゃなく、思い切ることも忘れることも できない。
アイラのことを知っていたのならば、何かリナトに伝えたいことがあればその手段はあった。それなのに、何も言わずにユーリは消えた。
ユーリ!
身体の中に響くように、祐人は叫んだ。
ユーリは戻ってこないの?
身体が強い媒体になるというのなら、この言葉を伝えて欲しいと思う。
ユーリが戻ってこないのならば、これからも向かいあいながら、互いに別の人を重ねていくことになる。感じる違和感もずっと持ち続けていくことになる。満た されない思いを抱えていくことになる。自分だけじゃない、リナトも。
リナトは何も悪くない。ユーリ、戻ってきてよ!
自分は一度命を無くしている。この身体を失っても、それは自分が招いたことだ。
ユーリ!
そう自分の身体の中に向かって叫びながら、祐人はアイラの言葉を思い出した。
『彼はユーリよ』
彼女は自分のことをそう言った。
リナトも『お前はユーリだよ』と言った。
――――僕はユーリなんだろうか
それが本当のことならば。
自分がユーリになれれば、少なくともリナトは違和感に苦しめられることはなくなる。
できるのかな、そんなこと。
不安が気持ちを重くする。
けれど、身体も声も目に見える姿はそのままユーリのものだ。ユーリの記憶を全部開けば、自分はユーリになりきれるかもしれない。
何も二人で苦しむことはないんだ。
リナトの幸せのためだよ。それなら、ユーリも許してくれるでしょう?
祐人が問いかけても、答えは無かった。

――――ユーリ、リナトは僕がもらうよ
ユーリに呼びかけながら、祐人は自分の気持ちを確かめた。
それでいいんだよね?
沈黙する胸の奥で反対する声はなかった。
祐人はリナトを見上げた。
「リナト、ユーリは戻ってくるよ」
祐人の言葉にリナトは怪訝そうに眉を顰めた。
「……なんでお前にそんなことが分かるんだ」
「僕には、分かるんだ……僕を抱きしめて――――ユーリのことを思いながら、僕を抱きしめて」
祐人は掴んでいたリナトの手を離し、両手をリナトへ向けて差し出した。リナトはゆるくかぶりを振ると、少し呆れた顔をしながら祐人を抱きしめ押し倒す。
「ユーリ……」
祐人の耳元で小さく呟いた。
――――僕がユーリになるよ
祐人は目を閉じた。リナトまで苦しむことはない。ユーリの記憶を全て手に入れて自分がユーリになる。
祐人はユーリの記憶の引き出しに手をかけようとした。
っ!
突然、祐人は何かに押し潰されるような胸の痛みを感じた。苦しさに手に触れたシーツをきゅっと握りこむ。声がでない、息ができない、身体が自由に動かな い。
いやだ――――そう自分のものでない声が頭の中で響いた。
苦しさから逃れたくて、祐人はありったけの力で身体を捻った。身体が軽くなって、すっと楽になった。ほっと息をついて目を開けると、直ぐ目の前に天井が あった。

「リナト……」
下から声がした。
「ん?」
「……ごめんなさい」
「祐人? 」
「ううん。僕はユーリだよ」
「……なんの冗談だよ。そんなことをすれば俺が喜ぶとでも思ったのか?」
「喜んでくれるの?」
「何言ってるんだよ」
「良かった」
小さなため息と衣擦れの音がした。
「……本当に、ユーリなのか?」
「うん……」
そうだよ、リナト――――そう答えても聞こえないだろうな。そう思いながら、祐人の口元は自然に緩んだ。ほっとした気持ちと淋しい気持ちが胸の中で交じり 合っていた。

「祐人は?」
「分からない。もう僕には見えない」
「……帰ったのかな。元の世界へ。お前が戻ってきたから」
リナトの小さなため息が聞こえた。
「祐人の方が良かった? 僕は戻らない方が良かった? 」
ユーリが不安そうな声を出す。
「馬鹿だな――――俺が好きなのはお前だよ。ユーリ」
「……初めてだ、リナト。そんな風に言ってくれたのは……」
かさっと小さな衣擦れの音がする。
「……少しあいつに感化されたのかもしれない。素直に自分の感情を出すやつだったから」
「リナト」
唇が触れ合う湿った音がした。
小さな胸の疼きを感じて、祐人は小さくため息をこぼした。
ユーリは戻ってきた。これから自分はどうすればいいのだろう。
どこへでも自由に行けるというのなら、自分の望むことはなんだろう――――そう自分に問いかけた。
ふと、あの時の情景が浮かんできた。
地面に倒れている自分。傘を放り出して走ってくる遼平。居たたまれなくてその場を逃げ出していた。
逃げても何も変わることはない。遼平への気持ちはそのままに、悔いだけが残って余計に辛いばかりだ。
答えはすぐそこにあるように思った。
遼平のところへ帰ろう。
もう言葉を交わすことはなくても、傍で見守っていくことはできる。どこへも行くあてがないのなら、好きな人の傍へ帰ろう。

――――遼平
祐人は目を閉じると、遼平の姿を思い浮かべた。


---------- ◇◇◇ ----------

「もう、戻ってこないかと思っていた」
リナトがユーリの耳元で囁く。耳にかかる息にユーリの身体は小さく震えた。
「僕はずっとリナトの傍にいたよ。空間で浮いている自分に気が付いたときは驚いたけど……この姿ならずっとリナトの傍にいられるって思ったから」
リナトの腕が更にぎゅっとユーリを抱きしめた。
「アイラさまはお前はいないと言った」
「アイラさまのお屋敷には行けなかった。アイラさまには見つかりたくなかった。全てを見透かされそうで、そうしたら、リナトに軽蔑されそうで」
ユーリはリナトの寝衣をきゅっと掴んだ。思いが胸の奥から溢れてくる。その思いをユーリはリナトに知られたくなかった。
「なんで軽蔑なんかするんだよ」
「だって、僕は自分のことしか考えていなくて……僕が怖かったのは、リナトに捨てられることだった。向こうの世界では子供が生まれにくくなっていて、この 島から出ることはずいぶん容易になってる。毎月、罪人が送られてくる船で折り返しに何人もの人が乗っていくよ。その中に、いつリナトが混じるのだろうと、 僕 はいつもびくびくしてた。それならば、いっそ自分から身を引こうと思った。これから先、きっともっと惹かれていく。今なら幸せを祈って別れることができる けれど、そのうち、リナトを離したくないと命を奪おうとするかもしれない。そんな自分も怖かった」
耳に触れる小さなため息と、頭を優しく撫でる手がある。
「いいよ。お前になら。こんな命でよければやるよ」
感じる手のぬくもりに、声音に、ユーリは胸の奥が熱くなってくるのを感じた。
「……前のリナトなら、そんなこと言わなかったね」
「そうか?」
「そんなこと考えるな、きっとそう言ったよ」
「酷いやつだな」
「うん。でも、好きだった」
リナトはふっと笑うと、ユーリの額にキスを落とした。
触れる唇も温かくて、なぜ自分はこの人と離れることを選ぼうとしていたのだろう、とユーリは思った。
「今までのお前だって、そんなこと言わなかっただろ?」
「うん――――祐人がリナトに抱いて欲しいって言うのを聞いて、初めて抱いて欲しいときは抱いて欲しいって言えばいいんだって知ったんだ」
「俺は待ってたのに」
「――――抱いて」
ユーリはリナトの背中へ腕を回した。
「あの時は――――」
ユーリが続けた。
「リナトがずっと抱いてくれなくて、リナトが欲しくて、欲しくて、やっともらえた腕の中で不安が占領してた。もし、リナトがいなくなってしまったら、そう 思ったら膨れ上がる不安に体ははじけ飛んでしまいそうだった……」
「俺はどこにもいかない。お前は……もう、どこにも行かないか?」
「うん。ずっと、傍において――――」
甘い息が空気の中へ溶けていく。
「ああ」
リナトの熱い息を耳に感じて、ユーリは静かに目を閉じた。


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