カレンダーのない世界へ来て、どれだけ日にちが経ったのか。祐人には分からなくなっていた。時計もないのに、時間は不思議と身体で感じる。日差しで、肌に 感じる風で、自然は時間を教えてくれる。
時折、風は聞きなれた声を運んできた。
「祐人」
通り過ぎていくような声は空耳だと分かっているのに、振り向いてしまう。
一瞬しか聞こえないその声は、脳裏に愛しい人の姿を思い浮かばせる。元の世界へ戻れたとしても、戻れないとしても忘れなければいけない。なのに、まだ胸は つくんと痛む。
この空の下にはいない人なのに、すぐ近くで呼ばれたような気さえした。手を伸ばしたら、空間が捩れて元の世界へ繋がっていそうなほど……。そう思い、ふっ と笑う。あり得ない。けれど、今起こっていることもあり得ないことだ。
元いた世界へ?
そう思いながら、両手を伸ばそうとして祐人は止めた。
ユーリが戻ってくるまで、ここにいるとリナトと約束した。それだけではなく、戻ってどうするのだろう。
遼平は自分がいなくなったことにほっとしているかもしれない。
両親も、ホモの息子なんていらないだろう。
自分は戻ったところで、周りに迷惑をかけるだけの存在かもしれない。
胸が躍るような楽しみがあるわけじゃない。贅沢な食卓を望めるわけじゃない。ただの単調な日々、不安を感じることもある、傍にいる人は自分を愛してくれて いるわけではない、それでも、ここでは心がひどい痛みを感じることはなく過ぎていく。
ただ、風のように流れていく声を聞くと、胸がざわざわする。
初めは友達だった。ただ、傍にいることが心地よくて、相性がいいのかな、ぐらいにしか思っていなかった。それが、傍にいることが当たり前になり、姿が見え ないと不安になっていった。
好きなのだと気づいたのはほんの些細な出来事だった。
遼平に彼女ができた――――中学二年の時そんな噂を聞いて、いてもたってもいられなくなった。掃除当番でまだ掃除中だった遼平に文句を言った。
『彼女ができたんなら教えてくれてもいいだろ』
親友だと思っていたやつが、自分に隠し事をしていたのが許せない。自分のいらつきにその時はそういう理由をつけた。
遼平は眉根をよせた。
『はあ? 誰のことだよ』
『しらばっくれるなよ』
泣きそうだった。絶対涙なんか見せるもんかと思ったけれど、瞳が潤んでくるのが分かった。
『話見えないんだけど』
遼平は怪訝そうな顔をしながら、机をがたがたと運んでいた。この後に及んで何を隠すことがあるんだ、と思うと祐人は唇を噛みしめた。
『聞いたか遼平』
どっから現れたのか、同じクラスの佐伯が遼平に声をかけた。
『なんだよ』
面倒臭そうな声で遼平は佐伯に答えた。
『二組の深沢と四組の加嶋、うまくいっちゃったらしいぜ』
――――二組の深沢?
遼平の眉がぴくっと動いた。祐人は息を呑んだ。
『へえ、二組の深沢、亮、平とね』
意味ありげな遼平の言葉に、祐人は遼平に背を向けるとそのまま教室を出ようとした。
『どうしたんだよ、あいつ』
佐伯の声が背後から聞こえた。遼平が何か答えたようだったけれど、机を運ぶ音で聞こえなかった。祐人はそのまま教室を出た。良かったと思う反面、先走った 自分が恥ずかしかった。
『探したぞ』
テラスから校庭を眺めていた祐人の肩を遼平はぽんと叩いてきた。
ちらっと遼平を見やると、祐人はすぐに視線を校庭へ戻した。
『彼女ができたら、最初にお前に報告するって』
テラスへ背を預け、遼平は祐人の顔をうかがうようにする。
『ごめん』
謝った祐人に、遼平はそんなこと気にすんなよ、と言った。うん、と頷きながら、祐人は違うことを考えていた。
彼女ができたということが誤解だとわかったとき、これからも遼平は自分の傍にいてくれる、と思った。噂話を聞いたときの苛つきは自分に話してくれなかった ことじゃない、とわかってしまった。
告げた思いに答えてはくれなくても、だからといってすぐに忘れられる気持ちではなかった。
今も。
脳裏に姿を思い浮かべると、胸がきゅっと締め付けられる。
――――遼平ごめん。僕はいい友達にはなれなかった


ある日、リナトが馬に乗って帰ってきた。ここにも馬がいるのだと、祐人は始めて知った。
「明日、一緒に来て欲しい」
夕食の時にリナトが言った。
「仕事場に?」
足手まといにはなっても、役には立てないと祐人は思う。
「ご主人様がお前に会いたい、と言ってるんだ」
「僕に?」
「そう、お前に」
「ユーリではなくて?」
「そうだ」
リナトが頷いた。

と言うことは――――。
リナトのご主人様は祐人のことを知っているということだ。
なぜ僕に? という疑問は不安になって広がる。
祐人の手は止まっていた。
「心配することはない……母親の友人だから」
「お母さんの?」
初めてリナトから親という言葉を聞いた。
「ああ」
短く答えた後、リナトはただ皿の上のものを口に運んでいた。
それ以上は話すことはない、ということなのだろうと祐人は理解した。ユーリの過去について知りたくはないとリナトは言った。それを裏返せば、自分の過去も 知られたくないということかも知れない。
ここで生まれたというリナトはこの島を出ることができるはずだ。なのに、その意志がないように思えた。この時代の世界がどうなっているかは分からないけれ ど、未来である世界は祐人が住んでいた世界よりも生活も娯楽も進んでいるように思う――――ならば、なぜリナトは外へ出ることを欲しなかったのだろう。
疑問を口にしたところで答えてくれるとは思えなかった。

祐人は始めて馬に乗った。
遊園地でひょこひょこ歩くポニーになら小さい頃乗ったことはある。人が引きゆっくり歩くポニーでさえ落ちそうで怖かった記憶があった。まして、ポニーより 高い馬で、速さなんて比べ物にならない。
初め、リナトの後ろに座った。しっかり捕まっていろと言われてその通りにした。怖くてしがみついていたのが実情だ。周りの景色なんて見る余裕は無かった。 ただ、リナトの背中にしがみついていた。
どれくらい経ってからか、馬がスピードをゆるめ、止まった。もう着いたのかと祐人が顔をあげると、あたりは何もない草原だった。
「そのまま乗っていろ」
そう言うと、リナトは手綱を持ったまま一度降り、祐人の後ろに乗りなおした。
「馬は初めてか?」
リナトの言葉に祐人は小さく頷いた。声がでなかった。
「少し、ゆっくり行こう」
リナトが手綱を引くと、馬は歩きだした。徐々に速度を速めていく。けれど、リナトの両腕に包まれているようで、恐怖心はだいぶ収まっていた。少し回りを見 る余裕も 生まれた。風景が変わっていく。片側には森が広がっていた。ぽつぽつとある四角い白い家の他には人工的なものは何ひとつない。
蒼い空と木の緑と土の茶色、遠くに見える低い山々がおりなす稜線、そして建物の白がきれいな風景画を描いていた。

突然、目の前に大きな柵が広がる。
段々と近付いてきたそれは見上げるほど高いものだった。柵の途切れたところに立つ人がいる。リナトが手綱を引くと、馬は速度を緩め歩きだした。
「リナト、早いな」
門の横にたつ人がリナトに声をかける。
「ああ、アイラさまに呼ばれているんだ」
「そうか、それで今日は連れがいるのか。アイラさまもユーリがお気に入りだからな」
男が意味ありげに笑う。
「じゃあ、後でな」
リナトは手綱を引いて馬を走らせた。
柵を抜けると、道の両脇に見渡すかぎりの畑が広がっている。埋もれるように、人の姿も見えた。
「ここは何を作っているの?」
緑の葉が生い茂る中、白いものが弾けている。
「綿花だ」
「綿……」
祐人にとって綿は、普段布になったものしか見ることはない。

広い農場を抜けると、別世界のような庭園が広がっていた。手入れされた木々と、石で作られた彫刻が所々に置かれている。
ここまでの道のりとはあまりに風景が違っていた。突き当たりにある赤茶色のレンガ造りの建物は尖った屋根に煙突、丸い飾り窓まで持っていた。
馬がゆっくり止まる。
「着いたよ」
リナトが言った。
「あ、うん」
リナトは先に下りると、手を差し出してくれた。祐人はリナトの手に捕まり、馬から降りた。そのまま思わずあたりを見渡してしまう。何も望みがないような土 地にもこんなところがあるんだ、思った。きっと多くの使用人を抱えるからこそできることだ。
「行くぞ」
声をかけられ、祐人はリナトの後ろへ駆け寄った。
建物の脇の馬小屋で馬を繋ぐと、アーチ型の入り口へ入っていった。暗いのかと思った中は明るくて、火ではない電灯が照らす。入り口についている鐘を鳴らす と、両開きのドアが静かに開いた。
「アイラさまに呼ばれている」
中からでてきた男にリナトが告げると、男はゆっくりと頷いた。

窓から差し込む光りで廊下は明るかった。石膏を流しこんだようなリナトの家とは床も違っていた。木でできた廊下は足を進めるたびに、ぎぃっと小さな音をた てた。
階段を上り、突き当たりの両開きのドアをリナトはノックした。
「どうぞ」
中から女の人らしい声が聞こえた。

「アイラさま、失礼します」
ドアを開け、リナトが頭を下げる。
「待っていましたよ。リナト」
優しい声が聞こえた。
リナトに促されて、祐人も部屋へ入った。窓の前にあるソファの前で立っている人がいた。
「初めまして」
どうしたらいいのか分からず、祐人は頭を下げた。頭を下げた先に、ドレスの裾が見える。淡いベージュで艶のあるしなやかなドレスをその人は纏っていた。
「いいのよ、堅苦しい挨拶は。名前はなんと言ったかしら」
アイラは祐人に歩み寄り、手で祐人の肩に触れる。思わず顔を上げると、アイラは優しく微笑んでくれた。栗色の肩まであるゆるやかなウエーブをもった髪にグ レーの瞳が優しく光っていた。リナトは母親の友人と言っていたが、思っていたよりもずいぶん若く見えた。
「あ……祐人です」
「ゆ、う、と、くんね」
アイラに確認するように言われて、祐人は頷いた。
「さあ、どうぞ座って」
手でソファを示す。祐人がリナトを見ると、リナトが小さく頷いた。動く様子がないところを見ると、自分は立っているつもりらしい。自分だけ座っていいのか 祐人が躊躇っていると、
「リナトもこちらへ来て、初めてのところで彼も不安でしょう」
アイラがリナトへ声をかけた。
「はい」
リナトは返事をすると、祐人を促すようにソファへ腰を下ろした。続いて祐人も腰を下ろす。
二人が座ったことを確認するように、視線をリナトと祐人へ交互に向けると、アイラは向かいあうソファに腰を下ろした。

「さっそくだけど、リナト」
「はい」
リナトがアイラに向かって顔をあげる。
「彼はユーリよ」
「え?」
短い声をあげると、アイラを見つめたままリナトの動きが止まった。祐人は驚きで声さえ出せなかった。

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