リナトは出ていけとは言わなかった。祐人には行くところがない。暗黙の了承のように二人の生活は始まった。
生活の中での疑問の答えはユーリの記憶の中にあった。
けれど。
ユーリの記憶に蓋をする。
それは自分が触れてはいけないものだと、祐人は思った。
ただ、そこには限界があって。
ユーリ、教えて。
祐人はユーリに話しかけた。ここで生活をしていくには、祐人には知らないことが多すぎる。

朝は仕事へ行くリナトの食事の支度をする。食事といっても、ある野菜を茹でるくらいのことだ。昼は、火の番と水汲みと畑仕事、そして簡単な掃除と洗濯、そ の後に夕食の支度。
気候が良いから厚手のものはいらない。一年中、綿のもの一枚で足りる。
リナトの仕事は農場の警備。三交代でローテーションを組んでいる。休みは三日おき。
治安を守る警察はないから、必要ならば、金を出して人を雇うしかない。
街では殺人、強盗、暴行が日常茶飯事のように行われているらしい。何をしても罰せられることはない。取り締まるものがあっても、犯罪は起こるのだから、抑 制されるものがないのならそれは尚更だろう。
その中で、コミュニティはできて、以前よりは住みやすくなったという。
生活していれば、新しい命も生まれる。リナトはここで生まれた。
ここで生まれたものと、罪を犯して送られたものには大きな違いがある。それは、腕の中ほど、花型に押された痣のような印で、それをもつものは、もう、ここ か ら出ることはできない。ユーリの腕にも、それはあった。淡紅色の痣は桜の花のようにも見えた。たとえ、腕を切ったとしても、心臓近くにICチップが埋めら れていて、それを取ることはできない。
ここで生まれたものは、手続きを踏めば外の世界へ出られる。リナトにはその権利がある。


「明日は街の市場へ行こう」
夕食の時リナトが言った。
祐人がここに来てから、一週間が過ぎていた。
「うん」
リナトに逆らうことはできない。
祐人にはリナトとユーリの契約は関係ないかもしれないけれど、追い出されたら生きていくことはできない。誰も知る人のいない地だ。
けれど、初めての遠出に祐人は不安を感じながらも少し心が弾んだ。街の市場がどんなところであるか、想像することすらできない。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ベッドの上ではないテーブルの前で、リナトはランプを渡してくれる。恋人でもパートナーでもなかった。奴隷としてユーリはリナトにかしずく。ユーリはリナ トには逆らえない。けれど、ユーリではないからか、リナトは祐人に無理なことを押し付けたりはしなかった。
部屋に入り、明かりを入り口近くにある杭に下げると、祐人は小さくため息をついた。
身体の奥が疼く。抱かれたい、と身体が言う。手慰みなんてものは、たった一瞬の慰めにしかならなかった。
抱いて――――そう口にしたかった。それをユーリが、まして祐人が言うことを許されるのかどうかは知らない。だから、躊躇ってしまう。
ユーリではないからか、リナトは祐人だと知ると触れることさえしなかった。
あれだけ激しく抱いてくれたのに――。
ベッドに入ると、祐人は疼く身体を丸めた。なかなか寝つくことはできなかった。

次の日朝早く、空が紫色のベールをまとっている頃に家を出た。
どこまでも広がる草原は、何を目印にして進むのか分からない。ただ、人が踏み固めたところが道のようになって伸びていた。祐人はリナトの後に付いて歩い た。時折、リナトが振り向く。そして、祐人を見やると何も言わずにまた前を向く。
言葉は無くても、気遣ってくれているのが分かる。
いくら歩いても景色の変わらぬ道を、ただ前へと歩いていた。
リナトが空を見上げ、立ち止まった。続く祐人もリナトにならって立ち止まる。
「あそこで少し休もう」
リナトは近くにある木を指差した。
「うん」
リナトには従うだけだ。
けれど、リナトは気づいたのだろう、と思う。少しづつ祐人はリナトから遅れていた。遅れた距離を取り戻すために少し走り、でも、また遅れてしまう。どの位 の時間歩いたのか分からない。少なくとも、祐人が今まで生きてきて、これほど歩いたことはない。
そして、自分の足だったら、きっともう座り込んでいただろう。腕も足も自分のものとは違う。三年間、ユーリはここで過ごしてきた。水を運ぶことも、畑を耕 すことも、ここでの生活全てが身体を作っていく。
少しだけ触れたリナトの胸も硬かった。身体を布で隠していても、体格のよさがうかがい知れる。
「水、飲むか?」
リナトが背負っていた麻袋から水筒をだし、かざす。
「うん、少しだけ」
祐人が答えると、リナトは水筒を渡してくれた。
「あと、どれくらい?」
水筒を返しながら、祐人は訊いた。
「半分は過ぎた」
リナトの答えに、目の前が真っ暗になる。
あと半分――――それで終わりじゃない。まだ帰りがある。



市場は木でできた台と簡単な屋根をもつ露天が軒を連ねていて、さまざまな人々が行きかっていた。人種も国も越えた混沌とした社会がそこにあった。聞こえる 声も何を言っているのか分からない言葉がある。肌の色も髪の色も瞳の色も全てが混ざっていた。
着いてまず、リナトは店の前にあった椅子に座らせてくれた。
「少し待っていろ」
声をかけ、すぐ横にあるカウンターに行く。戻ってきたとき手にしていたものは、小さなカップで、渡されて覗くとオレンジの酸っぱい匂いが鼻を掠めた。リナ トを見上げると、飲めと仕草で示す。
一口飲むと、オレンジの爽やかな味が口に広がった。
「おいしい」
それは、ずいぶん久しぶりな味がした。
「お前はそればかりだな。東京なら、もっと色んなものが簡単に手に入るだろ?」
リナトは怪訝そうな顔をした。
「そうだね」
祐人は素直に頷いた。
でも、同じものを出されても、同じ味には思えないだろうと思う。そんなことを考えたことは無かったけれど。


人波をかきわけながら、干し肉と干した魚、チーズと粉をそれぞれの店で買った。
「何か欲しいものはあるか?」
リナトは訊いたけれど、祐人はかぶりを振った。何があるのか分からない、そして、何も欲しいとは思わなかった。
「果物でも買うか」
そうリナトが言った時、周りの人の流れが変わった。
「きゃああああ――――やめっ――」
そして、突然悲鳴が聞こえた。
女の声に聞こえたその声が合図のように、周りの人が散るように走り出す。
「ぎゃははははははは」
次には男のつぶれたような高笑いが響いた。
――――え?
何があったんだろう。
そう祐人が思って振り返ろうとしたとき、強い力で腕を引かれた。
「走れ」
リナトは耳元で言うと、祐人の手を引く。思わず持っていた麻布を袋を落としそうになると、リナトはその袋を掴みあげ祐人の手に戻し、また、強く手を引い た。
「急ぐんだ」
「え?」
リナトに引かれるまま、祐人は走っていた。
周 りの人々は四方八方に散らばっていく。子供は大人に抱きかかえられ、手を引かれるものもいれば、抱えられているものもいた。声もなく、誰も後ろを見ようと はしなかった。皆、声のあがったところから、離れることだけを考えているように散らばっていく。店の人でさえ例外ではなく、売り上げのお金を掴みあげる と、商品はそのまま店を飛び出してくる。
祐人はすぐ息が上がってきた。待って、とその一言さえ出てこない。
――――あ
足が空を蹴る。
バランスを崩した身体はリナトを巻き込んで倒れた。
麻の袋が落ち、中からチーズが転がりでていく。手を伸ばして取ろうとした祐人の手を遮り、リナトはかぶりを振ると麻の袋を掴みあげ、祐人も引き上げた。
「走るんだ」
周りにいたはずの人達には追い抜かされてしまったのか、もう人はもうまばらだった。
言葉を返す時間もなく、またリナトに手を引かれる。手も足もばらばらになりそうだった。周りも見えず、ただ引かれるまま足を前に出す。息苦しくて、意識が 遠くなっていきそうだった。
「もう、大丈夫だろ」
リナトが止まったとき、祐人は倒れこんだ。支えてくれたリナトの腕を感じて、祐人はそのまま意識を手放した。

目を開けたとき、祐人は木の陰に寝かされていた。太陽は頂点を過ぎ降りかけている。
「気がついたか?」
リナトが祐人の髪を梳くように撫でた。
「ごめんなさい」
「いや。悪かったのは俺だ」
リナトは身体についた土埃を払うように叩くと立ち上がった。
「暗くなるまでに帰りたい」
手を祐人に差し出す。
「うん」
差し出された手を取りながら、祐人は頷いた。
「市場へ戻るの?」
チーズを落としてきてしまった。落としたものはもうないかもしれないが、買うことはできるだろう。それに、果物を買うと言っていた。
リナトはかぶりを振った。
「いや、帰る。もうあそこはだめだ。今ごろは物取りの巣になっているだろう」
商品そのままに、店の主さえいないのならば、誰はばかることはない。
「何があったんだろう」
何がなんだか分からないまま、逃げてきた。
「そんなことは考えるな。周りのやつが逃げるようなら逃げろ。何があったか気にしていたら、こっちもやられてしまう」
秩序はない――――そう言ったリナトの言葉を思い出した。
「危険な目にあわせて悪かったな」
向けてくる瞳は優しかった。
「ううん」
足手まといになったのは自分だった。ぼんやりしている場合じゃなかったんだ。
「結局、何も買えなかった」
「あ、でも、干した肉と魚と粉は大丈夫」
リナトがふっと笑う。
「それなら、近くで手に入るものでもいい。チーズもヤギならあるが……」
リナトが口を噤んだ。
「ヤギのチーズがあるんだ」
「食べたことあるか?」
「……食べたことはない」
「そうか。ユーリが唯一食べられなかったものなんだ」
リナトは遠くを見るように視線を走らせた。
ユーリ、どこにいるんだ――――そうリナトが言っているような気がした。

帰り道、市場とはいえないような小さな露天で、ヤギのチーズを買った。夕食の時、一欠けら口に入れると祐人は固まってしまった。チーズは嫌いじゃない。カ マンベールでもブルーチーズも食べられる。けれど、これだけは、もう口の中に入れたくないと思った。
ほとんど噛まずに飲み込み、水で流し込んだ。
「ユーリと同じだ」
そう言って、リナトは笑った。
祐人は初めてリナトの笑顔を見た。

夜ベッドに入ると、祐人はため息をついた。
身体は疲れきっていた。昼間に聞いた悲鳴がふっと蘇る。人々は散っていった。きっと助ける人は誰もいなかったのだろう。かといって、自分が助けられるかと いえば、それに答えることはできない。ここでは自分の身は自分で守らなければいけない。きっと自分のことはリナトが守ってくれるだろう。リナトが手を引い て走ってくれ なければ、今日もどうなっていたか分からない。
リナトは今日初めて笑いかけてくれた。
顔を思い浮かべるだけで、身体は疼く。ここ数日、なかなか寝付けなかった。けれど、身体は酷く疲れていた。
目を閉じると、祐人の意識はすっとなくなっていった。

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