「ユーリっ!」
ドアの向こうから聞こえた男の声で祐人ははっと意識が戻った。暇な時間をうとうとしていたら寝てしまっていたらしい。
乱暴にドアが開けられ、ドアの向こうには祐人が待っていた男が呆然とした顔をして立っていた。
窓から夕日が差し込んでいた。その光が男の顔をオレンジ色に染める。
「ユーリ、良かった……」
男はゆっくりベッドまで歩いてくると、祐人の身体を抱きしめた。そのまま苦しいほど抱きしめてくる。
訳も分からず、祐人はされるままになっていた。
ユーリとして生きていくのならば、この男を受け入れていくこと、だと思う。
おずおずと祐人は男の背中へ腕を回した。恋人であれ、パートナーであれ、抱きしめられればそれを返すものだろう、と思う。
「このあたりはまだ安全だと思っていたのに。それも昼間に現れるなら、ちゃんとした対策を考えておいた方がいいかもしれない」
男は祐人の頭を背中を撫でながら、言葉にする。熱い息が耳にかかり、身体の奥が疼いた。
身体はこの男がどれほどの愉悦をくれるのか、ちゃんと分かっているらしい。
「もう大丈夫だ。話を聞かせてくれ。対策を練るにも相手を知らなきゃできない」
「え?」
話をしろと言われても、それが身体が入れ替わったことだと祐人には思えなかった。そうならば、自分をユーリとは呼ばないだろう。
何の話をしろと言うのだろう。
「ユーリ?」
男は身体を離して怪訝そうな顔で祐人の顔を覗きこむ。
「あ……」
何を言えばいいのか分からない。
しり込みした祐人の引いた手は自分の身体にぶつかりポケットに触れた。
かさっとポケットの中で小さく音をたてるものがある。
「あ」
これも早く返さなければいけない。
祐人はポケットから紙幣を一枚取り出した。テーブルの上に置いてあったものだ。
「これは?」
紙幣を見たとたん、男の顔色が変わった。眉を顰め非難するような瞳をみせる。
「あ、取ろうとした訳じゃないんだ」
いい訳が先にでた。一瞬で硬くなった空気に祐人は無言で責められていると感じた。
「テーブルの上に置いておいたやつか?」
「……うん」
男の顔色をうかがいながら、祐人は頷いた。
「なぜお前がこれを持っているんだ」
男は祐人の手から紙幣を取り上げた。
「あ、忘れたのかと思って……あんなところに置いておいたら、無用心だと思ったから」
入り口のすぐ前にあるテーブルへ、お金を置いておくことなど祐人には考えられなかった。
男は大きく息を吐き、祐人に背を向けるようにベッドの縁へ腰掛けた。
沈黙が流れる。
何か言わなければ。そう思いながら、祐人は言葉を出せずにいた。隠していたわけじゃない。帰ってきたらすぐ渡そうと思っていたし、実際そうした。それでも
許されないのなら謝るしかない。
けれど、男の背中は全てを拒絶しているように見えた。言葉は喉元で止まる。
「お前は、自分はユーリじゃない。そう言ったな」
そう言うと、男は小さく息を吐いた。
「それは……」
ユーリとして生きていく以外にないと、祐人は思ったばかりだった。
「お前は誰なんだ」
背を向けたまま、男は顔を少し傾け視線を祐人に向けた。
まっすぐの視線に嘘をつくことはできなかった。
「……祐人」
どう答えたらよいのか分からず、祐人は名前を告げた。
なぜだか分からない。けれど、男は祐人をユーリではないと悟ったようだった。
「ユーリはどうしたんだ。どうやって、お前はユーリの身体に入り込んだんだ」
男は顔をゆがめると、言葉を投げつけてくる。
「……分からない」
何も分からない。祐人自身、自分の身におきていることでありながら、これが現実であると、まだどこか信じられずにいる。
「何も分からないんだ。なぜ自分の身体じゃないのか。なぜ、自分がここにいるのか」
男の瞳をまっすぐ見つめながら、祐人は答えた。
今なら信じてもらえるかもしれない。信じてもらえないとしても、それが真実だ。
男は無言で祐人を見ていた。そして視線を伏せると立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとする。
「待って」
祐人の呼びかけに一瞬立ち止まり、けれど、男はそのまま部屋を出て行った。小さなドアを閉める音の後、部屋には沈黙が広がった。
沈黙がそのまま不安になって祐人の胸に広がる。置いていかれたら、自分はどうしたらいいのか分からない。サンダルをつっかけると、祐人は男の後を追った。
「待って」
部屋を出た先に、男の姿は無かった。自分の部屋へ行ってしまったのかと、部屋をつっきろうとすると、台所に動く影があった。慌てて身体の向きを変えると祐
人は台所へ飛び込んだ。
「待って、僕は――――僕はどうすればいい?」
今、頼れるのはその男しかいない。
男は火をつけようとしていた。朝、祐人が見たとき、ちろちろと燃えていた火はただの燃えかすの山となって消えていた。薪を足し、木の皮に男は火をつけよう
としている。
「ユーリを返してくれ」
祐人には顔を向けず、男は言い放った。
祐人は固まった。
「ユーリを今すぐ返してくれ。それができないのなら、少し大人しくしていろ」
「あ、」
返す言葉がない。
男は火がついたことを確認すると、祐人に背を向け、桶を持って裏口から出ていった。
大人しくしていろ、と言われた以上、祐人は待つことしかできなかった。
しばらくして帰ってきた男は隅の瓶に汲んできたらしい水をあけた。
「ユーリがいれば、昼間ユーリがしていることだ。太陽が沈む前に、水を溜めて、芋も少し取ってこないと、もう貯えはないはずだ」
「あ、僕も手伝うよ」
祐人は部屋を突っ切り、男が持っていた桶へ手をかけた。
「じゃあ、来い」
男は祐人が持った桶を離し、もうひとつあった桶を取り上げると、祐人を促すように裏口の方へ歩く。
先に行く男の後を祐人は付いていった。ドアを開けると、オレンジ色の空が地平線の向こうに広がっていた。遠くに見えるのは低い山々。そして、どこまで続い
ているのか分からない草原には窓から見た景色と同じく低い木と四角い建物がぽつぽつとあった。
「早く来い」
促されて、自分が立ち止まっていたことに気がつく。男のとこまで走っていき、壁を回ったところに、小さな井戸があった。
綱がついている小さな桶を井戸の中へ落とし、綱を引いて引き上げる。まるで、昔の映画で見たような光景がそこにあった。
太陽が沈んだ外は漆黒に塗られていた。空を見上げれば、光る星がある。けれど、それは地上を照らしてくれるほど明るくはない。
テーブルの上で小さな火が揺れていた。
そして、皿の上には干し肉と皮がついたままのジャガイモが盛られていた。
向かい合い、男は無言でそれらを口へ収めていく。
井戸から水を汲んだ後、少し離れたところにある畑で芋を掘った。広がる土地に柵など見当たらない。どこまでが敷地なのか祐人が聞くと、『そんなものはな
い』と男は答えた。
洗ったジャガイモを少しの塩で茹でる。そして、壁にかかった袋から、男は干し肉を出してきて、皿に盛った。
まだ湯気のたっているじゃがいもをひとつ取ると、祐人は一口齧った。お腹は空いていた。口の中でほっくりと崩れたジャガイモは、いままで食べていたものと
同じものかと思えるほど、美味しく感じた。
「……おいしい」
思わず言葉にでた。
目の前の男がふと動作を止め、祐人を見る。
「こんなものが美味しいなんて、お前今まで何処にいたんだ?」
不思議そうに祐人を見る。
「……日本、東京」
祐人が答えると、男は眉を顰めた。そして、男は何もなかったように、また食べ始めた。
知っていますか? そう訊こうとして、祐人はまだ目の前にいる男の名前を聞いていないことに気がついた。
「名前を、教えてくれませんか?」
祐人は男に問いかけた。ユーリではないと知りながら、出ていけとは言わなかった。
「……リナト」
目の前の皿に視線を落としたまま、リナトは答えた。
リナト?――――そう頭で思った途端に、頭の中で引き出しが開いたように情報が頭に溢れてくる。
ゆっくりとリナトは顔をあげた。
「お前との関係は――――」
祐人はリナトの言葉を遮るように、かぶりを振った。
「言わないで」
悲しい現実を言葉では聞きたくなかった。
奴隷――――そうユーリの記憶は教えてくれた。ユーリはリナトに買われた。
リナトが怪訝そうな顔をする。
「分かったから。ユーリが教えてくれた」
「ユーリがいるのか? 」
祐人はかぶりを振った。
「ユーリの記憶が教えてくれた」
頭の中の情報を引き出せば、ユーリの知っていたことを知ることはできるらしい。
「じゃあ、これは何のためのものか分かるか? 」
リナトはテーブルの上に置いてある紙幣を取り上げた。祐人がさっきまでポケットの中に入れていたものだ。男は祐人の手から取り上げたそれを、またテーブル
の上に返した。
「物を買うためのもの」
それ以外には思いつかなかった。
「違う。なぜ、ここに置いてあったか」
忘れていったのではなくて、わざと置いていったのだと、祐人はリナトの言葉から悟った。
テーブルに紙幣を置いておく意味?
頭の中で答えを探る。ひとつの答えに辿りついて、それが疑問を生んだ。
「なぜ、物取りのためにお金を置いておくの?」
言葉に出した途端、祐人には答えが分かった。
「ここには、秩序がないからだ」
祐人が見つけた答えを、リナトは言葉にしてくれた。
法も無ければ取り締まる者もいない。自分は自分で守らなければいけない。
物を取るためだけに、家に忍びこんだならば、金を手にすれば用はない。それなりの金額のものを目に付く所へ置いておけば、それ以上の被害はない。それは、
生活をしていく上での知恵だ。
でも、なぜ、ここには法がないのだろう。
答えを見つければそれが疑問になる。連鎖を繋げながら祐人は少しづつ今自分のいるところを理解していった。
――――80年前、海底深くを震源とする地震によりひとつの島が生まれた。
新たな大地と驚喜されたその地は、獲得のため多くの陰謀が渦巻く中、いつまた海の中へ消えてしまうか分からない不安定な土地だという調査結果がでた。そん
な面倒な土地をどこの国を欲しがるわけはなく、押し付け合いの結果、ひとつの結論がだされた。どこの国も所有しない、共同所有の土地と。
そして、悪しきもの、不必要なものを閉じ込めるための器として。
まず、生態系を破壊するほど増えすぎた動物が送り込まれ、その後、罪を犯した人間が送り込まれた。それが、70年ほど前。故郷に戻る術はなく、島に閉じ込
められた人たちは生きるための営みを始めた。ここは、パニトリーニと呼ばれている。
そして、それは、祐人が知ってるいる時代より更に先であることを示していた。
ユーリは三年前罪を犯して、この島へ送られた。それはユーリが十五歳の時だった。
「食べないのか?」
リナトが祐人手元を指す。湯気があがっていたジャガイモは冷えて硬くなっていた。
祐人は目頭が熱くなった。
ユーリがここに送られた経緯まで、記憶は教えてくれた。
「ユーリは悪くないのに……」
ユーリはここに来るべき人じゃない。
「黙れっ!」
ドン!と叩かれたテーブルの音と共に厳しい声で怒鳴られ、祐人の身体はぴくっと震えた。
「ユーリの過去を勝手に探るんじゃないっ」
祐人を睨むように、リナトは続けた。
「知っているんですか?」
ユーリの犯した罪を。
「俺は知らない。知るつもりも無い。知る必要のないことだ。知ったところで何も変わらない」
「だけど」
ユーリをただの罪人だとは思って欲しくない。
「知って欲しければユーリが自分から言うだろう。人には誰にも知られたくないことがあるはずだ。お前には無いのか?」
「あ……」
「少なくとも、お前が知る必要もなく、話すことでもないだろ」
言い切られて、祐人は口を噤んだ。
自分が言うことじゃない――――それは確かにそうなのだろう。ユーリがリナトに知って欲しいと思っているとは限らない。
「早く食べろ。その身体はお前のものじゃない――――ユーリのものなんだろ? 大切にしてくれ」
初めは厳しかったリナトの口調は、最後には柔らかくなった。口調とともに、表情も変わる。
ユーリを可哀想だと思うなら、今自分がすることは同情じゃないのだろう。
「……うん」
祐人は齧りかけのジャガイモに口をつけた。冷えてしまっていたけれど、それには仄かな甘さが残っていた。
ユーリの家は豊かだった――――表向きは。
名
家の跡取り娘だった母は派手で遊び好きだった。親が決めた相手と結婚しながら、外で子供を作った。子供が生まれても家には居つかず、外で遊んでばかりい
た。ユーリを世話していたのは血の繋がらない父だった。年端もいかない内から、ユーリは父親の慰み者になっていた。父親はユーリに優しかった。自分が家に
いる時にはいつもユーリを傍に置いていた。ユーリは、それを愛情だと思っていた。
誰が知らせたのか、ユーリと父親の関係が母親にばれたとき、それでも、ユーリは何も変わらないと思っていた。
母親が興味があるのは楽しいことだけだと思っていたから。
けれど、ユーリが父親とベッドの上で睦み合っている時、外出しているはずの母親がナイフを手にして突然部屋に入ってきた。
ユーリにできたのは父親を守ることだけだった。
手
に触れた布団を投げつけ、次々に手に触れたものを母親に向かって投げた。枕、ライト、時計、本……。最初投げた布団に包まるように絡まって、母親は思うよ
うに
身動きできないようだった。突然あげた悲鳴の後、母親は崩れるように倒れた。母親に絡みついていた布団には血が浮かび上がってきた。
ユーリの後ろで震えていた父親は、「お、俺は、ここにいなかったからな」と震える声で言い残すと、身に着けていたものを全て持って部屋を飛び出して行っ
た。
父親の姿が消えた後、閉められたドアの音をユーリは何の感情もなく聞いていた。