雨の音が聞こえた。
上から叩きつけられているような音に雨が自分に向かって降り注いでいるような気がするけれど、身体に雨はあたっていない。
身体の上に、触れる布があった。毛布といえる厚いものではなく、大きいけれど薄いただの布。
祐人がゆっくりと目をあけると、柔らかい明かりを感じた。電燈の明かりでもなく、太陽の光でもない。そして、視線の先には薄汚れた天井があった。自分の家
じゃない。ただ、石膏を塗っただけのような天井は、学校の保健室にも思えた。
「気がついたか?」
かけられた言葉に、意識が途切れる前と同じ状況なのだと祐人は悟った。
はおっただけのような服を身に付け、ベッドの縁に腰をかけた男は祐人の髪をすくうように撫でながら、心配そうに祐人を見下ろしていた。
肩でひとつに束ねている薄い茶色の髪、エメラルドグリーンの瞳、切れ長の瞳、高くすっとした鼻は遼平ではないこと、それどころか日本人でないことを告げて
いた。そして、肩にかかる髪をもつこの身体も自分のものでないことが分かった。
「ユーリ?」
髪を撫でながら、男は優しく問いかける。
「何を拗ねてるんだ。そんなに酷いことをしたわけじゃないだろ?」
じれったそうに、その男は続ける。
何か答えなければ――――そう思っても、祐人には言葉が浮かばなかった。
男が深い息を吐く。
「拗ねたければ、勝手に拗ねていろ。明日は早いんだ。俺はもう寝る」
男が腰を上げようとした。
祐人は咄嗟に手を掴んでいた。
この人が行ってしまったら自分はどうしたらいいのか分からない。知らない土地、自分のものではない身体。どうして自分はここにいるのか。そしてどうしたら
帰ることができるのか。
「待って」
かけた声に男が振り返る。瞳の奥に遼平と同じ暖かさを感じた。だから、最初に遼平だと思ったのかもしれない。そう祐人は思った。
祐人が身体を起こすと、ただかけてあっただけの布がはらりと落ちる。
「気が変わったのか?」
男はそれ見たことかというように口元を緩めた。
祐人は男の手を離し、布を胸まで引きあげて握り締めた。
呼び止めたものの、どうしたらいいのか分からない。正直に告げて信じてもらえるか分からない。
男が祐人の顔を覗き込むようにする。その瞳の奥に変わらない暖かさを感じて、信じてみようと祐人は思った。
「僕は、ユーリじゃない」
男は一瞬あっけにとられたような顔をして、次の瞬間には笑いだした。
「何を言い出すかと思ったら」
男は軽く祐人の頭を小突く。
「本当なんだ!」
祐人は男をまっすぐに見つめた。
今、祐人に頼れるのは目の前にいるやつだけだった。
「明日は早いんだ。冗談なら休みの時に聞いてやるよ」
男は額に軽くキスを落とすと、頭を軽く撫で祐人に背中を見せた。
もう一度捕まえようと手を伸ばしかけて、祐人はやめた。
朝早い、と男は言っていた。今が何時か分からない。朝までどのくらい時間があるのか分からない。けれど、彼には彼の生活があって、それを自分は壊す権利な
どない。
入り口近くにあった明かりを持つと、男はドアを開けて祐人の方を向いた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
同じ言葉を返すことしか、祐人にはできなかった。
ドアが閉まると部屋は暗闇に包まれた。
降り続く雨の勢いは衰えていないようだった。まるで、喫茶店のBGMのように自分の気持ちにお構いなしの音が鳴り続く。
身体は何ひとつ身に着けていなかった。ただ、掛けられた布が一枚あるだけだ。それでも寒さは感じなかった。
布に包まると、祐人は壁に身体を寄せた。
石膏を固めたような壁は触れた瞬間冷たく感じた。
これから自分はどうなるのだろう。そう思いながら、それはどこか他人事だった。自分に起きた現実をまだ理解できずにいる。
このまま、この身体を借りて自分は生きていくことになるのだろうか。
幸い、頼れる人はいるようだった。名前も分からない。ただ、遼平と同じ暖かい瞳を持つ男は自分よりニ、三歳年上に見えた。
恋人? なんだろうか。
パートナーとして同性を選べる国もある。どちらにせよ、身体を繋ぐ関係ではある。
ふっと抱かれていたときの身体の感触が蘇った。思うだけで身体が疼く。自分で自分を慰めることとは、はるかに違っていた。身体を穿たれ、上り詰めた快感は
深い余韻を残した。その余韻が残るまま、更に突き上げられ意識は落ちていった。
あの時は逃げる術は無かった。既にこの身体は彼を受け入れていた。
けれど、これからは、自分の意志で、彼を受け入れるのだろうか。
雨は降り続いている。
ここを出ても行く先はない。
「ユーリ!」
声と共に、ドアが乱暴に開かれる音がした。
「いつまで、寝ているんだ!」
身体に掛けていた布が剥ぎ取られる。身体を露にされて、祐人は隠すように身体を丸めた。
いつの間にか寝ていたらしい。雨は上がったようで、太陽の光が窓から差し込んでいた。
「飯の支度もしていないだろ。明日は早い、と昨日言ったはずだ」
上から怒鳴られても、祐人は身体を丸めていることしかできなかった。
「ユーリ!」
身体を無理矢理開かれて、男の顔がすぐ近くにあった。
「僕は……ユーリじゃない」
それだけ言うのが精一杯だった。
眉根を寄せ、不快そうな顔をした男の顔は一瞬緩んだ。
「また、そんなことを言っているのか? なんの冗談だ。それとも、そう言えば、さぼれると思っているのか? 」
反射的に祐人はかぶりを振った。
正直に言っているだけだ。何か悪いことをしようとか、さぼろうとか思っているわけじゃない。
男は、乱暴に息を吐いた。
「俺は行ってくるから、ちゃんと、芋の収穫はしとけよ。昨日一日雨で何もできなかったんだ。食べるものがなくなるぞ」
言い捨てると後ろを向き、部屋の入り口へ向かう。
「分かったな」
大声で言うと、男は乱暴にドアを閉めた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、祐人はこれは現実なんだ、と思った。
現実だと思いながらも、今までどこか夢心地でいた。ふわふわと飛んでいたような意識は怒鳴られたことで地面に突き落とされた。
芋の収穫と言われても、どうしたらいいのか分からない。だいたい、身体に何を身につければいいのか分からない。男は上着に細身のズボンを身に着けていた。
マントをはおれば、教科書に出てきそうだと思いながら、辺りを見回すと、ベッドの縁に掛けられている布がある。上着のようなそれを上からかぶると、ちょう
ど丈は膝あたりだった。その下にあったズボンを穿く。脇にポケットがついている膝丈のズボンはポケット以外は何も装飾のないものだった。床に紐が落ちてい
るのが目に入り、腰のあたりでまいて、上着をたぐりあげた。
まさかと思いながら、時代をさかのぼっている気がする。
ベッドの脇にサンダルを見つけ、履いてベッドから下りた。
何もない部屋だった。ベッドと、衣類が入っているらしい小さな籠があるだけだ。ベッドの反対側に小さな窓がある。そこから外を見ると、祐人は固まった。何
もない草原
にぽつん、ぽつんと小さな家が建っている。小さくて、四角い、真っ白ななんの装飾も施されていないそれは、ただ、雨露を凌ぐだけのものに見えた。
同じ風景を見たことがある。それはテレビの中で、自分が住んでいたところとは海を越えてなお遥か遠く、人類が生まれたとされるところだ。すぐそこに、肉を
食らう獣がいたとしても不思議じゃない。そう思うと背筋がぞくっとした。
外へ出ることが急に怖くなった。外へでなければ芋の収穫などできないだろう。食べるものがなくなるから芋の収穫をしろと言われても、そもそもその芋がどこ
に植えられているのかさえ分からない。
けれど。
――――お腹がすいた
こんなときでも、身体は機能するらしい。
小さくため息をつくと、祐人は部屋を出た。
部屋を出ると、そこは少し大きな部屋だった。部屋の真ん中に大きなテーブルがある。そのテーブルの上に、紙が置かれていた。
長方形のその紙は一目見て紙幣だと分かった。けれど、どこの国のものかは分からなかった。急いでいたようだから、あの男が忘れて行ったのかもしれない。お
金をテーブルの上にただ置
いておくのは酷く無用心な気がして、祐人はズボンのポケットにその紙幣を入れた。
部屋の中を見回すと、向かいに小さなドアがあり、右に大きなドアがあった。左は口をあけたまま別の部屋に通じているようだった。大きなドアを開けると、そ
れは外
に繋がっていて、あわてて閉めると、ドアに背を当てた。
身体全体に響く鼓動を感じた。このドアの後ろは恐ろしいところへ通じているような気がする。少しだけ触れた外の空気は暑くも寒くも感じなかった。部屋の温
度そのまま、
薄い布をはおっていてちょうど良いくらいだ。
深呼吸をして鼓動を鎮めると、もうひとつのドアへ手をかけた。
たぶん、あの男の部屋なのだろう、と思う。取っ手に手をかけて、引こうとして祐人は手を止めた。いない人の部屋を見ることは躊躇われる。
手を離すとテーブルを回り、口をあけていたところを覗いた。見回してそこは台所だろうと思った。暖炉のような石で囲まれた中では火がちろちろと燃えてい
た。隅には大きな瓶がふたつ。そしてドアがふたつあった。
ひとつをゆっくりあけると、大きな穴が掘られているそこはトイレだと思った。もうひとつのドアを開けると、それも外へ通じていた。
シンプルな生活するだけの空間。そこに豊かさは感じなかった。
けれど、それでも生きてはいける。
祐人は部屋へ戻ると、ベッドの上へ上がって座り、身体を丸めた。
これから自分はどうすればいいのだろう、と思う。
自分はユーリではないと、どう言ったら信じてもらえるのだろう。それとも、ユーリとして生きていくのがよいのだろうか。
今頃、自分の身体はどうなっているのだろう。遼平は――――どうしているだろう。
胸がちくんと痛む。そのままきゅっと心臓を掴まれたように苦しくなった。
もしも、自分に戻れたところで、辛いだけのような気がする。それに、昨日抱かれたあの男を嫌だ、とは思わなかった。遼平の影さえ感じた。ここで穏やかに暮
らせるのならば、それでも良いような気がする。
所詮、他人に信じてもらえることでもなければ、どうすれば自分の身体に戻ることができるのかも分からない。
家に帰れたとして、違う身体をどう説明すればいいのか。
ため息がでた。
不安は胸で渦巻く。けれど、一人では何も為す術がない。
祐人は出て行った男に早く帰ってきて欲しいと思った。