――え?
圭太は一瞬酒井と見つめあった。酒井はさっと体を引いて圭太に顔を背けるように手を伸ばして掴んだ下着に足を通していた。
動ける?
圭太は自分のものをしまい込むと、ジッパーを上げてベルトを締めた。
一日待ってくれと言ったその望みが叶った?
不安に思いながらも、圭太がリンに顔を向けると、そこには、もう一人天使がいた。
「リン」
そいつがリンを呼ぶ。
リンはそいつの方を見て固まってしまったように棒立ちになっていた。
「なんで? カイ」
いつものリンとは違う、か細い声だった。
「リン、やりすぎだよ。こんなことは僕達天使がすべきことじゃない」
カイと呼ばれたやつが諭すように言う。
「天使?」
呟くような酒井の声が聞こえて、圭太が見ると酒井はYシャツに片腕を通したまま、呆然とリン達へ視線を向けていた。
「見えるの?」
圭太の問いに、
「何だよ、あいつら」
酒井が目を見開き、おののきの表情を見せる。
「ごめんね。リンは根は優しいいい子なんだ。だけど、僕が不甲斐ない所為で、無理をさせてしまう」
カイが頭を下げる。
切れ長の目は精悍に見えて、すっと伸びた鼻筋と引き締まった唇は整った顔立ちを作り出していて、けれど、表情に優しさを感じた。
「カイは優しすぎるだけだよっ!」
リンが頭を振る。
「僕は天使の仕事をまっとうしているだけだよ。でも、そのことがリンを苦しめていることも分かっているよ。でも、リン。これが僕達に与えられた使命なんだ
よ」
「だけど……」
うなだれたリンの手をカイはそっと掴んだ。
「大天使さまがお怒りだ。リンのコインを没収して、身分を見習いへ落とすと言われた」
「え?」
リンは顔をあげると、泣きそうに歪めた。
「そんなの、そんなのないよ……だって、あれは僕が必死に貯めたものだよ。嘘だって言ってよ、カイ!」
問い詰めるようなリンの言葉にカイはゆっくりと首を振った。
「見習いになったら、カイに会えなくなっちゃうよ。また、何年も会えないの? 嫌だよそんなの!」
リンが叫ぶ。
「でも、それだけのことをリンはしたんだ」
カイの声は穏やかだった。
「……僕は悪いことなんてしてないよ。いつまでもぐずぐずしてるから、時間を短縮してあげただけだよ」
リンは悔しげに唇を噛んだ。
「気持ちには時には時間が必要なこともある、タイミングもある。運命の相手だからといって、必ず結ばれるわけじゃない。それはリン、きみもよく分かってい
るはずだ」
「だから、だから、さっさと結ばれるようにしてあげただけだよっ」
吐き捨てるように言ったリンの顔をカイは覗き込むようにした。
「こんな方法で、お互いの結びつきを確かめられると本気で思っているのか?」
「だって、こいつらは、無性の僕たちができないことができるんだ。いいじゃないか、少しくらい順序が違ったって!」
「リン!」
厳しい声が響いて、空気が一瞬凍った。
「嫌だ……カイ……僕を嫌いにならないで」
リンの縋るような弱々しい声に、カイがそっとリンの肩に手を置いた。
「僕がリンを嫌いになるわけないだろ」
「だって、カイ……呆れてるよね。僕だって天使本来の役目は分かってるよ。でも、その通りしてたらコインは貯まらないよ? いつになったら生まれ変われる
か分からないよ? 僕たちはいつになったら結ばれることができるの?」
「だからって、何でもしていいわけじゃないだろ?」
「だって……」
「ごめんね、リン。悪いのは全部僕だ」
「カイは悪くないよ……」
リンがカイの背中へ腕を回して抱きつくと、応えるようにカイもリンの背中へ腕を回した。
まるで、映画のワンシーンを見ているようだと思った。
呆然と見ていたことにはっとして、圭太が酒井を見ると酒井も口を半開きにしたまま唖然とした表情でリン達へ視線を向けていた。
宥めるようにリンの背中を撫でていたカイが突然視線を向けてきた。
「リンの行き過ぎた行為は謝るよ。すまなかった。僕達は運命の相手であるにも関わらずうまくいかない人たちを救済するためにいるんだ。いらないトラブルを
減らすためにね」
「運命の相手?」
引っかかった言葉があって、それが圭太の口からすっと出た。
カイの言うことが正しいのであれば、圭太と酒井は運命の相手だということになる。
「そう。思いはそれを相手に伝えないと通じないだろ? 僕達はその手伝いをするんだ。それが本来に役目。必要な時には矢を使うときもあるけれど、大切なの
は、その相手が運命の人なのだと分かることだよ。他の人に逃げないことなんだ。だから、それを分からせてあげること」
「あ、でもそれじゃ――」
圭太は思わず口にして、すぐ口を噤んだ。自分には関係ないことだ。
「何?」
カイに聞かれて。
「……コインは貯まらないんでしょ?」
圭太は少し躊躇って、けれど、疑問をそのまま口にした。
リンはコインを貯めると生まれ変わると言っていた。
「僕達の目的はコインを貯めることじゃないんだ。僕らは皆運命の相手と出会えていながら結ばれることができなかった。だから、この次は見誤らないように、
修行をさせられているんだよ。コインが貯まらなくても、大天使さまに認められれば生まれ変わることはできる。けれど、それがいつかは分からない。コインは
数で分かるから、リンが集めたかったのは分かるんだ。それも、二人分……」
「二人分?」
声に出して、ああそうかと圭太は思った。一人で生まれ変わっても仕方ない。
「カイ、どんな罰でも受けるよ。海底で三ヶ月、ううん半年転がっていろって言うならその通りにする。コインはだめだって言われたら諦める。でも、見習いだ
けは許してもらえないのかな……。分かってるの? カイ。見習いになったら主となる真天使さまの元を離れることはできないんだよ。見習いだけは――」
「だめだよ、リン。大天使さまが決めたことだ」
カイの声には戸惑いも躊躇いも感じられなかった。
「カイは僕と会えなくても、全然寂しくないの? 僕は嫌だよ。この次はいつ会えるか分からないなんて、そんなのもう嫌だ」
カイが現れてから、同じやつかと思えるほどリンは変わってみえた。声も態度も表情も。
「じゃあ、どうする?」
カイがリンに問いかける。
「逃げよう……カイと一緒なら、僕はどこへでも行く」
「見つかったら、見習いだけじゃすまないよ」
「だって、じゃあ、どうすれば? 出戻り見習いなんて、いつ、認められるか分からないよ。カイは僕を置いて先に行っちゃうの? もう僕なんて――」
リンがカイの上着を掴む。その手が震えていた。
「なぜ、僕がリンを迎えに来たんだと思う?」
カイがリンの震えている手を包む。
「……カイなら僕が無条件で言うことを聞くから」
「なんでも?」
カイの問いに、リンは小さく頷いた。
「それだけ?」
「え?」
きょとんとした声をあげると、リンは頭を振った。
「他になんて、分からない。だって、カイはコインを持ってないから、真天使にはなれないし……でも、なんでカイ? そうだよ。カイが来ることはなかったん
だ。真天使なら言うこと聞くか聞かないかなんて関係ないじゃん。僕の自由を奪えば済むことだよ。なんで?」
リンがカイを見上げた。
一瞬沈黙があって、カイが優しく笑った。
「没収されたリンのコインは僕が貰った。その上で、大天使さまに聞かれたんだ。真天使になってリンを導くか、それとも生まれ変わるかって」
「嘘……」
呟くように言ったリンの声は震えていた。
「僕は、リンがあんなにコインを貯めていたなんて知らなかった。もう、生まれ変われるだけのものを集めていたのに、リンはそれを選ばなかった」
「だって、一人で生まれ変わったって仕方ないじゃん」
リンが不満げに呟く。
「ごめんね、リン」
カイの羽が大きく羽ばたいて、一回り大きくなった羽の縁は金色のオーラをまとっていた。
「僕の言うことなら、なんでも聞くんだよね」
カイがリンに確認するように言う。リンは無言で頷いた。
「じゃあ、二人に謝って。リンがしたことは天使としてあるまじきことだよ」
カイの言葉に、不服そうにリンは口を尖らせた。
けれど。
「ごめんなさい」
リンは向き合うと、頭を下げた。
「許してやってくれないか。僕達はもう君たちの前には現れない」
カイも一緒に頭を下げる。
「許すも許さないも……」
圭太は何か気が抜けてしまった。
ちらっと酒井を見ると、酒井はYシャツを片方は肩にかけたまま胡散臭そうに二人を見ていた。
「きみ達の幸せを祈ってる。きみ達に助言できることは素直になりなさいってことだけだよ」
カイがにっこり笑う。
「もう一つ。いいことを教えてあげるよ。天使を撃退するには『悪魔』って言えばいい。それは天使にとって最大の忌み言葉なんだ」
カイの言葉にリンがぴくんと反応した。
そのリンをカイは包み込むようにする。
「さようなら」
声と共に湧き上がった小さく白い風が渦巻くようにして二人の姿を消していった。
「あれ、何?」
酒井が怪訝そうな声を出す。
「天使、らしいよ」
圭太はリン達が消えていった先を見ながら答えた。
最後は、なんか天使らしかったな、と圭太は思った。