「なんで?」
リンが不思議そうな顔をした。
おもちゃにされて喜ぶやつはいないだろうと思う。
結局、サインしてしまったら最後リンの思いのままだ。
そう思って――まてよ、と圭太は思った。
圭太が見たのはまだ契約破棄されていない契約書だった。
それでも圭太にはリンが見えた。
「――でも、おかしいよ」
リンが嘘をついてる? 天使なのに?
「何がっ!」
リンがくわっと不満そうな顔をする。
「だって、前の人と契約破棄されていないのに、僕にはリンの姿が見えてたってことでしょ」
リンの説明なら、見えなかったはずだ。そうしたら、こんな面倒なことに巻き込まれなくてすんだのに。
「あーもー面倒くさいなあ」
リンはぶーたれて。
「保留ワードってのがあるんだよ。契約者がその言葉を言ったら、契約が保留されるつか、ほとんど契約破棄状態になるってやつ。ただ天使は優しいやつだか ら、そんなことを言われても願いを叶えてやりたいって思ったら、契約を続行することができる。だから、あの時僕は悩んでたんだ。戻ろうか、新しいやつを探 そうか……そうしたら」
リンが指を指してくる。
出会っちゃったわけだ。
「へえ……」
ちょっと感心した。ただ天使主導のシステムには変わりなさそうだった。
「これでいい?」
リンがふんと得意げな顔をする。
どっちみち契約してしまえば、こいつの手の中で踊らされるということだ。
それは、やっぱ、勘弁だと思う。
で、どうするか。
「ねえ、保留ワードがあるってことは、契約破棄ワードなんてないの?」
この流れならあってもよさそうだ。
「あるよ」
――へ?
聞いたのはこっちなのに、実際あることに驚いた。
「それって、契約者が言ったら、取消線引かれちゃうの?」
「実際には、大天使さまの力でね。その言葉を言ったら即刻契約は取り消され記憶も消されもう二度と天使との契約はできない」
「へえ……」
そりゃすごい。
「なんて言ったらそうなんの」
天使撃退ワードなわけだ。
「教えない」
つんとリンはそっぽを向いた。今までべらべらと聞けばなんでも答えてくれたのに。
「なんで?」
「なんでって。そんな扱いになってるってことは、その言葉を言われたら立ち直れなくなるぐらいな酷い言葉ってことだよ。そんなの自分から言いたくないよ」
――なるほど
けれど、そんなことを言われたら、それはいったいどんな言葉なのか興味がわくのを誰も責められないだろうと思う。
だけど。
ちょっと、気もひけた。
「そんなことを言われたこと、あったの?」
興味は胸の奥でくすぶる。
「あったさ!三ヶ月凹んで、海の底で丸まってた」
――うわっ。
そんなことになるのかと思うと、少し可愛そうになった。
「人間は鈍感だからまったく見えないけど、動物や魚には見えることが多くて、餌みたいに突付いていくやつまでいるんだ。潮の流れが変わると突然冷たい水に 流されたり、更に凹んで漂ってたら船はぶつかってくるし、散々だよ」
「大変だったね……」
暢気そうなのに、色々あったんだな、と思った。

「だから、契約してよ」
リンがにこっと笑顔を見せる。
気の毒だと思いかけていた気持ちに、ぷつんと針をさされたような気がした。
「だから、しないって言ってるじゃん」
平行線はどこまでも交わらない。
「ここまで聞けば、普通契約するよ」
リンが唇を尖らせる。
根負けする、が正解だろうと思った。
けれど。
「――恋人にはなりたくないんだ」
圭太は顔を伏せると呟いた。
リンのことを一筋縄ではいかない相手だと思った。
話を聞けば聞くほど体験が尋常じゃなくて、しぶとさも相当ありそうだ。
「なんで?」
怪訝そうな声が飛んでくる。
「だって――リンもさっき言ったろ。永遠に同じ人を好きではいられないって」
自分の気持ちが変わるとは思えない。
けれど、相手の気持ちは?
この人しかいないと豪語して結婚しても離婚するカップルは多い。
「だから?」
「だめになっちゃうくらいなら――友達の方がいい」
相思相愛になることなんて考えていなかった。
そんなことを考えられないくらい高いハードルが目の前にある。
「そんなの、ナンセンスだよ」
リンが憮然として言う。
「他人事だから、そんなこと言えるんだよっ!」
圭太は叫んでいた。
気持ちがつながることを夢に見ないわけじゃない。
ほんの少しも思わないわけじゃない。
だけど、現実を考えたら、友達でいることが一番いいのだと思う。
「圭太、目をつぶって」
リンが手で目隠しをしてくる。
「何? やめっ」
リンの手を掴んで引き離したつもりだったのに、目の前に現れたのは高沢の顔で、掴んでいたのは高沢の手だった。
――え?
はとが豆鉄砲をくらう、というのはこういうことを言うんだと思った。
「なんで圭太? え? ここは?」
高沢は驚いた顔をして回りを見回す。
「あ……」
どう説明すればいいのだろうと思った。きっとリンの仕業に間違いない。けれど、リンの姿が高沢には見えないし、存在自体信じてもらえるか分からない。
リンは?
そう思って見回してみたけれど、姿は見えなかった。
「どうなってんの?」
高沢は立ち上がって、更に周りを見回す。
「ここ、圭太の部屋?」
聞かれて、
「あ、うん」
圭太は素直に答えるしかなかった。
「なんで、俺……」
いつも冷静で落ち着いている高沢が言葉に詰まるくらい驚いた顔なんて始めて見た気がした。
―― リンの馬鹿っ!
文句は心の中で言うしかなくて、この状況をどう説明すればいいんだと思う。
「……ごめん。ちょっと実験中で――」
咄嗟に出てきたのはとんでもない言葉で。
「実験? 何の?」
当然とも思える質問が返ってきて。
「瞬間移動……って言うか……」
現代科学の最先端を越えているものを、どう説明すればいいんだ、と思う。
「ええっ?」
高沢は更に驚いた顔をした。
―― リン助けてよ〜
こんなときに頼れるのはあいつしかいなかった。
『じゃあ、契約してくれる?』
リンの声が耳に飛び込んできた。
藁をもすがる思いで飛びつきたいと思った声だけれど。
―― 契約?
それは絶対に嫌だった。
けれど。
「圭太がそんな実験してるのか?」
怪訝そうな顔をする高沢が追い詰めてくる。
どうすればいいか分からなくて、そんなとき、圭太の頭に浮かんだのは酒井の顔だった。

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