圭太はリンからすっと顔を逸らして、床に置いた鞄のチャックを開け中からバインダーを取り出した。
こういった訳のわからないものは無視が一番だとその道に詳しい友人から教えられている。
その友人曰く、霊体はどこにでもいて怖がったり気にしすぎるとついてくる、らしい。
天使と霊体は違うかもしれないが、圭太にすれば同じだ。
少なくとも、今の自分には関わって欲しくない存在だった。
それに、早く写して返さないと、気になって仕方がない。
バインダーを開いて、高沢から貸してもらった教科書ガイドをゆっくりと開いた。折り目なんてつけられない。一枚づつ丁寧に気をつけて開いていたのに。
『ねえ!』
突然大声をかけられて、びっくりして、手に力が入ってしまったら、ページの隅を折ってしまった。
「あっ!」
どうしよう、そう思って、圭太は思わずリンを睨んでしまった。
『ほら、見えてるんでしょ? 』
のほほんとした声と顔に怒りがふつふつとおこってくる。
「圭太?」
突然声をあげたからか、高沢が声をかけてくれた。
「ごめん。折っちゃった」
圭太は折れてしまったページを高沢に見せた。きれいに使おうと思ってたのに、一度ついた折り目は戻らない。
「いいよ。そんなの」
高沢が何でもないよ、という顔をして手を振る。
優しさにじんとくる。絶対、高沢の方が天使だと思った。
「それより、早くしないと宮田が来るよ」
高沢が担任の名を口にする。
「あ、うん」
気を取り直して、ページをめくり。
『ねえってば』
しついこいやつに。
「今取り込み中なんだから、静かにしてくれよ」
少し強めのドスを聞かせて、小さく呟いた。
「え、何?」
答えてくれるのは、高沢だったりする。
「ううん。独り言」
圭太は高沢には笑顔を作って頭を振ると、目の前で顔をうかがっているリンを睨みつけた。
ここ数日は平和だったのに、と思う。
可愛い顔はしていても、絶対、こいつは天使なんかじゃないと思う。少なくとも、自分にとっては。
屋上は風が冷たくて、圭太はぶるっと身震いした。
「だからさあ、俺は遠慮するからよそを当たってくれよ」
誰もいないところ、といって圭太に思い浮かんだのは屋上だった。隅に給水塔があるくらいで見通しがきくから知らずに誰かに話を聞かれてしまう心配もない。
「よそを当たったんだけどさあ……」
リンが不満げな声を出す。
「で?」
時間がそれほどあるわけではなくて、圭太は先を促した。
「いい物件がなくて」
「はあ?」
お前はアパートでも捜してるのか、と言いたくなった。
「告ってはいないけど見るからに相思相愛とか、相手に決まったやつがいて絶望的ってのは面白くないしさ」
「はあ?」
へえボタンよろしく、はあボタンなるものがあるならば『満はあ?』を出してやりたい気分だった。
天使、つーのは人の恋路を面白いとか面白くないで判断するわけか?
「それに、圭太の相手が気になったしね」
「はあ? なんで僕の名前知ってるんだよ」
名乗ってはいないはずだ。それが天使の力かと、ちょっとひやっとした。
「だって、そう呼ばれていたじゃん」
そう言えばと思い、圭太はリンと初めて会った時酒井と会話したことを思い出した。
胸を撫で下ろし、なんだ大したことないじゃん、と心で呟いた。
立派な羽根は天使らしいけれど、言うことなすこと、とても天使だとは思えない。
「もしかして、リンって堕天使ってやつ?」
天使という名をもつ悪魔。
「なんだよ、失礼なやつだな」
リンが不快な顔をした。
さすがにまずかったかと思い、謝ろうとしたら。
「ところで、『だてんし』って何?」
という、はあ?と思う質問がきて。
「かわいいってことだよ」
圭太は咄嗟に繕っていた。
「そっか……えへへ」
リンは手を頭へ持っていき、照れたようにへらっと笑う。
確かに、見た目はかわいいんだけどなあと思う。
けれど、そんな無駄話をしている場合でもなかった。
「とにかく、間に合ってるから、僕はいいよ」
恋人になれる、ということを夢に見ないわけじゃない。
だけど、なれるわけがないじゃないか、と思う。
天使の力でなったとして、それは本当の気持ちじゃない。
「なんで?」
リンは食い下がってくる気らしい。
「いいじゃん。別にどうだって。とにかく、僕は今恋人が欲しいとは思ってないんだよ」
「好きな人がいるのに?」
「好きだから、恋人になりたいとは限らないだろ?」
正確に言えば違うけれど、要所はそういうことだ。
「僕が見えるってことは純粋に相手のことが好きだってことだよ。顔がいいとか、金持ちだとか、そんなことじゃなくて、その人のことを心の底から思ってる。
なのに、なんで恋人になりたくないわけ?」
リンが腕組みをし、怪訝そうな視線を向けてくる。
話が段々面倒になっていく。
「リンには関係ないだろ」
圭太は言い捨てた。
流れ星にお願いしたわけでもない。正月に絵馬に書いたわけでもない。七夕の短冊にも書いていない。
なのになんで天使が現れるんだ、とこっちが聞きたいよ、と圭太は思った。
「理由を教えてくれたら、他を当たってもいいよ」
リンが得意げに言う。
目の前で羽根をはためかせるやつは絶対に天使じゃない、と圭太は思った。