何もない平和な日が数日続いた。
あの後リンは追ってこなかったし、しばらくして振り向いてみたらその姿もなかった。
言われたとおり、よそを当たりに行ったらしい。
そうなると、少し惜しいような気もするけれど、圭太はそれで良かった気もした。
いつも通り登校して、教室を覗いたら圭太の目の中にぽんと映るやつがいた。
成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗、そのくせ優しくて、面倒見がよくて、爽やかな笑顔に白い歯が光っていて、男でも見ほれてしまう。
当然、女どもはきゃあきゃあ騒ぎ、独り占めは許さないと協定を組んでいたりする。
そのお陰か、まだ彼女はいないらしい。
同じクラスの高沢俊一。
圭太がそいつを初めて知ったのは、高校入学間もない頃で。
通学途中、あともう少しで学校だというときに、突然チェーンが外れて、スッ転んだことがあった。
肘をすりむき足を打って痛かったこともあったけれど、ペダルが空回りする自転車をどうにもできなくて、困っていた。
大丈夫? 、と声をかけてきてくれたのが徒歩通学の高沢だった。
リンよりも、よっぽどその時の高沢の方が天使に見えた。
その後、通りかかった酒井もチェーンをはめるのを手伝ってくれて、なんとか、学校にも間に合って。
あの時から圭太にとって高沢は特別な存在になっていた。
一年の時はクラスが違い遠くから見ていることしかできなかったけれど、二年になって同じクラスになって。
リンに会った日は席替えがあって高沢が隣になった日で、浮かれて自転車をかっ飛ばしていたのがまずかったのかもしれないと圭太は思った。
高沢は何か読んでいるらしく、下を向いてページをめくっているのか手を動かしている。
姿がそこにあるだけで、心臓がどくどくと存在を主張し始める。
圭太が気持ちを落ち着けようとゆっくりと一呼吸していると、後ろから突然肩を叩かれた。
「おはよっ!」
声だけですぐに分かる。酒井だ。
「――――っ」
油断していたから前につんのめりそうになり、あわてて足を出して自分の体が支えられたことを確認してほっと息をついた。
「何してんだよ」
酒井は呆れた顔をしていた。
「何してたじゃないよっ」
圭太は酒井と中学から同じ学校だった。一番気安い仲ではあって、親友とも言えると思う。ただ、二年生に進級して以来、少し疎遠になった。
酒井が塾に行くようになって一緒にいる時間が物理的に少なくなった。
同じ方向へ帰るといっても、自転車じゃ話をしながら、というわけにはいかない。
「入口は通るところだろ? 突っ立っているところじゃない」
ごもっともといいたくなるような台詞が酒井の口から出てくる。しかし、こっちにも都合というものがある。
「別に、いいだろっ。何してても」
酒井の怪訝そうな視線を避けるように、圭太は教室へ入った。教室へ入ったら自分の席へ行くしかない。嬉しいような、恥ずかしいような、ただ、それは、自分
で盛り上がっているだけで、きっと、高沢は何の感情を持っていないだろうと思う。
誰にも優しいやつだ。
「おはよう」
圭太は通りすがりに高沢に声をかけた。斜め後ろのこの位置がいい。正面からなんてきっと言葉が詰まってしまう。
高沢はふっと気がついたように顔を上げ、にこっと笑う。いつ見ても、きれいな笑顔だと思う。
言葉もなく見とれてしまうのはお約束だった。
『爽やかな笑顔に、心どころか全て奪われてしまうって?』
後ろから突然聞こえてきた声に、圭太の心臓がどきんと跳ね、ついでに体もぴくんと跳ねた。
「どうかした? 」
高沢に不思議そうな顔されて、思わず圭太はぶんぶんと首を横に振った。
どっかで聞いたことがあるような声だと思った。ハスキーなまだ声変わりが終わっていないような声。
後ろを振り向きたくはなかった。
「でも、なんかおかしいよ?」
高沢が顔を覗き込んでくる。
段々と近づいてくる顔に、心臓はどきんどきんと激しくなってきて。
「熱でもあるのか?」
手が額に触れてきて、圭太の体は更に固まった。温かいぬくもりが額に触れている。口にしまりがなくなって涎がたれそうになって、圭太はごくりと喉を鳴らし
た。
『あれえ、僕の手なんていらないってこと? そんなはずないよ。そうなら、僕の姿は見えないはずだもん。見えたってことは片思いってことだよね。そうじゃ
な――――』
後ろでぐずぐず言ってくるやつがいる。
天使だって言ったくせに、せっかくいい雰囲気なのに完全にぶち壊してる。
「圭太? 」
目の前には高沢のきれいな顔があった。
「ううん……別になんでもないよ」
「そっか、今日古典見といた方がいいぞ、当たる日だろ」
「げっ……」
今日は何日だっけと思って、しまった、と思った。
古典の教師は日付の出席番号のやつから指名していく。ベストポイント、まっさきに当たる日だった。それも一時限目。昨日教科書ガイドを見て書き込んでおけ
ばなんてことないのに、英語の宿題にてこずって、古典までは気が回らなかった。
「いる?」
高沢が机の中から教科書ガイドを出す。
「あ、助かる」
圭太は差し出されたものを丁寧に受け取った。高沢のものに傷なんてつけたくない。
自分の机に高沢から貸してもらった教科書ガイドを置くと、鞄を床にどさっと置いた。
『無視するなよ』
ひょいと前に顔を出してくるやつがいる。
二度目だからあまり驚かずにすんだ。
目の前でリンが不満げな顔をしていた。