天使なんかいらない
――僕たちはどうなるのだろう。
暗く何も見えない底へ向かって体は重く沈んでいく。
不思議と恐怖心は無かった。ただ、この手を離しちゃいけないと掴んでいた手をありたけの力で握ると、その手は握り返してくれた。
何も悪いことはしていないのに湖の縁まで追いつめられて、引き離されるのは嫌だったから、手をしっかり握って暗い水の中へ飛び込んだ。
――ごめんね、カイ。でも、一緒にいたかったんだ。
河はいつも通り穏やかに流れていた。
オレンジ色に広がる空は、明日の天気を約束してくれていて、脇に見える川原にはススキが生い茂っていて、少し冷たくなった風が秋を運んでいた。
自転車で川沿いのサイクリングロードを家に向かう。いつもと変わらない下校中の風景だった。
が。
道路の端に変なものを見つけてしまい、思わず圭太は自転車を止めた。
――――何、あれ
姿形は人なのに、背中に羽根が生えている。
「どうしたんだよ、お先〜」
少し後ろを走ってきていた松田が横を通り過ぎていく。
「あ――――」
圭太が声を出した時には、松田はその変なやつを通り過ぎていた。
自分が視界の邪魔をしていて見えなかったのか、それとも気にするほどじゃないと思ったのか。
松田は華麗に自転車を飛ばして小さくなっていく。
だいたい三メートルぐらい先だろうか、変なやつはサイクリングロード脇の土手に座り河の方を眺めている風だった。
通り過ぎればそれまでだっただろうけれど、止まってしまったことで、そのまま通り過ぎることができなくなっていた。
なんか、怖い。
何かのコスプレだったとしても、一人で河に向かってぼんやりしてるっつーのは危ないやつじゃないかと思えてくる。
普通の道路ならいざ知らずサイクリングロードなんてものは一メートルぐらいしか道幅がない。避けるといっても、意味はない。その脇は急斜面の崖でその先に
はご丁寧に柵なんてあるから自転車で降りるのは不可能だ。
――――どうする? 戻る?
戻って適当なところで一般道路に入った方がいいような気がした。
でも。
興味もそそられた。
残念なことに顔は見えない。
白い肉厚な羽根はまるで絵本の中のペガサスのようで。薄茶のさらさらしていそうな髪は首までで短くカットされていて、着ているものは、羽根と同じ白く、短
い上着に細身のズボンで、まるで中世の王子様風でもあった。
いったいなんでそんな格好をしているのか。
都会の街中なら有りなのかもしれないが、大分類では都会に入るとはいえ、風景は片田舎のこんなところで、その格好はあまりに目立ちすぎだと思った。
「どうしたんだよ」
声と共に急ブレーキの音がした。
さっきの松田と同じ自転車通学仲間の酒井だった。
「あ、あれ……」
圭太は一応、先に見える変なやつに目配せしてみた。
まさか、ここで変なやつがいるとも言えない。見ればすぐ変なやつだと分かるはずだ。
「はあ? 」
酒井が怪訝な顔をする。
「あそこ」
小さく耳打ちもしてみた。
「え、何?」
そんな大きな声を出すなよ、と思うような声で酒井は答えてきた。
それが聞こえてしまったのか、理由は別なのか、その変なやつが圭太の方へ顔を向けた。
瞬間、圭太の体は固まった。
「どうかした?」
酒井が不思議そうな声を出す。
「あれだよ、あれ」
視線はその変なやつに向けながら、圭太は小声で酒井に答えた。
「何もないじゃん」
酒井は辺りを見回すようにして言う。
――――見えない?
圭太は急に背筋がぞっとした。
一般人に見えないものが見える特性はなかったはずだった。オカルト全般苦手で、苦手な人には見えないものだよ、とその道に詳しい友達が言った言葉を今の今
まで信じていたのに、どういうことなんだよ、とその友達に突っかかっていきたい気分だった。
「おい、圭太?」
酒井が心配顔で覗きこんでくる。
「え、う、うん」
体が固まったまま、答えはしどろもどろになった。
「大丈夫か?」
「え、うん」
酒井が見えないというものをどう説明していのか、分からない。
「でも、なんか、顔色悪くないか?」
優しい友人は圭太の様子を少し気にかけてくれたらしい。
けれど、酒井はこれから塾のはずだった。親から大学は国立しかだめだと言われているらしく、今年の春から塾に通い始めていて、時間的に余裕はないはずだ。
優しい友人に迷惑はかけられない。
「あ、うん。錯覚だったみたい」
そうであることを願いながら圭太は答えた。
「そっか、じゃあな。また明日」
酒井は手を振って、さっそうと自転車をこいでいく。
酒井がその変なやつの横を通りすぎたとき、その変なやつはにこっと笑った。
酒井と一緒に行けば良かったと圭太が思ったのは後の祭りだった。
そいつは立ち上がると、ゆっくり圭太に近づいてきた。
逃げなきゃという気持ちはあるのに、体は固まったままびくとも動かない。
「見えるの?」
変なやつが首をかしげながら訊いてくる。
せめてもの救いだったのは、顔立ちが人間として整っていたことだった。大きな黒い瞳をくりくりさせて小ぶりな鼻に小さな口。歳は自分より少し下かなと思
う。人間だったら、の話だが。
学校にいたら可愛いと女生徒から囲まれるタイプなんじゃないかと思う。
けれど、人間じゃないらしい。
見える?――――と訊いてくるんだから自分でも分かっているのだろう。
「じゃあ、恋してるんだ」
そいつが嬉しそうに言う。
答えなかった圭太の答えを推理したらしい。
「叶えてあげるよ」
そう言ってそいつはにこっと笑った。
なんだよ、こいつ――――。
圭太は口が開いたまま、声は出なかった。
河は穏やかで、空はオレンジ色が暗くなり太陽はもう山に隠れていた。風はまた少し冷たくなったように思う。
それでも、いつもとかわらない下校途中の風景なのに、目の前のやつだけが違っていた。