夏休みが終わると、教室の空気が変わっていた。予備校の話が主になり、体制は受験一色になっていた。
俊介は図書室で一人でテキストを開いていた。
「お待たせ」
祐貴の声に俊介は振り向いた。
「いいのか? 一緒に帰らなくて」
祐貴は進学に向けての親子面談があった。戻ってくるとは言っていたが、帰るなら帰ってもいいよとは言っていた。夏休み前から行われていた面談は祐貴が最後
だった。
「ん。もう少しやってから帰るよ」
隣に座ってくる。
この一年でずいぶん変わったと思う。以前なら絶対向かいに座るだろうと思った。
テキストとノートを開く祐貴を見ながら、
「で?」
と今日の結果を聞いた。
「うん」
返事をしたくせに、なかなかその先を言おうとはしなかった。
「祐貴?」
「うん。国立はセンター試験の結果を見てってことで、私立もセンター受験でいけるんじゃないかって。まあ予定通り」
「そっか」
テストのスケジュールはまったく合わないことになる。
「初詣くらいは行けるかな」
せめて。
「十二月に入ったらもう余裕はないと思う」
「そっか」
絶対余裕で大丈夫だと思うのに、本人としてはそうでもないらしい。予備校にも行かずにいるから、不安はそれなりにあるのだとは思う。
同じ大学には行けないまでも、実力でとんでもなく離されるのはおもしろくない。
隣の祐貴はもうさっさと始めていた。
もう少しやって帰るというのは、それなりに本気だったらしい。
――やるか
俊介も心の中で呟くと、問題を読み始めた。
試験さえ終わってしまえばという気持ちが俊介にはあった。卒業旅行というおまけもつく。
その時には、祐貴をこの腕に抱けるのではないかと思っていた。
一泊でかまわないから、一晩抱いて離さない。
試験さえ終われば――。
遠くで除夜の音が鳴っていた。
受験生に正月は関係なくて、あるのはテキストと模試の結果だった。
年内最後の模試はそこそこの成績で、俊介はランクがひとつ上がって合格が少し見えてきた。そりゃそうだ、と思う。上がらない成績を見て、祐貴が一ヶ月自分
の勉強そっちのけで見てくれた。自分の勉強にもなると言っていたけれど、英語・数学しかない自分の試験科目は祐貴の勉強にはならなかっただろうと思う。
きっと今頃、机に向かってかりかりとやっているだろう。
「受からなくちゃな」
祐貴に顔向けできない。
始めようかと思った時、携帯がぶるぶると震えた。蓋を開けて着信を確かめると祐貴だった。
「もしもし?」
まさか祐貴が電話をくれるとは思わなかった。
「俊介?」
「ああ」
久しぶりに聞いた声だった。
「今、何してる?」
「お前と電話」
嬉しくて少しからかったら、祐貴の答えがなかった。
「祐貴?」
あわてて呼んだ。せっかくかけてくれたのに、切られちゃたまらない。
「今、電話いい?」
「いつでもいいよ」
祐貴の声が聞けるなら、他に優先させることはない。
「進んでる?」
「ぼちぼちかな。お前は?」
愚問だろうな、と思いながら付け加えた。
「あんまり」
答えは意外だった。
「珍しいな、お前がそんなこと言うのは」
なんとか、とか、それなりに、とか。がつがつしないまでも肯定する言葉がでてくると思っていた。
「俊介の声が聞きたくて」
ほんとに珍しく嬉しいことを言ってくれる。
「ご希望があれば、本体も行くよ」
半分本気だったのに、受話器の向こうの祐貴は笑っていた。
「会いたいな」
どうしちゃったんだと思うほど、嬉しいことを言ってくれた。
「だから会いに行くって言ってるだろ」
会いたくても我慢していた。
「試験が終わるまで、とっておくよ」
「なんだ」
少しがっかりした。呼ばれたらバイクですぐに飛び出していくのに、と思った。
「俊介の合格発表は一緒に見に行こう」
「そりゃ、受からないとかっこつかないな」
「大丈夫だよ、俊介なら」
「そうだといいけどな」
本当に。
「僕は……どうしたらいいんだろう」
祐貴の声が沈んでいた。
「お前は、お前のやりたいことをすればいいだろ」
「でも、やりたいことと、一緒にいたい人が重ならなかったら?」
祐貴が問いかけてくる。
祐貴が自分のことで聞いてくるなんてことは今までなかった。
まだ迷っているんだと思う。第一志望校に受かる実力は余るほどあって、迷う原因は自分かなと思うと嬉しい気持ちはある。
――俺を取れよ
そう言いたかったけれど。
「最後に選ぶのはお前だけど、俺は、俺のためにお前がやりたいことを諦めるのだとしたら、それは嫌だな」
まだ迷ってくれているのも嬉しかった。
ただ。
「そんなに重く考えることないだろ。どうせ同じ大学でもキャンパスは違うんだし、あんまり変わらないよ。休みの日は一緒に過ごせるだろ?
それとも他に何か隠していることでもあるのか?」
それほど悩まなければいけないことなのだろうかと思う。
そうだね――そう祐貴が言ってくれるのを期待したのに、答えはなかった。
「祐貴? 聞いてる?」
顔が見えないラインは時に不安になる。
「聞いてるよ。耳に余韻が残っていて、俊介の声をずっと聞いていたかったんだ」
囁くような祐貴の声は熱を持っているような気がした。
「……お前、酔ってる?」
いつもの祐貴とは違う気がした。
「なんで?」
「嬉しいことばっかり言ってくれるからさ。その台詞、今度会った時にも言ってくれよ」
どんな顔をして言っているのか見たいと思う。
「言わせてよ」
祐貴が笑う。こっちは本気なのに祐貴にとっては冗談に聞こえるらしい。
「早く、終わるといいな」
「うん、そうだね。あ……」
祐貴が小さく声をあげた。
「何だよ」
「年が明けたね」
時計を見ると、確かに零時を少し回っていた。
「おめでとう、は受かったときにとっておこうか」
その時が待ち遠しい。
「あ、うん。分かった」
「あんまり無理するなよ」
必要以上に根を詰めていなければいいな、と思う。
「うん。俊介もね」
「まだ、がんばるのか?」
きっと、毎日遅くまでやっている。
「もう寝る。今、すごく幸せな気持ちだから」
祐貴の言葉に俊介は胸が熱くなった。そう言ってくれることが嬉しかった。これほどないお年玉だと思った。
「じゃ、おやすみ」
いつまでも話をしていたいけれど、いつもと違う様子の祐貴は酷く疲れているのではないかと思う。
「うん、あ、俊介」
「ん? 何?」
「受験発表の前の日に電話するね。待ち合わせとか決めなきゃいけないし」
「ああ、いつでもいいよ」
祐貴の邪魔をしちゃいけないと自分から連絡を取れないだけで、祐貴からの電話ならいつでも歓迎だった。
「ん、じゃあ、その時に」
「ああ」
「おやすみ、俊介」
「おやすみ」
それは別れの言葉で、けれどすぐにラインを切る気にはなれなかった。
しばらく無言で繋がっていたラインは唐突に切れ、無音になる。
「おやすみ、祐貴」
もう繋がっていない携帯に向かって俊介は呟いた。不思議なものだと思う。絶対受かってやると思っていた。