トイレから出ると、こちらへ来る美樹が視界に入った。
――残酷なこと?
祐貴はそう言った俊介の言葉が浮かんだ。

「もうすぐ始まるよ」
美樹が心配そうな顔をしていた。
「あ、いいよ。俺たちは……」
俊介が答える。
「手、どうかしたの?」
美樹の視線がさっき洗面台にぶつかった手に向けられていた。
「あ、なんでもない」
祐貴は咄嗟に声がでた。
骨に響くような痛みはまだあるけれど、我慢できないものじゃない。それでも感じる痛みをさすっていたのを美樹に見られたらしい。
「未柚ちゃんだっけ、心配してたよ」
美樹が小さくため息をつく。
「もしかして美樹さんって祐貴くんの前の彼女ですかって。今の彼氏、ずいぶん怖い人みたいですねって。もしかして、祐貴くん殴られちゃったりしてませんよ ねって」
「は?」
俊介が唖然とした声をあげる。
「俊介、ずっと不機嫌そうな顔してたもの。睨みつけるように見ていたと思ったら、突然後を追っていったりするから、何かあるんじゃないかって思ったんじゃ ない? 分からなくはないかな」
うんうんと美樹が小さく頷く。
「俺が祐貴を殴るわけないだろ」
俊介が不機嫌そうに答えた。
「そう、彼女は自分が俊介の不機嫌な原因だなんてこれぽっちも思ってないもの。どっちかって言ったら殴られるのは自分だって心配した方がいいよね」
そう言って、美樹は軽く笑った。笑っているのに、祐貴には美樹が寂しそうに見えた。
――残酷なこと?
例えば、俊介が他の誰かを見ているのを見ていなければいけなかったら?
そう思ったら胸が苦しくなった。ここ数日穏やかな気持ちでいられなかったのは事実だ。
一度だけではなくて二度も振られたら?
きゅっと胸が痛くなる。
祐貴は美樹の前で顔をあげていられなくなった。

「でも、どうしたの? まさか、本当に殴ったわけじゃないでしょ?」
「だから、俺が殴るわけないって言ってるだろ」
「殴られた方がいいよ……」
祐貴は思わず言葉でた。
胸の痛みよりも身体の痛みの方がマシな気がした。
「どうしたの?」
美樹の問いかけに、
「ごめん……」
祐貴は謝るしかできなかった。
「俊介、何があったの?」
「教えてやっただけだよ」
「何を?」
「俺達の気持ち」
「達?」
「そうだろ?」
「俊介が私の気持ちが分かるって言うの?」
美樹の声が不服そうだった。
「……今日、分かったよ」
俊介が沈んだ声を出す。
「甘いよ、俊――」
「やめて欲しい! もう分かったから……」
祐貴は美樹の言葉を遮った。
人の気持ちを思い通りにできるなんてことは思っていなかった。
きっかけさえ作れば元に戻ってくれると思ったのは甘かったのかもしれない。けれど、いがみ合っては欲しくない。
「僕が悪いんだ、全部」
何もかも全て。
「そんなこと言ってないだろ」
俊介が庇ってくれた。
「僕は、どうすればいい?」
分からなくなっていた。
そんなことは望んでいないのに、なぜ悪い方向に行ってしまうのだろう。

「素直になれば?」
あっけらかんとした声で美樹が言う。
「色々考えても難しくなるだけ。あなたはどうしたいの? 俊介が鬱陶しいなら、はっきり振ってやれば? 」
「それはないだろ」
俊介が口を挟んでくる。
「あ……」
美樹が小さく声をあげて、
「探しに来ちゃったみたいよ」
目線で示した先には、上映室の入り口からこちらを覗くように見ている未柚がいた。
「見ながら、考えれば?」
美樹が上映室の方へ足を向けた。
「そうだな」
俊介が背中を押す。
――素直に?
それは、心の奥底にしまいこんだ感情を出していいということなのかなと思う。背中を押す手が暖かく感じた。


「大丈夫ですか?」
未柚が心配そうな顔をしていた。
「ん、大丈夫だよ」
笑ったつもりなのに顔が引きつっていたのが祐貴は自分で分かった。
未柚が一番奥に入って、次に祐貴、その隣が俊介で通路側には美樹が座った。
未柚が不安そうにちらちら見てきたけれど、ブザーと共に照明が落とされて、室内は暗くなった。
音楽が流れて、女主人公の台詞から映画は始まった。

ミステリータッチのハードボイルドものは、始めぼんやりしていただけで話がわからなくなった。
考えることが面倒だった。
けれど、考えなくてはいけないことがあった。
しばらくして、膝に置いていた手を握られた。それが誰か分かるから胸が苦しくなる。
俊介とは友達でいるのがいいのだと、結論を出した。
それが間違っていたのかなと思う。
素直になってよいのなら、今触れている手を握り返したいと祐貴は思った。


「なんか、期待はずれだった」
照明がついた後、未柚がぼそっと言った。
「そう? 結構おもしろかったと思ったよ」
話もよく分かっていないくせに、祐貴は適当なことを言っていた。俊介の手に包まれていた手はまだその余韻を感じていた。


「これからは、別行動にしよう」
映画館を出て、祐貴は美樹と俊介に向かって言った。
途端、俊介が顔を曇らせた。
「彼女と話があるんだ」
先に話はつけなきゃいけない。
「そっか」
俊介がしぶしぶという感じで承知する。
「夜電話するよ」
それは、答えのひとつ。
「待ってるよ」
真面目な顔で俊介は答えてきた。
「うん」
俊介に答えた後、美樹を見て祐貴は小さく頷いた。答えるように美樹も小さく頷いてくれた。
――素直になってみるよ
そう美樹に答えたつもりだった。美樹は口元を緩めて、半信半疑の様子だった。


映画館の下にあるファミレスで未柚と向かいあうと、未柚がため息をついた。
「よく分からないけど、振られるんですよね、私」
不満げに言う。
「ごめんね」
別に付き合うという話まではいっていないけれど、まあ、そういうことなんだろうと思った。
「店で私用の話は困るし、今日みたいに待ち伏せされても困るんだ」
付き合う気はまったくない。変な期待ともたせるよりはっきり言ったほうがいいのだと思った。
「ふーん」
未柚が口を尖らせる。
「どうしても?」
「どうしても」
譲れなかった。
「なんか、印象と違った」
「え?」
「そんなにはっきり言う人だと思わなかった」
「がっかり?」
そんな風に聞こえた。それならそれで良かった。
「ううん。好印象だから、かえって残念」
そう言われても困る。
「話はそれだけ」
胸のつかえがひとつ取れた。
気持ちは決まっていた。


ドリンク一つでファミレスは出て、家に帰ろうとした。
建物を出ると、屋外円形ホールを囲むように広場があって、そこを渡ると駅がある。ふと視線を感じて振り向くと、十メートルほど離れたところに俊介が居て、 素知らぬ顔をするかのように視線を逸らした。その隣では美樹が笑っていた。
そして、まるで今気が付いたような振りをして、俊介が近づいてきた。
「偶然だな」
言いながら、照れたように手を頭にやる。
その言葉に祐貴は思わず笑いがでた。
「夜まで待てないみたい」
美樹が笑う。
「お前は先に帰ってろって言っただろ」
俊介が不服そうに言うと、美樹は首を窄めた。
未柚は一人きょとんと不思議そうな顔をしていた。
「これから、帰るんだけど」
祐貴が言うと
「ああ、俺達も」
俊介が言う。
映画館を出て別行動と言ったのに、結局帰りも同じ電車で帰ってきた。
改札を出て、俊介が立ち止まる。
「まだ、早いよな」
俊介が見てくる。
時計は七時を回っていて、空はまだ明るかったけれど、早い時間ではないとは思った。
けれど。
「そうだね」
祐貴は頷いた。
今別れたくない気持ちがあった。
「え、これからどこか行くんですか?」
未柚が驚いたように聞いてくる。
「そういうわけじゃないよ。じゃあ、ここで」
祐貴は未柚に向かって手をひらひらと振った。未柚は最後まで不思議そうな顔をしていた。
美樹を見ると、美樹は何も言わずただ視線を伏せた。
「じゃあ、行こうぜ」
俊介が声をかけてくる。美樹にも小さく「行くぞ」と声をかけていた。
胸に痛むものはあるけれど、もう、後戻りはしちゃいけないと思った。
俊介が足を向ける方向に自分も合わせて足をだした。俊介の家に行くのは、久しぶりだと祐貴は思った。

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