昨夜はよく眠れなかった。
眠いのに眠りに落ちなくて、目を閉じてベッドの中に入っていても、時計の音が頭の中で響いていた。
太陽が昇って明るくなる様子までカーテンを通して分かっていた。遅番だったからいつも起きる時間が過ぎても少しでも寝ようと思ってベッドの中でじっとして
いても意識は常にあった。
ぼんやりした頭で、祐貴はバイト先のドアを開けた。
結局、俊介からの電話は無かった。
気になりながらも自分からかけることはできなかった。
所詮自分はその程度の存在なのに、優しさにうぬぼれていたんだと思った。
祐貴はカウンターから店に入ろうとしてレジの前に立っている俊介が目に入った。
――え?
夢でも見ているのかと思った。
「昨日はご馳走様」
突然声をかけられて、声の方を向くと美樹がいた。
「あ、いえ、そんなこと……」
言葉がしどろもどろになった。
「おかげさまで――」
美樹が小声で言いかけたところに、
「美樹、行くぞ」
俊介の声が聞こえた。
「あ、うん。じゃあね」
美樹がひらひらと手を振ってくる。
俊介はちらっとこちらを見てきたのに、そのまま後ろを向いた。
からんからんとドアベルの音が鳴って、ドアの向こうに二人の姿が遠ざかって行った。
――怒ってる?
俊介に無視されたのは初めてだった。
「はい、三番ね」
カウンターでオレンジスカッシュを出された。
「はい」
返事をしてトレーに乗せると、指定されたテーブルに出す。
簡単なことだ、なのに。
お待たせしました――そう言おうとして祐貴は息を飲んだ。
目に入ったテーブル番号が違っていた。
目の前の客が立ち止まった祐貴を訝しげに見上げてくる。
「すいません」
軽く頭を下げると、少し進んで隣のテーブルへ持っていたオレンジスカッシュ置いた。
「お待たせしました」
客に声をかけ、伝票も置いて、祐貴はすぐ後ろを向くと小さく息を吐いた。
寝不足がたたってか、どこかうわの空だった。
からんとドアのベルが音をたてる。
「あ、いたいた」
甲高い声が聞こえて、祐貴はまたため息をついた。
一人の子が駆け寄ってきたかと思うと、
「ねえねえ、昨日は早かったんだね」
小首を傾げる。
「あ、はい」
短く返事を返すと、空いている席を探した。
「こちらへ」
先に立って案内する。
後ろに友達が二人いたから、一番カウンターから遠い四人席へ案内した。
「メニューが決まりましたら、お声をかけてください」
メニューを出し早々に引き上げたかったのに、
「あ、あたし、アイスカフェオレ」
そう声をあげられて、祐貴は引き上げることができなかった。
「他には?」
ポケットから伝票を出し、『アイカ』と書いた。
「えー、どうしよう」
他の二人は額をつき合わせるようにメニューを見ている。
「今度はいつ早いの? 休みは?」
聞かれて、祐貴は心の中でため息をついた。
これだけ積極的な子は他にはいないけれど、店で立っていて視線を感じることはあった。
「シフトはよく変わることもあるので……」
当たり障りのない答えをする。
店に来てくれるお客さんだから下手なことは言えないし、あまりそっけない態度も取れない。
「予定でいいよ?」
かわしたつもりでも突っ込んでくる。
名前は未柚(みゆ)だと言っていた。高校一年生だと言っていたから一つ下で歳より少し幼く見えるけれど、くりくりした瞳と栗色の柔らかそうでふわふわした
髪の毛でかわいい印象がある。
「あ、でも……」
早く決めてくれよと思いながら、そんなことも言えない。
カウンターへ一度振り向いて、
「すみません。お決まりになりましたら、お声をかけてください」
声をかけると、祐貴は伝票をポケットに戻した。
「あ……」
未柚に声をあげられたけれど、祐貴は小さく頭を下げてやり過ごした。
受け答えをしてしまったら、エスカレートしていくだろうと思う。
休みを知ってどうするかといえば、じゃあ遊びに行こうと言われる以外考えられない。
祐貴がカウンター戻るとレジを終わらせたもう一人のフロアを担当している福居が近づいてきた。
「俺が行ってやろうか?」
耳元で囁く。
「お願いします。すみません」
自分からは言いづらいことだから察してくれるのはすごく助かった。
「仕事中に私用の話をしているのも困るけど、ああいうのも困るね」
カウンターにいたマネージャーが小さい声で言う。
「すいません」
「君の所為じゃないけどもね」
マネージャーが肩をぽんと叩く。
すみません、という声がフロアから聞こえて福居は返事をすると祐貴に目配せをしてオーダーを取りに行ってくれた。
店の外で一度会った方がいいのかな、と祐貴は思った。店の中では困るからやめてくれとは言えない。
できるだけ早いうちに?
そう思うと気持ちが重くなった。
シフトはだいたい四日のサイクルで、祐貴の場合早番が二回続いて遅番で休みが入る。ただそれは代わって欲しいと言われることもあるし、店が混んでいると
残って欲しいと言われることもある。
次の日は休みで祐貴は家でぼんやりしていた。
俊介から電話があったらどうしようと思っていたけれど、それは杞憂で終わりがっかりしている自分もいた。問い詰められたら困るくせに、無関心でいられるこ
とも落ち着かない。そんな自分にもまた落ち着かなかった。
そんな気持ちももう終わりだと思う。
美樹の言葉からすれば、よりを戻したのだろうと思った。
だから、もう電話がかかってくることはない。
良かったと思っているはずなのに、心の中がぽっかりと空いた気がした。
昼食時の混雑が退いて、埋まっている席の方が少なかった。
時計を見ると、自分のシフトの終わりまであと五分もなかった。
カランとドアのベルが鳴って、最後のお客かなと祐貴は思った。
「いら……」
言葉は途中で止まった。
「こんにちは」
店に入ってきた美樹がにっこりと笑う。後ろには俊介がいた。
「どこでもいい?」
美樹が聞いてくる。
「あ……こちらへ」
水とおしぼりを持って席へ案内した。
テーブルは一つおきに案内するように言われていた。
「決まったら……呼んでください」
メニューを取ってテーブルに広げた。
俊介を見ることはできなくて、美樹へと視線は向いていた。
俊介達の席を離れて、なんで?、と思う。
わざわざ見せ付けるように来なくてもいいだろ、と思った。
「いいよ、あがって」
マネージャーに言われて、
「あ、はい」
祐貴はエプロンに手をかけた。
ちらっと俊介を見やり、楽しそうに話をしている美樹の顔が見えて、喜んでいいはずなのに、不満が顔を覗かせていた。
次の日。
また俊介たちは来るのだろうかと思っていたけれど、それはなくて、ほっとしたような気が抜けたような気持ちでバイトが終わると、祐貴はいつもどおり裏口か
ら店を出た。
「こんにちは」
目の前には、笑顔があって。
「あ、」
言葉が詰まった。
「待ち伏せしちゃった」
未柚が小首を傾げる。
「なんか、怖いお兄さんに私用は店に持ち込むなって言われちゃったから」
ちょっと不服そうな顔をして、けれどすぐ笑顔に戻った。
「友達も呼んで店の売り上げに貢献してるのに」
唇を尖らせる。
悪い子ではないのだろうとは思った。
何も聞いてはいなかったけれど、福居が言ってくれたのだと思った。感謝しつつ、待ち伏せされても困ると思った。
「ねえねえ、今日はもう終わりなんでしょう?」
腕を取る。
ただ、ちょうど良かったかもしれないと思った。
「遊びに行こうよ」
そんな気はない。
「話があるんだ」
今誰かと付き合う気はなかった。それは、はっきりしておかなくてはいけない。
「何?」
「ここじゃなんだから」
祐貴は駅を示した。
道端で話すことでもないだろし、自分がバイトしている店で話をすることは躊躇われて、バスのロータリーの先にファミレスがあったなと思った。
バスのロータリーは線路を挟んで反対側にあるので駅の改札への通路を抜けていく。
階段を上がり、広いホールに券売機が並び、改札がある。
そこで俊介を見つけて祐貴は足が止まった。
同じ駅を利用しているのだから、会っても不思議はない。
これからどこかへ行くらしい。俊介は券売機の前で上にある料金表を見ていて、横には美樹がいた。
偶然にしてはタイミングが良すぎるんじゃないの?と思う。
前もその前も、バイトの始まる時間や終わる時間にまるで図ったように現われた。
今までどんな話をしていたのか、これからどこへ行くのか、考えても仕方のないことなのに、ふとした時に頭を過ぎっていた。
今日は来なかった。会わないで済むと思っていた。
なのに。
「あれ?」
美樹がこちらを見て声を上げた。