ホテルの従業員控え室は薄暗かった。
八畳ほどの部屋に流しがついていて、角に大きな冷蔵庫がある。中央に座卓があって、一角に美樹が座り、Yシャツの取れたボタンをつけてくれていた。
祐貴は先にボタンをつけてくれたブレザーをはおり、美樹の向かいに座っていて、間に俊介がいた。
「大丈夫か?」
俊介が顔を覗き込んでくる。
「ん」
祐貴は小さく頷いた。
星野を甘く見ていたと思った。平気で嘘をつくやつだと思ってもいなかったけれど、それは身をもって体験した。金のためなら何でもやるらしい。そうでないな
ら、こんなことを思いつくわけがないだろうと思う。
蛇口から水がこぼれたらしく、ぽたっと雫が跳ねた音がした。
助けてくれたおばさんはここの従業員らしく、俊介を待っていた美樹に声をかけてくれたということだった。今は客室に行っていて、ここにはいなかった。
「もう、僕に近づかない方がいいよ」
祐貴は呟くように言った。
まるで関係ない、美樹にまで迷惑をかけてしまった。きっとこれでは終わらなくて、言いなりになるまでずっと繰り返されるのだろうと思う。
「何言ってんだよ」
俊介が驚いたように言う。
「バスケ部にまで迷惑はかけられないから大会が終わるまで部はやるけど……」
突然やめられても困るだろうし、俊介のことも心配だった。
「星野の言いなりになるのか?」
「だって……」
これ以上誰も犠牲にはしたくない。何を仕掛けてくるのか予想もできない。そんな心配をするなら、おとなしく星野の言いなりになっていた方がましだと思う。
「原因は俊介でしょ」
美樹がぼそっと言った。
「俊介は単細胞だから強引になんかしたんでしょ?」
手を動かしたまま、美樹は続けた。
「けど、あいつは……」
反論しかけて俊介は口を噤んだ。
「そんな俊介が私は好きだけど……恨みを買うこともあると思うよ」
小さなため息をついて。
「できた」
美樹が今まで繕ってくれていたYシャツを広げた。
「一番下がひとつないけど」
美樹が顔をあげたので、
「ううん。ありがとう」
祐貴は手を伸ばして、美樹からYシャツを受け取った。
ボタンがすべて取れたままじゃとてもじゃないけど帰れない。
ちらっと目に入った美樹の手首は少し赤くなっていた。手錠が当たっていたのだろうと思うと祐貴は胸が痛んだ。
幸い鍵は洗面所にあったのが見つかって事なきを得たけれど、あいつが持っていたらと思うとぞっとする。
受け取ったYシャツに手を通していると、おばさんが戻ってきた。
おばさんは入り口近くの椅子によいしょと腰掛け、
「どうしたもんかね」
困ったように呟いた。
「お金なら払います」
祐貴は声をかけた。
飛び出していったやつが料金を精算したとは思えない。全ての責任は自分にあるような気がした。
「そんなことより、どうする? 車のナンバーを控えてあるから警察に行くなら必要なんじゃないの?」
おばさんから返ってきた言葉は意外なもので。
――警察?
「それは――」
祐貴は答えることができなかった。
公にはしたくない。けれど、一番被害を受けたのは美樹だった。
祐貴が美樹を見ると、美樹は嫌悪感を表し、無言で頭を振った。
必要ないと言えばいいと分かっているのに、祐貴はその言葉がなかなかでなくて、そのうちに、
「そっちの方がうちは助かるけどね」
そう言ってくれたおばさんは察してくれたみたいだった。
結局料金を払わずに済み、三人揃ってホテルを出た。
俊介はバイクを押しながら、その後ろに祐貴は美樹と並んで歩いていた。
「どうする?」
俊介が後ろを振り返り話しかけてくる。帰りかたの相談だと祐貴は思った。
「僕はバスで帰るから、二人はバイクで帰ればいいよ」
三人で乗るのはいくらなんでも無理だ。
「でも、俊介がバイクの免許を持ってるなんて知らなかった」
祐貴はふっと言葉がでた。付き合いも短くて知らないことがあるのは当たり前なのに、そのことに違和感をもった。
「これは――」
俊介が口ごもる。
「遊びに行くのに便利だろうって高一の夏休みに取ったのよね。結局親に危ないって反対されて一回も乗せてもらったことないけど」
美樹が代わりに答える。
「そうなんだ……」
相槌を打ちながら、祐貴には美樹から出る言葉はすべて、二人の付き合いが深いことを示しているように思えた。きっと美樹は俊介の全てを知っているのだろう
と思う。そのことに、祐貴は正体不明のわだかまりを感じた。
「今日は、乗せてもらえるのかな?」
美樹の問いかけに、
「あ、でも祐貴が」
俊介が躊躇うように言う。
「いいよ。僕はバスで帰るから」
祐貴はさっきと同じ言葉を繰り返した。
「でも」
俊介が不安げな声を出す。
「彼女を一人で帰す方が危険だよ」
どこをどう考えても、その組み合わせは不自然だ。
「バス一本で帰れるみたいだし」
本数は少なくてバス停から少し歩くけれど、家の近くを走っている路線があることを教えてもらった。
「バスが来るまで一緒に待つよ」
俊介の言葉に、祐貴はいいよと言葉がでそうになった。
けれど。
「……ありがとう」
その言葉は飲み込み、感謝の言葉を返した。
きっと俊介は引かないだろうと思う。言い合いをしても仕方ない。
俊介は止まってポケットから携帯を出すと差し出してきた。
「持っていけよ。何かあったら、もだけど。家に着いたら連絡くれよ。美樹の携帯番号が履歴にもあるしアドレス帳にも入ってるから」
早く取れよ、と言わんばかりに携帯を振る。
「……ありがとう」
差し出されたものを祐貴は素直に受け取った。その時、少し手に触れてどきっと心臓が跳ねた。
「絶対だぞ」
俊介が念を押してくる。
「うん」
承知しなければ、このまま歩いて送っていくとまで言いそうだと思い、自惚れすぎだよと祐貴は思った。
他人からの好意をうけることが苦手だった。こうやって他人のものを借りたこともなかった。けれど、俊介だけは別だと思う。
それがなぜなのか祐貴は自分でも分からなかった。