決めたつもりだった。
けれど、俊介の姿を見たらその決心が少し揺らいで、祐貴は階段の途中で立ち止まってしまった。
人の流れが途切れて、その姿がはっきり見えて、寂しげな横顔が見えて、祐貴はそれを見なかったことにはできなかった。


「足はどう?」
つり革に捕まりながら祐貴は隣に立つ俊介に聞いた。
「ああ、良くもなく、悪くもなく……」
俊介が力ない声を落とす。けれど、あまり落胆は感じられなかった。
「僕にできることがあったら、何でも言ってね」
視線を落としながら祐貴は言った。
俊介の目を見て言えない。顔を見ることさえ恐る恐るになる。
大会が終わるまで俊介が望むように―― それは祐貴が一日考えて出した結論だった。
声をかけられてから少しの間だったけれど楽しかった。だから、その気持ちを少しでも返せるのならばと思う。
美樹のようなきれいな彼女がいるのに、自分のことを好きだという気持ちを信じることはできなくて、ならば、なぜ俊介がそんなことを言うのか分からない。
触れてきた唇に嫌悪感は無かった。
けれど、返してと言った美樹の顔が頭から離れなくて、自分のしていることに罪悪感があって、背筋を冷たいものが走った。
だめだよ、そう思うのに、身体は少しも動かなかった。
俊介の腕の中は心地よかった。
でも、ここは自分のいる場所じゃないとも思った。

「……いいのか?」
窺うような俊介の声に、
「うん」
祐貴は小さく頷いた。
「大会が終わるまで?」
その問いには答えられなかった。
「……次は、結構強いところらしいね」
祐貴は話題を変えた。
「そうらしいな」
「去年はベスト8に残ったらしいけど……」
相手が強くなれば、それだけ負担も大きくなるだろうと思う。
「試合なんてやってみなきゃわかんないさ。メンバー変わってるわけだし」
「そうだね」
俊介の言うことは確かだと思う。
「あまり、無理しないようにね」
相手は強くなるのに疲れは溜まってくる。勝てば勝ったでプレッシャーもあるはずだった。
「でも、負けられないからな」
身体は大切だよ――そう言おうとして祐貴は言葉を飲み込んだ。
負けたら自分達にとっての大会は終わる。自分が俊介の隣にいるのは、その時までだと決めた。相応しい人は他にいる。返してと言った人は俊介の隣が似合って いた。


祐貴が更衣室を覗くと、俊介がタオルを頭にかけたまま背を壁に預けるようにして椅子に座っていた。
「大丈夫?」
声をかけると、手を俊介の膝に置いてそっとさすった。自分にできることはこんなことぐらいだった。
「他のやつは?」
タオルの影から俊介が声をかけてくる。
「みんな帰ったよ」
祐貴は鍵を手にしていた。
練習に少し手を抜いていたから、さすがに部長は俊介の様子に気づいたようだった。
更衣室の外に呼び出され、俊介の調子悪いのかと祐貴が聞かれた。
少し躊躇って祐貴は「ちょっと疲れがでてるのかもしれない」と濁した。
「気をつけてやってくれ」と言われ、「はい」と頷いた。
言われなくても、そのつもりでいた。
試合が好きだと美樹が言っていたから、長くやっていたいだろうと思う。誰だって勝負には負けたくないはずだ。
みんなも疲れがあるのか早々に部員達は引き上げて、更衣室は静かだった。
俊介がタオルを取り。
「祐貴」
声と共に引き寄せられていた。
「少し、元気くれよ」
向かい合うようにあごを捕らえられる。
目を閉じると、包むように唇が触れてくる。
元気をあげているのか貰っているのか、分からなくなってくる。差し込まれた舌に応えるように舌を絡めた。
試合は毎週土曜日に行われるから、俊介とこうしているのもこの週末で終わりかもしれない。
いっそのこと時間が止まってしまうならいいのに、と祐貴は思った。そうしたら、何も考えずに一番安心する腕の中に居られる。
けれど、時間は止まらないから、考えてしまう。
――俊介に相応しいのは自分じゃない

包み込んでいた唇が離れると、耳元に熱い息を感じた。
「祐貴……」
囁かれる声に祐貴は腕を背中に回して抱きしめた。
男同士で肌を寄せ合うことは世間からすればおかしいことなのかもしれないと思う。
けれど、今まで祐貴が好意を感じた相手はみな男で、女に対しては美人だとか可愛いという類のことは思っても好意まではいかなかった。
「そんなことすると、誤解しちゃうよ」
俊介がおどけたように言う。
思わず離そうとしたら、代わりにぎゅっと抱きしめられて身体はもっと近くなった。
「次も絶対勝つよ」
呟いた俊介の言葉が祐貴は嬉しいのか悲しいのか分からなかった。


充実していると時間が経つのは早いと言う。
「家まで行こうか」
改札で荷物を渡しながら祐貴は俊介に聞いた。明日は試合で、少しでも負担を軽くしてあげたいと思う。
「いや、いいよ。来てもらうのはやぶさかじゃないけど、お前も疲れてるだろ?」
手から荷物を取り上げられた。
「あ、でも、僕なんかより俊介の方が――」
「じゃあ、バス停まで送って行くか」
言葉を遮られた。
「あ、いいよ」
俊介を止めようとすると。
「明日、楽しみにするから」
そっと頭に触れてくる。
その意味を考えると、祐貴は言葉が出なかった。
「だから、今日はいいよ」
俊介がぽんと頭を軽く叩くと笑いかけてくる。
「じゃあな」
手を振って、俊介が後ろ向きに歩く。
「危ないよ」
祐貴が言うと。
「お前が行けば、前向くよ」
俊介がさらっと言った。
「ん……じゃあね」
後ろ髪を引かれたけれど、祐貴は後ろを向いた。
ニ、三歩歩いてちらっと後ろを見ると、俊介はまだ同じ場所に立っていた。もう少し、そう思って歩いて後ろを見ると、今度は少し小さくなった俊介の後姿が見 えた。
明日も勝ってくれればいいと思っている自分を祐貴は感じた。

バスはまだ来てないんだと思いながら、列の後ろに並ぼうとして、祐貴はこちらに近づいてくる人影に気づいた。
「やあ」
星野がやたらと明るく声をかけてくる。
祐貴が顔を背け知らぬ顔で列に並ぶと、後ろにぴたりとついてきた。
「いいの? いい情報持ってきたんだけど」
――そんなはずないだろ
そう心の中で毒づきながら、無視した。
「聞きたくない? 吉沢の彼女って美人だよな」
――え?
思わず向けてしまった視線の先で、星野がにやっと笑った。
「吉沢がしてくれたことの後始末は彼女の方にしてもらうことにしたよ」
星野がいやらしく、でへへと笑う。
「ご希望なら、相手役は祐貴、お前に譲ってやってもいいよ。今まで稼がせてくれたお礼にさ」
「どういうことだよ」
できれば無視したかったけれど、反応せざるを得なかった。
「知り合いにアダルトビデオの撮影やってるやつがいてさ。いいやついないかって言うから、吉沢の彼女を推薦したんだけど、一目見て気に入っちゃって、即お 持ち帰り」
「ちょっと待てよ」
ちょうど、バスがロータリーを回ってバス停に着いたけれど、乗って帰れる状況ではなかった。
「なあ、いい情報だろ?」
「焦らすなよっ」
祐貴は星野にバス待ちの列から離れるように示した。美樹は自分達のことには関係ないはずだ。
「彼女、今どこにいるんだよ」
お持ち帰り?
彼女がそんな簡単に知らないやつに付いていくとは思えなかった。
「知りたい?」
星野が目を見開き、意味ありげな顔をする。
「どこなんだよっ」
祐貴は星野に分からないように拳を握った。顔を見たくない、声も聞きたくない。けれど、星野に聞かなければ分からない。
「お前知ってる?」
そう言って、星野はホテルの名前をあげた。
その名前は道端の看板で見たことがあった。二時間三千九百円とかの、所謂、ラブホテルと言われるところだった。
「相手役もついでに見繕ってくれって言われててさ。どう、お前?」
星野が嬉しそうに言う。
祐貴は言葉が無かった。
「もし、いないようだったら、カメラ固定にして自分でやるって言ってたけど」
「そんな……」
「早く行かないと、いや、もう、そうしてるかも」
「あ……」
「部屋番号は202だよ。間違えないようにね。お楽しみのところを邪魔しちゃまずいだろ?」
「じゃあな」
星野はぽんぽんと軽く祐貴の肩を叩くと、にやっと笑いながら駅の方へ行った。
どうしたら、と思う
ただ、時間がないことだけは分かっていた。
俊介に知らせて――そう思って頭を振った。
明日試合がある。
もし罠だったら?
けれど、それを確かめる手立ては無かった。
祐貴はタクシー乗り場に回ると、一台のタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
タクシーの運転手が暢気そうに聞いてくる。祐貴がホテルの名前を言うと、一瞬沈黙があった。
「お客さん、高校生でしょ?」
後ろを振り返り、訝しげな声で聞いてくる。
「あ、兄がそこで働いていて、忘れものを持ってきてって言われて」
祐貴は咄嗟にでまかせを言っていた。
「制服で?」
明らかに信じていない風で。
「あ、すみません。急いでるんです」
こんな話をしている時間はない。
「そうですか」
納得はいかないといった風でも、運転手は車を出してくれた。
どうする?
それは分からない。
けれど、関係のない美樹が巻き込まれているのだと思えば放っておくことはできなかった。

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