――何言って?
目の前にいる俊介から出る言葉が耳の中を素通りしていく。頭の中は突然からっぽになってしまったように真っ白だった。
「祐貴」
自分の名前を呼ばれても、それが自分だとは思えなかった。
「今すぐ答えを欲しいとは言わない。だけど、考えてくれよ」
俊介が諭すように言う。
――何を?
何を考えろって言ってる?
ゆっくりと祐貴は俊介へ顔を向けた。俊介と視線があって、しばらく見詰め合っていた。
頭も身体も固まってしまったように動かなかった。
とんとんとんと階段を上がってくる音が聞こえて、そのまま近づいてきた足音に突然ドアが開いて、音に誘われるように顔を向けた祐貴の視線の先には美樹がい
た。
「俊介?」
美樹は一瞬祐貴を見て、その視線はすぐ俊介に戻された。
「お前の言う通りだったよ」
美樹に向かって言う俊介の声は穏やかだった。
「何言ってるのっ!」
ドアノブを握ったまま、美樹が叫んだ。
「分かって欲しい」
「何を?」
美樹が顔を歪める。
「分かってるんだろ?」
「分からないよ」
美樹は頭を振りながら、倒れこむように俊介の前に膝を付いた。美樹の手から離れて支えを失ったドアはカチャっと音をたてた。
「だって、おかしいよ」
「いいよ、おかしくて」
俊介と美樹は少し見詰め合っていて、力が抜けたように美樹が顔を伏せた。
「おかしいよ……」
美樹がゆるく頭を振る。
「わかってるよ」
俊介の声には諦めさえ混じっているように感じた。
すぐ傍で行われている会話が祐貴にはフィルターがかかっているように感じた。
なんでこの二人が別れなくてはいけないのだろうと思う。
どこからどう見てもお似合いだと思う。
今も自分が入る隙など感じられない。
「許さないって言ったら?」
美樹がふっと顔をあげた。
「いいよ。ぶん殴ってくれてもいい」
俊介の言葉に。
「だめだよっ」
祐貴は反応していた。
二人に同時に見られて、祐貴は思わず顔を伏せた。
「だめだよ、そんなの……」
呟くことしかできなかった。
原因は自分らしい。
でも、それは信じられなくて、夢のはずがないのに現実だとは思えなかった。
「もう、話はついてるんだ……」
美樹が悲しそうな声を出した。
「違っ……」
反射的に否定の言葉が祐貴の口から出た。
けれど、これ以上どう言ったらいいのか祐貴は分からなかった。
二人のことは自分には関係ないことで、自分がいくら否定しても俊介の言葉を覆すことはできないと思う。当の俊介は覆す気などないように見えた。
沈黙と言い知れない居心地の悪い空気が流れていて、それを破ったのは美樹だった。
「分かった」
すっと立つと、美樹は乱暴にドアを開け振り切るように部屋を出て行った。
「待っ……」
祐貴は咄嗟に後を追いかけていた。
「俊介?」
ドアの前で祐貴が振り返ると、俊介は顔を背け、視線を伏せたままだった。
美樹を追う気もないらしい。
祐貴がドアを開けると、美樹は階段を下りようとしていた時だった。
「待って!」
祐貴は叫びながら部屋を出た。
顔を向けてきた美樹は、
「なんで、あなたなの?」
そう悔しそうに言った。
「違うんだ」
「何が、違うの?」
美樹の瞳は潤んでいた。
「俊介は……試合で、ナーバスになっていて……」
体調が万全ではなくて不安要素がある。試合に全力で臨めるわけじゃない。
「俊介が?」
美樹が呆れたように言った。
「俊介は試合が好きなの。出れないならともかく、今までどんな試合でも緊張とかナーバスになるなんてこと無かったわ」
何も知らないくせに言いたげに、美樹が睨んでくる。
膝の調子があまりよくないのだと、言えばいいのかもしれないと思った。けれど、俊介が自分以外の誰にも言わないことを誰かに告げていいのか、躊躇われた。
美樹が言いふらすとは思わないけれど、どこをどう回って誰の耳に入るか分からない。
「でも……試合が……大会が終わるまで、待っていて欲しい」
そう、大会が終わったら――。
「終わったら、何かあるの?」
美樹の問いに祐貴は答えられなかった。
何かあると断言できるわけじゃない。
けれど、俊介の重荷が軽くなることは確かだった。
「大会が終わったら、あなたが俊介を振るってこと?」
振る?
誰が誰を?
「俊介が言ってることは本気じゃないよ」
本気であるわけがない。
「あなたには、嘘や冗談に聞こえたの?」
美樹が眉をよせ、訝しげな顔をした。
「だから、今俊介は精神的にきついんだよ……」
それしか言えなかった。一人で重荷を背負っていることは確かだと思う。
長い付き合いだと言っていたのだから、美樹にはそれを分かって欲しいと思った。
「じゃあ、それが終わったら、俊介を返してくれる? 」
――え?
「それは……」
返すという言葉が引っかかった。
俊介は物ではなくて、貰うとか返すとかいうものじゃない。結局は俊介自身がどうするか、だ。
「試合のせいにするなら、それでもいい。だから、終わったら俊介は返して。約束だからね!」
「あ……」
約束と言われても困る。
けれど、美樹は一回俊介の部屋へ視線を向け、すぐにばたばたと階段を下りていき、程なく玄関のドアが閉まる音がした。
約束?
それはどうしろということなのだろうと思う。
祐貴はしばらく美樹が出ていった先を見ていた。けれど、美樹が戻ってくるとは思えなくて、俊
介も部屋から出てくるような気配は感じられなかった。
祐貴が部屋に戻ると、俊介はベッドに凭れるようにして天井を見ていた。
「追わなくていいの?」
ドアの前で立ったまま祐貴は俊介に問いかけた。
たぶん、美樹は俊介が追ってきてくれるのを待っていたのだと思う。で、なければあのタイミングで捕まえられなかったはずだ。
「追って、どうするんだ?」
俊介がため息交じりに答える。
「彼女は俊介が好きなんだよ?」
数回ほどしか会っていないけれど、それは痛いほどに分かった。
「だから?」
「俊介も、好きなんだろ?」
のはずだ。
「……だった。いや、もっと好きなやつができただけだよ」
俊介が呟くように答える。
それは自分のことをさしているらしかった。
「僕達は……友達だろ?」
恋人とか、恋愛感情が関わる関係にはならないはずだった。
「友達に……キスしたい、とか思うか?」
「え?」
「唇に触れたいとか、抱きしめたいとか思うか?」
俊介が身体を起こして、見てくる。
「俺はお前に対して、そう思う」
俊介にまっすぐ見られて、祐貴は身体が強張った。
「ご褒美、くれるんだろ?」
ゆっくり立ち上がる俊介を、祐貴はぼんやり見ていた。
目の前に立つと俊介の手があごを捉える。
――え?
「目、閉じて」
言われて祐貴は素直に聞けなかった。
「じゃあ、いいよそのままでも」
諦めたように言うと、俊介の顔が近づいてきて、祐貴は胸がきゅっと苦しくなって、自然に目を閉じていた。
温かくて柔らかいものが唇に触れて、ニ、三度ついばむようにすると離れる。
目を開けるとすぐ俊介の顔があって、俊介はぎゅっと抱きしめてくると肩口に顔をうずめた。
「好きなんだ……」
耳元で囁くように口にする。
祐貴は身体の力が抜けていってしゃがみこみそうになった。けれど、身体はそのまま俊介に抱きかかえられていた。