放課後、掃除が終わった教室はざわざわしていた。
レポート用紙にベクトルを一本引いて、祐貴は首を傾げた。
ベクトルは苦手だな、と思う。
方向と距離ですべてが決まってしまう。それが分かっているのに、でた答えが不安になる。

誰かが近づいてきた気配がして、祐貴が顔をあげると俊介だった。
「よっ」
つい昨日まで声さえ聞いたことがなかったのに、まるで旧知の友のように気安く声をかけてくる。
「何?」
用件に心当たりはない。
「別に」
「え……」
困った。
「困ることないだろ。いいよ、続けてろよ」
俊介がレポート用紙を指す。
「あ、うん」
言われるまま、祐貴はレポート用紙に視線を戻した。
一年の時から、ずっと続けていたことだった。
入学当時、星野は祐貴の横の席だった。
試験で赤点を取って、追試だと頭を掻き毟っていた。
『ぜってい、できねえよ。なんで、できんだよ、お前は』
星野に答案用紙を取り上げられてひらひら振られて。
だから、ちょっと説明しただけだった。それが、良かったらしい。合格点を取るまでやらされる追試が一発合格だった。
味をしめたらしい星野は授業が終わる度に擦り寄ってきた。
最初は口で説明していた。それが、いつの間にかレベルアップしていった。
部活だとか用事があるとか言われるまま、紙に書くようになって、今に至る。
復習になる、と言い聞かせながらやっているけれど、最近はあまり乗り気でもない。
ただ、やめるのはどうしたらいのか分からない。
だから、惰性で続けているだけだった。

「俊介、帰ろうぜ」
教室の入り口あたりから声が聞こえた。
「あ、俺、用事あるから。じゃあな」
向かいに立つ俊介が答えていた。
――は?
用事はないと言っていたはずだ。
「なんだよ、またバスケ部か?」
不満げな声が聞こえた。
「まあな、そんなもん」
俊介が答える。
――なんだ
祐貴はふっと息が抜けた。
自分には関係ないらしい。
そうだよな、と思う。俊介は自分とは違う世界に住んでいるやつだと祐貴は思っていた。

かりかりとレポートを仕上げて顔をあげると、祐貴はまだ俊介が目の前にいることに気が付いた。前の机に寄りかかるようにして立っている。
見上げると、俊介が「ん?」と首を傾げた。
「バスケ部に行くんじゃ……」
友達にそんなもん、と答えていたはずだ。
「のんびりしてたら連中が来るかも、な」
「え?」
わざわざバスケ部の連中を待ってる?
嫌がっていたように見えていたのに?
「ちょっと。それ見せて」
俊介が書き終わったばかりのレポートを指差す。
「これ?」
祐貴が差し出すと。
「そう、それそれ」
手から取り上げて、ぱらぱらとめくりだした。
「それが欲しかったら、星野に――」
昨日、そう言ったはずだった。欲しいと言われることは今までにもあって、全部それで通している。
すべてに応えられるわけがない。
「いいよ。ちらっと見るだけだから。見たら星野の机に放りこんどきゃいいんだろ?」
「そう、だけど」
星野の部活が終わるまでに、机の中に入っていればそれで構わない。
「じゃあ、入れておいて」
次の仕事が待っていた。
祐貴が席から立ち上がろうとすると。
「どこ行くんだよ」
俊介が聞いてくる。
「見回り」
「何の?」
「掃除」
「は? それって美化委員の仕事だろ?」
「そう。だから」
「え?」
俊介がきょとんとした顔をする。
「葛西が部活の日だけ頼まれてるんだ」
もう、いいやと思った。きっと答えるまで離してくれそうもない。
「葛西が部活の日って?」
「水曜日以外」
「はあ?」
「別に大したことないよ。美化委員は三人で回してるし、三階の西のトイレと生物室を見に行くだけだから」
基本的には。
「その後、職員室に行くんだろ?」
「まあね」
職員室にある表に印をつけなければいけない。
「俺も行くよ」
「あ、いいよ」
一緒に来てもらう義理はなかった。
「待ちぼうけは一回でたくさんだからな」
――え?
祐貴が躊躇っていると。
「さっさと済ませようぜ」
俊介に背中を押された。


トイレの掃除といっても、生徒がやるのは落ちているごみを拾うことと、ゴミ箱に入れられたごみを捨てるだけだ。
「そういえば、俺、今日当番だったわ」
俊介が思い出したように言う。
そんなもんだ、と祐貴は思った。
クラスを四つの班に分け、教室とトイレと生物室で回し、一般だけ休みになる。
「え?」
俊介がトイレに入ると、声をあげた。
紙くずが転がっているし、ごみも捨てていない。
「こんなもんだよ」
祐貴は清掃用具のおいてあるドアをあけると、中からトングを取り、紙くずを拾ってゴミ箱へ入れ、ゴミ箱にかかっているビニール袋をごみごと取って束ねる と、新しいビニール袋に換えた。
「やったはずだぜ」
俊介が難しい顔をする。
「俊介が?」
「いや、先に行ったやつが……」
「じゃあ、その後で汚れたんだよ」
そういうことでいいや、と思う。
早く帰りたいやつが、やったことにした。きっと、そういうことだ。
これだけのことに、そうそう人数もいらなければ、時間もかからない。
汚れているのは、見て見ぬふりをした。
そこまでは要求されていない。
始業前に業者が来て、掃除はしてもらえることになっているらしい。

次に行った生物室は半分は掃除したんだな、という感じだった。
雑巾が流しの近くに放り投げられていて、これだけは片付けておこうかと、祐貴は雑巾を拾った。
気が付くと、俊介も拾ってくれていた。
「あ、いいよ」
放っておいてもいい。
美化委員の仕事はあくまでも見回りだけで掃除をやり直す必要はない。ただ、チェックする印を変えればいいだけだ。
○・△・×の三段階で職員室にある表に印をつけることになっていた。
だから、さっきのトイレも何もせず、×印をつけてもいい。あるいは、そのままで○にするのもありだ。
ただ、時々教師も見回りをしている。
ばれれば教師から状況に応じてお小言がある。
けれど、それで掃除をするようになるかは別だし、バカ正直に印をつければ、後でいちゃもんをつけられる。
「お前、いつもこんなことしてたのか?」
俊介が驚いたように言った。
「だから、美化委員はなりてがなかったのか」
納得したように続ける。
委員決めのとき一番最後に残るのは美化委員だった。
「要領よくやってるやつはいるよ」
「だけど」
俊介の口ぶりは不満そうだった。
「俊介だって、体育委員やってるだろ。あれだって大変だろ。みんな一緒だよ」
祐貴は俊介の手から雑巾を取った。
「大したことないよ。雑巾を洗って、干し場にかけるだけだから」
流しの水を出すと、雑巾を全部一緒に洗った。
いつもは一人でやっていることだった。けれど、後ろに俊介がいてくれるだけで、いつもより気持ちが弾んでいるのを祐貴は感じた。

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