「彬」
駅の通路で切符を買おうと、彬が料金表を見上げたとき、柴崎に声をかけられ腕を掴まれた。
「どこへ行くんだ」
続けて訊かれた。
「家へ帰るよ」
どこへも行くところはない。彬は柴崎から顔を背けるように伏せた。
「資料探すんだろ?」
そんなのは理由に過ぎない。今日でなくたって、ここでなくたって、近くの本屋だって、図書館だって構わない。
「もう少し考えてからにするよ」
彬はさっきと同じ理由を答えた。
「一緒に考えてやるよ」
少し緩んだ声音に、胸が熱くなる。
「それじゃ、僕のためにならない。そう言ったのは先輩だよ」
レポートを書いてよ、そう言った時に返ってきた言葉だ。
「そんなの、時と場合によるよ。そんな顔をしてるお前を放っとけるわけないだろ。とにかく、ここじゃ人の邪魔になるから、こっちへ来い」
通路の反対側へ引っ張って行かれた。反抗してみても、力で敵うわけはなかった。
壁側に彬を引っ張りこむと、柴崎は彬と向かいあうように立った。柴崎の後ろを行きかう人たちが過ぎていく。彬は柴崎の顔を見ることができず、視線を落とし たまま脇から通路を眺めていた。
夏休みだからだろう、子供の姿が多かった。何人かで、騒ぎながら過ぎていく。最近公開された映画のタイトルの名前が聞こえてきて、見てきたのかな、と思っ た。これから見に行くのかもしれない。高校の時は駅ビルの中にある映画館へよく行ったものだと思った。その時、隣にいたのは杉本だった。
今日久しぶりに会って、懐かしいと思った。彼女ができたと聞いてショックは感じなかった。良かったな、そう心から思った。
「さっきの……本気か?」
柴崎が頭上から囁く。
「嘘や、冗談、言って、どうするんだよ」
途切れる言葉をつないだ。声が震える。誤解はさせちゃいけないと思っていたから、どんな軽い気持ちでも言ったことはなかった言葉だった。
そっと柴崎を見上げると、柴崎は天井を見上げ頭をがしがしと掻いていた。
情けなくなってくる。立っていることさえ辛くなってくる。
「俺は――――」
「いいんだ」
彬は柴崎の言葉を遮った。『俺も』じゃなくて『俺は』だった。それだけで十分だった。かわされてると思ったのは当たっていたらしい。
決定的な言葉を今聞きたくない。そうしたら、きっと、立っていられなくなる。
「俺は、よくないよ」
柴崎が壁に手をつく。もう、逃げられない。いや、最初から逃げるなんて無理だ。走ったところで、すぐ追いつかれる。
「何かあったのか?」
そう続ける。
出した言葉を信じてもくれないらしい。
「何もないよ。ねえ、話をするなら、座れるところへ行こう」
彬は呟いた。立っていることが辛かった。


「ここじゃ話なんてできないだろ?」
席に座ってから、柴崎が文句を言った。
「うん」
同じコトを思うから頷く。
「見たかったから」
続けた言葉は嘘だと分かっても良かった。もう少し共に時間を過ごしたいと彬は思った。心の準備がしたかった。決定的な言葉を聞いても、笑える余裕が欲し かった。
映画館の窓口で一番席が空いていそうなものを選んだ。飲み物でも買うかと聞いた柴崎の言葉にかぶりを振った。手に力が入っていないのが分かっていた。飲み 物さえも、きっと支えられない。
映画が始まって場内が暗くなってから、彬は柴崎の肩にやっと触れるくらいに頭を寄せて、足の上に置かれた手に手を重ねた。柴崎は嫌がるそぶりもしなかった し、 何も言わなかった。重ねた手はそのうち、暖かくて大きな手に包み込まれた。感じる温かさはいつも同じで、それが余計に悲しかった。
始まった映画は、別れから始まるもので、皮肉だなと彬は思った。
夏休みの真っ只中で、映画館もこの部屋に入るまでは人が一杯だった。だけど、ここは、埋まっている席は半分ほどで、小さな部屋は後ろの席は埋まっていて も、前 の席は空きが多かった。そんな傾向は知っていたから、前の席を指定した。画面が見づらいのはわかっていた。映画を見たかったわけじゃない。映像は自分の上 を通り過ぎていった。


映画が終わった後で、駅前広場の街路樹の下にあるベンチに座った。声がこもってしまう店よりも良いだろうと思ってのことだ。人に聞かれたい話じゃない。通 りすぎる人たちは周りの景色など目に止めないよう に、足早に過ぎていく。まるで、テレビ画面を見ているように、目の前の風景は自分とは離れたところで動いているようだった。
気持ちは少し落ち着いた。映画のラストはハッピィエンドで、たとえ誰かと別れても、次に出会う人がいることを教えてくれた。ひとつの恋が終わっても、また 次の恋が始まる。生きている限り、終わりはない。

「俺は、お前に酷いコトをした」
柴崎がぽつりと言う。
「知ってるよ」
まだ、そんなことを言っているんだと思った。もう、忘れようと言ったのに。
「俺は自分が許せない。だから、お前が許してくれると言っても、それはお前の優しさだと思う」
柴崎の言葉は彬の心に不満を生む。
「誤解だって言ったじゃないか。僕はそんな優しい人間でも、良いやつでもないって」
「それは、お前が決めることじゃなくて、俺が決めることだろ?」
「それは、そうかも、しれないけど……」
言葉がしぼむ。
「俺はお前が好きだよ」
柴崎がゆっくりと言葉にした。
その言葉に彬は胸がぎゅっと締め付けられた。
「――――なんで『俺は』なんだよ。なんで『俺も』じゃないんだよ」
悲しくなってくる。それじゃ、気持ちがすれ違ってるみたいだ。柴崎の好きという言葉と自分の好きという言葉は同じ意味を持たないように聞こえる。
「信じられるわけないだろ。聞いたときには耳を疑った。何を聞き違えたんだろう、と思った。でも、頭の中で回る言葉は一つしかなくて、なんで、そんなこと 言ったんだろう、って思ったら、俺を乗せるためだとしか思えなかった」
「なんで、そんなコトになるんだよ」
文句しかでてこない。
「お前のそんな顔見ても、まだ俺は半信半疑だよ。いつ、お前が冗談だよって言うのかびくびくしてる」
柴崎が彬の方を見る。怪訝そうな、不安の混じったような、どうしていいのかわからないような、そんな顔をして、彬に視線を向ける。
「どうしたら、信じてくれる?」
彬は問いかけた。
言葉で言って分かってもらえないなら。どうすればいい?
柴崎は遠くを見るように空を見上げた。木の枝の向こうに何処までも広がる雲ひとつない青い空が広がっている。
「ないよな」
ぽつりと呟く。
「順番が違うんだもんな」
そう続けた。
順番が違う。
最初は言葉で伝えて、身体で確かめる。そんな普通の恋人になる手順が間違ってる。
「でも、俺が悪いんだよな」
ため息混じりに呟いた柴崎の言葉に彬は答えられなかった。
過去は変えようがない。もう責めるつもりはない。けれど、記憶はこれからも残るだろう。
「それが俺への罰なんだな」
柴崎が彬へ顔を向けた。
「どういうコト?」
彬は柴崎の言うことがよく分からなかった。
「きっと、ずっと不安を抱えているんだと思う。お前がいくら示してくれても、心のどこかで否定し続ける。いつか、どんでん返しがあるんじゃないかと脅えて る」
「――――僕は傍にいない方がいいってこと?」
そうとしか聞こえなかった。不安しか与えられない存在ならば。
「お前のためにはそうかもしれない。――――でも、正直に言うなら、俺はそれでも、たとえ、お前が気持ちを返してくれなくても、傍にいて欲しいと思う。 やっと、お前の幸せを望んでやれるところまで来た。だからかな、お前がくれた言葉に動揺してる」
見つめる瞳は切なげに揺れていた。
「言わない方がよかった?」
柴崎の言葉は全て彬の気持ちを否定しているようにしか思えなかった。ほんの少しの時間の差がすれ違いを生んでいく。
グランドで会ったとき、同じ言葉を告げていたら、柴崎の答えは違っていたのだろう。

「そんなわけないだろ。夢なら覚めないで欲しいって思ってるよ。だけど、あまりに突然で、信じられなくて――――本当に本気で言ってるのか? 本 当に本気か? もし、冗談だって言うなら今のうちに言ってくれ」
柴崎の瞳が真剣に訴える。
痛いほどの切なさが身体を奥を這い上がってきて、彬は言葉を出せなかった。
「怒らないから、レポートの手伝いでも何でもするから、お前の言うことなんでも聞くから、だ から本当のこと」
柴崎は続けた。
「本気、だよ」
胸が詰まって、彬はそれしか言葉にできなかった。
柴崎は信じられないような顔をすると、力が抜けたように、ベンチの背もたれに凭れかかった。大きく息を吐くと、空を見上げる。そして、そのまま目を閉じ た。
返事をもらえなかったから、ちゃんと通じたのだろうかと彬は不安になった。相手の気持ちが掴めないことがもどかしい。けれど、何もできない。どうしたら良 いのか分からない。言葉が最後だった。もう、自分には何も残っていない。

ざわざわとする雑踏に紛れて、時折心地よい風が吹いてくる。日向にでれば、すぐ汗が噴出してくるだろう。けれど、腰をおろしているこの場は大きな木に遮ら れ太陽の光はわずかしか届いてこない。
「俺、今、死んでもいいや」
柴崎はゆっくりと目をあけると、ぼそっと呟いた。
「そんなコト言うなよ」
残される身にもなれ、と思う。でも、少しは伝わったんだと思った。
「お前後期からどうすんの?」
声は不安が混じっているように聞こえた。
「ん、戻るよ」
今、決めた。もうやめる理由は何もない。
「そっか」
弾むような軽い声が返ってくる。きっと、気持ちの半分は伝わったと思った。
「そうしたら、一緒に住めないかな?」
柴崎の顔をうかがう。
「経済的にもいいよね」
一応理由もつける。
「離さないからな。覚悟しとけよ」
彬へ顔を向けた柴崎はそう言って、口元を緩めた。目が細くなり、白い歯がこぼれる。
「それは、僕の台詞だよ」
彬が軽く睨むと、柴崎は更に顔を緩めた。
柴崎が自分の気持ちを認めてくれたような気がしてで彬は心がすっと軽くなったように感じた。重い肩の荷物が降りた、そんな開放感があった。
柴崎と同じように、彬もベンチに凭れかかると、空を見上げた。
どこまでも空は青い。
今、同じ風景を見て、同じ空気を吸って、同じ気持ちを共有してる。

ベンチに置いていた手に、ふっと重なるものを感じた。
今、こうして同じ時も感じてる。そして、これからは過ぎゆくときを分かち合っていこう。
暖かい手のぬくもりを感じながら、彬は心の奥が温かくなってくるのを感じた。


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