何もやる気がしなくて、彬はベッドに転がるとぼんやり天井を見上げた。脳裏に浮かぶのは柴崎の走る姿だった。
彬が親元に戻ってから一週間が過ぎていた。
一度だけ親と今後について話をした。
初心を貫けという父親と自分の思うようにしなさいという母親の意見に変わるところは無かった。
最初に大学をやめると言った時とはまた彬の状況も変わっていたから、どうしても大学をやめて親元へ戻りたいという気持ちはない。
友達もできた。楽だとは言わないが、授業もなんとかなるような気がする。
柴崎は――――何も言わなかった。柴崎が望んでいることは分かる。そして、それに彬が応えられないと、きっと柴崎は分かっている。最後に会ったときも、何 も不満らしきコトは言わなかった。
いい先輩でいて欲しいと彬が望むなら、きっと、今なら、柴崎はそれに応えてくれようとするだろう。
たとえ、身体を求められても、もう苦痛ではない。
そして、心は、どうやっても奪えるものじゃない。
カタチのない心は自由だ。その行き先のまま、誰にも制御することはできない。自分でさえも。


全てが順調にいっているように見える。
なのに今、彬の心の中に燻る気持ちがあった。
柴崎の走る姿を初めて見た。その姿が今でも、脳裏から離れない。矢野がファンだと言った気持ちがよく分かった。
直ぐに帰るつもりだった。柴崎に親元へ戻ることを伝えたら、もう用は無かった。なのに、もう少し、そう思っていたら、いつの間にか日は傾いていた。
グランドでばらけていた塊に集合がかかって、矢野が「もう終わりかな」と言うから、あわててその場を後にした。
練習が終わった後で柴崎に会ってしまったら、グランドまで来たことが、まったく意味を失ってしまう。
ただ、柴崎の違う一面を見ただけだ。なのに、今まで感じていた柴崎の色を変えていく。柴崎に感じることはないだろうと思っていた気持ちを抱えてしまって、 その気持ちの置き場に困っている。
ファンだと言った、恋愛感情は持てないと言った矢野のように、柴崎の走る姿にだけ感じている気持ちなんだろうか。そう自分に問いかけても考えることを頭が 拒む。もう結論は出したんだろ、と片隅で答える声がある。
柴崎の気持ちが分かるから、あの人が思ってくれているほど、自分が返せるのか自信がない。好きだと告げてしまったら、その後で間違っていたなんて言えな い。そんなことをして傷つけたくない。
今なら、自然に離れられる。そうなるようにしてきた。なのに、今、胸で燻る気持ちが心をかき回す。
柴崎には帰ってみないと予定は分からないと言った。けれど、特にしたいことがあるわけじゃなかった。
ひとつだけ、杉本に会いたいと思った。好きだと思った気持ちを置いてきぼりにしたままだった。あいつはどうしてるんだろ、そう思ってもなかなか連絡を取れ ずにいた。
はっきり会って、自分の気持ちを確かめることが怖い。それは、まだ好きであっても、もう気持ちがなくなっていたとしても。
だらだらと日にちが過ぎていく。
八月の中旬に入った頃、柴崎から『帰ってきた』というメールが届いた。

駅前のファーストフード店の窓際に座って、彬は人を待っていた。
改札から続く階段を下り、壁を回って来る人が見える。その中に、懐かしい顔を見つけ、彬は自然に顔が綻んだ。向こうも彬を見つけて、笑いながら小さく手を 上げる。
「久しぶり」
トレーの上に飲み物だけを載せ、杉本は彬の前に座った。
「うん。ほんと、久しぶりだね」
彬が目の前の杉本と会うのは卒業式以来だった。
「元気だったか?」
優しい笑顔が尋ねる。
「うん、まあ、ぼちぼち」
会わなかった数ヶ月が嘘のように感じた。つい昨日もこうやって話していたような錯覚を覚える。好きだった笑顔がそこにあった。
しばらく、同級生の話をして、笑いあって、会話が途絶えたとき、杉本が「良かったよ、元気そうで」と呟いた。
たった一人、当事者である柴崎と彬以外にあのコトを知っているやつだった。
「あ、うん」
軽く相槌を返すと、彬は目の前の飲み物に口をつけた。
心配してくれているのだと、高校の時から気配で感じていた。けれど、杉本があのコトについて口にすることは無かった。
誰にも言わないで欲しいと言った彬の気持ちを分かってくれているのだと、思っていた。口にしてしまえば、どこから話が漏れるか分からない。誰が聞いている か、分からない。
「実はさ」
杉本が珍しく曇った顔をした。
「何?」
「お前の志望校があいつの進学先だったから、気にはなってたんだ」
彬をうかがうように見る杉本に、彬は視線を伏せた。
杉本は知っていたんだ、と彬は思った。
「結構騒がれてたし、ロビーのボード見れば分かるし、お前も知ってるだろうと思っていたから、あえて選んだのかな、って思うと何も言えなくて」
杉本がカップを取り、一口飲み込む。
「でも、そんなコトないだろうって思って、もしかして知らないのかとも思ったんだけどさ」
一旦言葉を止めると、小さく息を吐いた。
「結局言えなかった。お前にあいつの名前を出せなくて。嫌なことを思い出させてしまいそうで、できなかった」
思い出すように、言葉にする。
「結局、最後まで言えなくて、お前の合格が決まって行くって聞いたときも、いいのか?って思いながら言えなかった。もう、今更って感じだし、気にはなって も、もう言えないって感じでさ――――でも、良かった元気そうで」
もう一度杉本が言う。
「うん。もう大丈夫。ごめん、心配かけて」
知らないところで、気にしてくれた人がいる。ためらいながらも、会って良かったと思った。ちゃんと、今の自分を見せることができた。
「お前、知ってたのか?」
杉本が不安げに訊いてくる。
「いや。知らなかった」
彬の答えに、杉本はまた、顔を曇らせた。
「やっぱり、言えばよかったんだよな」
ため息をつく。
「違う。会えてよかったんだ。ちゃんと正面から向き合うことができたから」
杉本は不思議そうな顔をした。
「会えたから、自分の中で消化することができたんだと、思う。だから良かったんだよ」
自分に問いかけながら彬は言った。
会わなければ、きっと、不安ばかりを持ち続けた。
「お前が、いいんなら、いいけど」
杉本は背もたれに身体を預けた。
沈黙が流れる。それは気まずいものではなくて、不安と緊張がとけたような温かい空気を彬は感じた。
ふっと何かに気づいたように、杉本はポケットへ手を伸ばした。
「ちょっと、ごめん」
彬に断ると、携帯を手に取り、蓋を開ける。画面を見ながら、杉本の口元が緩んだ。
「彼女?」
彬が訊くと、杉本は照れたように笑いながら頷いた。
彬が電話したとき、杉本は今日はバイトは休みだけれど、午後から約束があると言っていた。それは、きっと彼女との約束だったのだろう。
杉本はメールの返信を打つ手を止めて、時計を見ながら考えていた。
「彼女が待ってるなら、早く行ってやれば?」
彬は促すように言った。
「でも、まだ会ったばかりだし」
杉本が考えるように、瞳を揺らす。
「顔見たかっただけだから。また会えるし」
杉本に会いたかった。もうその答えを彬は見つけた。
「そうだよな」
杉本は頷くと、メールの返信を続けた。
メールを打ち終わると、少し彼女ののろけ話をして、杉本は席を立った。

席に一人で残されて、彬は空いた向かいの座席に脳裏に浮かぶ姿を重ねた。その人は優しくこちらへ向かって笑いかけてくる。最後に会ったときからそんなに日 にちが経っているわけじゃないのに、とても懐かしく感じて会いたいと思った。
残像なんかじゃなくて、現実にそこにいて欲しい。
会いたい。理由なんてない、ただ会いたい。
笑顔だけじゃなくて、言葉をかけて欲しい。
彬は携帯を取り出すと、履歴からその人を選んだ。

駅前の本屋に移動して、彬は入り口を時折見ながら、書棚を眺めた。
入り口に目当ての人物を見つけると、わざと書棚に隠れるようにした。なぜかは分からなかった。気持ちが落ち着かない。ただ、向かい会うまでに時間が欲し かった。
その人は周りを見回しながら、それでも彬の方へ歩いてくる。
胸がとくん、とくん、と波打つ。最後に会ったのはたったの十日ほど前だっていうのに、ずいぶんと見た目は変わったように見えた。首筋にかかっていた髪は短 く刈り上げられて、肌の色はまた一段と黒くなっている。
「あれじゃ、日本人じゃないって……」
彬はぽつりと呟いた。白いTシャツが黒さを更に際立てている。その人は彬に気が付き、白い歯を見せた。
「また、黒くなったね」
柴崎を見上げて彬は言った。
「成果はこれだけだよ」
苦笑いをする。
「タイム伸びない?」
がんばっているのに。
「まあまあ、かな。彬が来たときが一番良かった。それでも、過去ベストと同じだからな」
照れるように頭をがしがしとかく。
「きれいだったよ、とっても。走っている姿があんなにきれいなものだって、初めて知った」
今でも、脳裏に浮かぶ。
柴崎がふっと笑った。
「そう言ってくれると、うれしいよ」
彬の頭をくしゃっと撫でる。
触れられた手の感触に胸が熱くなった。思いが胸の奥から溢れてきて、自分の中だけでは収まりきらず、零れそうになる。
柴崎の肩に手を置くと、彬は耳元に口を近づけた。
「好き」
小さく囁く。ほとんど声はでなかった。息だけで伝えるのが精一杯だった。
ぴくっと震えた柴崎は前を向いたまま、何も答えてはくれなかった。
聞こえなかったのかな、とも思う。けれど、胸が詰まってもう言葉は出せなかった。
「そんなに……面倒なレポート、なのか?」
まるで彬の言葉に対する答えのように出された言葉は、まったく意外な言葉だった。
「え?」
「レポートの資料、探したいんだろ?」
「あ、うん」
確かに、レポートの資料を探したいから付き合って欲しいと電話したのは彬だ。他に理由が見つからなくて、会いたいからとは言えなかった。
「何を書くかはもう決めたのか?」
「――――うん。だいたいは」
事務的な言葉に、今まで弾んでいた胸が痛くなってくる。巧くかわされているような気がする。
自分から離れようとしたくせに、柴崎はずっと自分に応えてくれるものだと、そうどこかで思っていた。
一年以上会わなくても忘れずにいてくれた。『好きだ』と言ってくれた。なのに、たった十日離れていただけでも、変わってしまうものだったんだ、と思った。
「彬?」
柴崎が彬の顔を覗き込む。避けるように彬は顔を背けた。
「中国にしようかと思って、これなんかどうかなと思う」
書棚から一冊取り出して柴崎に渡すと、彬は背けたままの顔を伏せた。
今、顔を見られたくなかった。すごく情けない顔をしているのが自分でも分かって、それを取り繕うこともできない。
自分を思ってくれたときに、応えられなかったのは自分だ。この十日間で何があったか分からないけれど、しむけたのが自分である以上、文句は言えない。
「彬?」
柴崎が彬の肩を掴む。
「ごめん。やっぱり、もう少し考えてからにする。呼び出したりして、ごめんなさい」
肩を掴まれた手から逃れるように、彬は身体を捻ると柴崎に背中を向けた。そして、そのまま入り口へ足を向けた。
「彬?」
気遣うような声で後ろから呼ばれた。けれど、振り向くことはできなかった。
自分が変わったように相手も変わる。時が進むかぎり留まってはいない。過ぎゆくときはいつもカタチを変えていく。
でも、これは自分が望んだことだ。



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