彬がアパートの前を通ると、見上げた部屋は暗かった。
いつもならもう柴崎は帰っている時間なのに、と思いながら階段をあがり、鍵を開けて部屋へ入る。
一歩入った途端、むっとした空気を感じた。朝から締め切ったままだったのだから、仕方ない。これは、いつものこと。
陸上部に入った柴崎は帰りが遅くなった。だから、いつも先に帰るのは彬だった。
先に、部屋の窓を開ける。そして、夕食の支度をする。それが、いつものスケジュール。

昨晩コンビニで弁当を買ってくれば、と言ったけれど、柴崎はコンビニの弁当をあまり好まなかった。
「作っておいてやろうかな」
柴崎が作った方が絶対旨いのに、彬が作ったものを喜んで残さず食べてくれるから。
少し罪滅ぼし――――別に悪いことをしたわけじゃないのに、そんな気分になる。
彬は冷蔵庫を開けて野菜をあさった。今から買い物に行くのはさすがに面倒だった。
「八宝菜ならぬ五宝菜かな」
野菜を選びながら呟く。
疲れきっていて食欲が無かったら、ご飯にかけてどんぶりにすれば良い。そんなことが時々ある。体力がなくなったと嘆いていたけれど、ブランクは大きいのか もしれない。それでも、楽しいと柴崎は言っていた。続いているのはその証拠だとも思う。
「食べなければ、明日の朝に回して良いし……」
冷蔵庫を閉めると、彬は流しの前に立った。



かたっと小さな音が聞こえた。そう思って、彬がドアの方を見ると何も変化はない。
これからドアが開くんだよ、と思ってしばらく見守っていたけれど、何も起こらなかった。
柴崎がいつも帰ってくる時間より既に一時間が過ぎていた。彬が帰りが遅いと言ったから、どこかで時間を潰しているのかもしれない。陸上部の仲間と食事に 行ったのかもしれない。さぼって矢野と遊んでいるのかもしれない。
いい年をしているのだから、心配をするような時間ではない。
けれど、机に座りながら、彬は落ち着かなかった。机の上に置いた携帯に目がいく。何度もかけてみようかと思い、その度にやめた。用事があるわけじゃない。 今どこにいるのか、なんていうのは彬が訊くことでもない。鍵は持っているはずだから、鍵だけ閉めて寝てしまっても構わない。
だいたい、ここは柴崎の家ではなくて、ここに帰ってこなければいけない訳じゃない。

それでも、気になる。
携帯にかければ、ものの一分でことは終わる。
『今どこ?』『いつ帰ってくる?』それだけ聞けばいい。
『どうかしたのか?』と聞かれたら……。そう聞かれたら。
『遅いから何かあったのかと思って』
そう答えれば良いかな。その通りだし、期待させる言葉でもないだろう。
いらいらするくらいなら、聞けばいいじゃないか。聞くぐらいなんでもないだろ? と自分に問いかけた。
もう一時間は待ったじゃないか。
彬は携帯を開けると、履歴から柴崎の番号を呼びだした。

『おかけになった電話番号は現在電波の届かない場所にあるか、電源が切られています』
いかにも作られた声が耳に飛び込んでくる。
『メッセージセン――――」
続けられた言葉は彬が押した釦で途切れた。
今までは、いざとなれば携帯に電話すれば良い、そう思っていた。
その携帯が使えないとなると、胸を掠っていただけの不安が急に大きくなった。
電波の届かない場所? 地下? 何のために?
電源が切れている? そんなことは今までなかった。何のために電源を切ったのだろう。
疑問と不安が交互に頭の中を占めていった。

時計ばかりを見ていた。いつもは早い夜の時間が、まるで時計が壊れているかのように進まない。そして、それでも時間は進むのに柴崎は帰ってこない。
もしかすると――――そう嫌が考えが浮かぶ。
例えば事故にあっていたとしたら。そして、携帯が壊れたとしたら。ラインは繋がらない。
その時、自分に連絡がくることはない。知らずに待つことしかできない。ずっと。
胸の奥がじりじりと痛くなってくる。そんなことはあるはずないと思っても、否定しきれずにいる。
いつもは帰ってくる時間から二時間が過ぎていた。
もう一度と鳴らした携帯はさっきと同じメッセージを流した。

駅まで行ってみようか、一本道だし。
けれど、行き違いにならない保障はない。それこそ、待ちぼうけだ。
携帯が繋がらない今、ここで待っているのが一番良いのだと分かってはいる。じれても心配しても何も進みはしない。それも分かっている。それでも、部屋を歩 き回り、腰を下ろしては視線を彷徨わせ、ため息をついていた。

かたっと小さな音が聞こえた。
その時、彬は机に向かって両手を握り締めていた。触れる肌が汗ばんでいる。ムダな力が手を硬くしている。さっきも音が聞こえた。その時、何も変わりはしな かった。また振り向いて何も起こらなかったら落胆する。それは嫌だ。
ドアが開く音がしたら、そうしたら振り向けば良い。ドアが開く音がしたら。
そう思っていたら、きぃっと高いドアが開く音がした。
思わず息を飲み込んだ。
この家のドアを開けるやつなんて一人しかいない。そう思っても後ろを向くのが嫌だった。
もしも違っていたら。もしも、空耳だったら。
「彬、もう帰ってたのか」
柴崎の声が聞こえて、彬は小さく息を吐いた。よかった、そう思った。
振り返って柴崎の姿を見たら『おかえり』の言葉は出なかった。安心したというよりも気が抜けた。日に日に黒くなっていく、いかにも健康そうなやつがそこに 立っていた。
「携帯は?」
最初にでたのはそんな言葉だった。
「え、あるよ」
柴崎が意外そうに答える。
「電源切ってた?」
「ああ」
「なんで?」
「練習中はいつもそうだよ。どうせ出られないから」
淡々と答えられて、彬は文句も言えなくなった。
「あ、そういえば」
柴崎は続けていうと、鞄の中から携帯を取り出して「電源入れるのを忘れてたよ」と呟く。
――――なんだよ
人がどれだけ心配したと思うんだ。
「今日、遅かったね」
「ああ、もうくたくただよ」
鞄を落として自分も座りこむ。
「ご飯は?」
「まだ。弁当買ってくるのも面倒だったから、なんか簡単に済ますよ」
声にも疲れが混じっていた。
「八宝菜もどき作ったんだけど食べる?」
彬の問いに柴崎は意外そうな顔をした。
「お前、外で食ってきたんじゃないの」
「うん。そうなんだけど……僕が帰ってきたときに、まだ先輩帰ってきてなかったから」
今朝とは違い、柴崎がいつも通りに話してくれることに彬はほっとした。
「そっか。作るの面倒だったから、助かる」
そう言うと柴崎は視線を伏せ、「どうだった?」と続けた。
声が少し上擦っている気がして、まだ気にしているんだな、と思った。
「別に。ボーリングして、食事して帰ってきた」
「そっか」
少し安堵したような、それでも不安が少し混じるような、声音で言う。
「温めるね」
そう言うと彬は立ち上がった。


その夜、またしつこく抱かれるのだろうか、と彬は不安を感じていた。柴崎はもうしないと言った。始めはそうしないつもりでも感情が高ぶってしまうというこ ともあるだろう。
そんな彬の不安をよそに、柴崎は「おやすみ」と言うと、彬に背中を向け直ぐに寝息を立て始めた。
疲れていたのかもしれない。いつもより長くトレーニングをしていたのだろうから。
安心していいはずなのに、彬の心の中では不満がぷくっと泡のように生まれ、上っていく。
そっけなさすぎるよ。そんな言葉が頭を過ぎっていく。
別の人格なのだから相手の思うことを全て分かるわけでもなく、また、分かったとして全てに応えられるわけでもない。自分だってそうだ。
手を伸ばして抱きしめたいと思う気持ちを閉じ込めて、彬も背中を向けた。

こんな生活も潮時なのかな、と思う。
少しの淋しさはあるかもしれない。人がいることに慣れてしまったから、誰もいない、誰も帰ってこない家に帰ることを淋しいと思うかもしれない。けれど、も う、眠れないほどの淋しさを感じることはないだろう。
友達もできた。触れ合うことの恐怖もあまり感じなくなった。
今の不自然な生活を終わりにするとき、なのかもしれない。
時々柴崎の部屋へ夕食を作りに行っても良いし、その時に泊まっても良い。知ってしまった身体は欲しがるから、そういう関係もありなのかな、と思う。男の性 は何もしなくても溜まってしまうもので、自分で処理するより身体を重ねた方が快感は大きい。柴崎も、そんなコトを言っていた。
それでも、と思う。まだ、このままでいたい。



ふっと意識が戻った。そして、彬は自分が腕の中に抱かれていることを感じた。
まだ、部屋の中は暗く、朝まで遠いように思える。背中を向けて寝ていたはずなのに、いつの間にか腕の中に取り込まれていた。優しく腕の中に包まれていた。 柴崎の温かい体温と穏やかな寝息に囲まれていた。それは、全てで慈しまれているように感じた。
優しく包んでいるはずのものがきゅっと自分をしめつけてくる。それは胸の痛みを生んだ。
この人をもうこれ以上傷つけたくない、そう彬は思った。
応えられない以上、傍に居れば、きっといつか傷つける。これから、柴崎は携帯の呼び出しも気にするだろう。
巧い別れ方なんて、きっとありはしない。誰かを好きになったら、きっと他のことは考えられなくなる。今は失いたくないと思うこの人を疎ましいとさえ思うか もしれない。
今なら、思える。今なら、考えられる。だから――。



「家に帰っていいよ」
向かいあった朝食で、彬は口にした。
いつもは正面に座るけれど、今日は角を挟んで座った。不思議そうな顔をした柴崎はそれでもそのことについては何も言わなかった。けれど、彬の言葉を聞く と、眉を顰め、顔をゆがめた。
「もう、俺はいらないってコトか」
苦しげに呟く。
「違うよ」
彬は身体を伸ばして、唇を重ねた。きっと、これが一番良いと思ったから。
あなたをいらないって思うわけじゃない。唇にのせて伝える。
啄ばむように触れると、すぐに離した。
「もうすぐ試験が始まるから。早めに準備始めないと僕は危なそうだし、先輩だって、ここじゃ勉強に集中できないと思う。だからその方がいいと思うんだ」
それは真実。本当の理由は伏せる。でも嘘は言っちゃいけない。下手に嘘を言えば繕うことが難しくなるから。
柴崎は何か言いたげな顔をして視線を逸らした。きっと、いい訳に聞こえたのだろう。
「今度は僕が行くよ」
柴崎が逸らした視線をやにわに戻す。
「毎日は無理だけど、だから、その時は」
抱いてくれる? と彬は柴崎の耳元で囁いた。
柴崎が怪訝そうな顔を彬に向ける。
「だめかな?」
訊いた彬に柴崎はかぶりを振った。
「良かった」
そう言って彬は笑った。
ちょっと胸が疼いた。
少しづつ離れていくのが良いのだろうと思う。
後期から自分はどうするのかも決まっていない。母から一度電話があった。好きにすれば良いと母は言っていたけれど、きっと父の意見は変わらないらしい。父 を 説得するのは難しいと思う。でも、自宅に戻れば自然に離れることになる。そうできれば一番いいのだろう、と思う。
「後期からどうするんだ?」
柴崎が訊いてくる。痛いところを突かれたと思った。
「まだ、決めてない。夏休みに帰って家族と相談する」
自分の思いは伏せて、事実だけを答える。
「そっか」
柴崎は少し曇った顔をした。
ごめん、と心で呟く。
柴崎の手が頬に触れたから、彬は目を閉じた。
その先は決まっていて、触れてきた唇に全てを預ける。
嫌いじゃない。唇に触れられることも、身体に触れられることも。受け入れることも。嫌いじゃない。
でてくる言葉は、嫌いじゃないであって、好き、じゃない。

好きってどんな気持ちだっけ、と思うほど自分には遠く感じて。これから好きになる人が現れるのかと、疑問にも思う。
高校時代、杉本は好きだった。好きだと思った。
だから、好きな人に出会えば、きっと自然に思うことなのだろう。
好き――――神様はなんでこんな気持ちを作ったのだろうと思う。無ければずっと楽に生きられるのに。

「彬、ひとつだけ約束してくれ」
唇を離すと、柴崎は言った。
「何?」
「好きなやつがいるなら、正直に教えてくれよ」
瞳が切なげに揺れる。
「うん。約束するよ」
きっと、隠しておくことはできない。だから、約束する。
柴崎は淋しげに、でも口元を緩めて、彬の頭をくしゃっと撫でた。
嫌いじゃないよ。でも――――。好きじゃない。


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