彬が教室へ入ると、まだ人はまばらだった。その中でも、人が集まって話をしている脇を通ろうとした時、一番端に座っているやつの肘ではじかれたペンケース
が目の前に落ちてきた。
彬は反射的にかがんで、ペンケースを拾っていた。
拾ったペンケースを手に、どうしよう、と思ったけれど、落としたやつは話に夢中でペンケースが落ちたことを気づいていないようだったから、拾ったペンケー
スを机の上に戻して通りすぎようと思った。
彬が机の上にペンケースを置こうとした時、不意にそこに座っていたやつが振り返り彬の方を見た。
「あ、おはよう」
目があってしまったから、そのまま通りすぎることができなくて、彬は一言だけ声をかけた。
「あ、ありがとう」
相手は彬の手にあるペンケースを見て、お礼の言葉を言う。
彬はペンケースを机の上に置いて少し口元を緩めると、軽く頭を下げてその場を通りすぎた。
同
じ講義のやつと友達になれと矢野に言われたことがあったっけ、と思いだす。けれど、新学期が始まって三ヶ月も過ぎていれば、今更な感じで、月末のテストが
終われば夏休みに入るし、後期からも学校を続けるかどうかの結論さえでていない。ここで過ごすのはあと一ヶ月ほどかもしれない思うと、わざわざ声をかける
こともためらう。
定番である窓側の一番前に座ると、鞄を机に置いて、彬はふぅと一息ついた。
「お前、地元なの?」
突然かけられた声に後ろを向くと、さっきペンケースを落としたやつだった。
「え、あ、違うよ」
「え、そうなんだ。てっきり地元かと思ったよ」
「なぜ?」
咄嗟の疑問が口から出る。
「誰ともつるもうとしないしさ。よそから来ると、まず友達作んなきゃって思わねえ?」
「そ、そうかな? でも、機会がなくて」
友達を作ろう、なんて考えていなかった。彬にそこまで余裕はなかった。
「なんだ。そんなのいくらでもあるぜ」
そいつは、言いながら彬の後ろに座った。
「宮下、どうしたんだよ」
後ろから声がかかる。
「次の合コンの計画立てようぜ」
宮下が後ろへ向かって言った。
ばらばらと人が集まってきて、彬を囲んで十人ぐらいの輪ができる。
「え、でも、友達って」
思わず彬が口にした。男ばかりの合コンなど聞いたことがない。
「女がいないとつまんないだろ。何するにしても」
な、と宮下が回りに同意を求めると、口々に「そうだよな」「当たり前だろ」と声がかかる。
慣れているのか、今度はあそこにしようとか具体的な話がすぐでてきた。
鏡に映る自分の顔に柴崎の顔が重なった。少し引きつって平然と装うとしている顔。
夏休み前に、ということでさっそく決まった合コンに彬は誘われた。断る理由もなく、友達を作った方が良いコトは分かっていたから参加することにした。
当日、男女総勢16人の大所帯がボーリング場に集まった。ペアを組みゲームをする。ペアを決める時から盛り上がっていたし、いいところを見せるチャンスだ
とばかりに男たちは張り切っているし、楽しいイベントだとは思う。
けれど、彬は楽しむことができずにいた。
男子校だったこともあってか、女の子の騒ぐ声に好感を持てなかった。どうしても耳につく。そして、楽しめない理由は他にもあった。
自分の順番が終わった時に、息抜きもかねて彬はトイレに行った。
手を洗おうとして、蛇口に手をおいたところで、ふと鏡に視線がいった。そこに重なったのが柴崎の顔だった。
『明日合コンに行くから帰りは遅くなる。だから、夕飯作るのが面倒だったらコンビニで弁当でも買ってきて』
昨晩、彬は柴崎にそう言った。
柴崎が陸上部に入ってから生活は変わった。練習で遅くなるし、疲れているのが見て分かるし、彬は暇をもてあましているし、陸上を勧めたのは彬であるし……
と言うわけで、夕食の支度は彬がやると言った。
柴崎が作った方が旨いんだけどな、と思うところもあったけれど、全てをやらせてしまうコトにも気が咎めた。今にして思えば、よく全てをやらせることができ
たものだと思う。
ただの確認、そう軽い気持ちで言った彬の言葉に柴崎の返事はなかった。
『聞いてた?』
そう訊くと、『ああ』と短い返事を返してきた。
その時の柴崎の顔がひきつっていたような気がした。気のせいだとそのまま過ごしたけれど、気のせいなんかじゃなかったのだと、夜、布団に入った後で分かっ
た。
肌を重ねることに、抵抗はなくなっていた。もう何度も抱かれていた。だから、嫌だという言葉も拒絶を表す意味ではなくなっていた。
でも、さすがに、昨日は本気で嫌だと言った。
何度イかされたか分からない。始めは快感だったものが、苦痛になっていった。
『もう嫌だっ』
最後には柴崎手を払いのけて、彬は後ろを向き身体をまるめた。身体がベタベタで気持ち悪かった。シャワーを浴びたかった。けれど、そんなコトさえ言ってい
る余裕はなかった。全身で拒絶しなければ、離してくれない。そんな気配を感じた。
背中へ触れてきた柴崎の手を身体を捩って振り払った。触っても欲しくなかった。
『ごめん』
そう言った柴崎の言葉はくぐもっていた。
『彬、好きなんだ』
そう言われて、彬は何も答えられなかった。
分かってはいたことだった。そして、柴崎が自分の言葉を待っているということを。そして、それを自分が返せないということも。
二度目の触れてきた柴崎の手を彬は拒絶できなかった。
柴崎に甘えていることは分かっている。自分の都合の良いところだけ取り込んで、後は知らない振りをしている。
柴崎は背中をすっと撫でると、後ろから抱き込んできた。
『好きなんだ』
耳元でもう一度囁く。
その時まで、彬はなぜ柴崎が今日に限ってこれだけしつこいのか分からなかった。
いつもは、彬がねだらない限りは、一度だけ抱いて離してくれた。それが、何の前触れもなく、突然に、彬が拒まなければ朝まで続くのではないかと思うほどの
しつこさを見せた。
――――そうか
ふっと『ああ』と答えたときの柴崎の顔が浮かんだ。
自分は、自分の指向が分かっているから、女に興味がないことを知っているから、合コンにあまり意味を感じなかった。所詮つきあい、その程度のことだった。
けれど、柴崎は彬の指向を知らないから、合コンはそれなりの意味をもつ。合コンで彼女ができるコトもある。というより、そのためにするものだろう。
二度目の柴崎の言葉にも彬は答えられなかった。
いつかは答えを出さなければいけないのだろうと思う。気持ちに応えられないのならば、そうはっきりと。
「はぁ……」
彬はため息をひとつこぼすと、栓をひねった。手を水で流し、栓を閉める。
そこに、ぎぃっと重い音をさせドアが開いた。視線をあげると、入ってきた人物が鏡に映っていた。
彬はポケットからハンカチを出しながら、後ろを向いた。
「席をはずすなら、声かけて行けよ」
宮下が入ってくるなり、彬に声をかける。
「あ、ごめん」
すぐ戻るつもりだったし、自分の順番も終わってすぐで、話が弾んでいたようだったから、声をかけずに席を離れた。
「別に、俺はいいんだけどさ。つまんなくて帰っちゃったのかな、とか、彼女に電話かけに行ったのか、とか、とにかく探してこいってうるさくってさ」
まんざらでもないような面倒くさいような複雑な表情を宮下はしていた。
「すぐ、戻るつもりだったから、ごめん」
もう一度謝りの言葉を付け加えた。声をかけようかとは思った、けれど、それをしなかったのは自分だ。
「無理してる?」
宮下が壁に背中を預けた。
戻らなきゃいけないんじゃないか? と思ったけれど、問いかけてきた宮下に、今、その気はないようだった。
「なぜ?」
「なんとなく。合コンが始めてなわけじゃないだろ」
「初めてだよ」
彬が答えると宮下は不思議そうな顔をした。
「嘘だろ。じゃあ、うるさい彼女がいたとか?」
「彼女なんていたことないよ」
宮下が更に眉を顰めた。
「お前、出身どこ?」
なんでそんなコトが関係あるのかと思いながらも、彬が答えると、
「信じらんねえ」
宮下がぼそっと呟く。
「まさか、お前男の方がいいの?」
ストレートに訊かれて、胸がどきんとはねた。
「そういう訳じゃないよ。だけど、男子校だったし、機会なんてなかったから」
正直に答えることはできなかった。偏見を持たれることは分かっている。せっかく友達ができたのに、それを自分から棒にふることもない。偽ったからといっ
て、誰かに迷惑をかけるわけでもない。少なくとも、好意を抱く存在は近くにいない。
「じゃあ、女としゃべるなんて久しぶりとか?」
「あ、うん。そうかも」
というより、必要最小限以外で、柴崎を除いて、人と話をするようになったのは、ついこの間宮下と話したときからだ。
信じられないという顔をすると、宮下は「なんだ、そうか」と呟いた。
「無理してるように、見えた?」
宮下に問いかける。彬自体は、それほど無理してるつもりはない。ただ、積極的に話そうとはしていない。話のネタもあるわけじゃない。
「いや、なんとなく。気になるコトがあるのかなって。時々ふっと遠くを見るような目をするから」
「そう、かな」
人は自分が思うよりも見ているのだと思った。話が盛り上がっている時、ふっと頭に浮かぶことに気がいってしまう時がある。みんな話に夢中で、誰も自分のこ
となど気にしていないと思っていた。
「無理やり誘ったみたいで、彼女と喧嘩したとか」
「そんなやついないよ」
答えながら、彬は柴崎の顔が浮かぶ。
「それが気になって、楽しめないとか」
「そんなコトないよ。ただ――――」
「ただ?」
宮下が聞き返す。
「ただ、どうしたらいいか、分からないときがあるけど」
話しかけられたときに、返事に困るときがある。
「なんだ。そんなコトか。そんな時はただ笑っていればいいよ。お前の場合は」
彬が答えに困っていると、宮下が続ける。
「それだけでいいやつもいるってコトだよ」
「そんなコト言っても」
彬は眉をひそめた。それなら確かに楽だけれど、それが良いとは思えない。
「最初は、愛想がないやつだなと思った。きつい目つきしちゃって、声かけずらい雰囲気で、顔小さいしそれなりに整っているのに、勿体ないなって」
思い当たることがあって、彬は目を伏せた。
「最近、変わったよな。あれって、どういう心境の変化?」
「え、別に」
他人に答えらられることじゃない。
「色っぽくもなった気がするし、良いコトでもあったんじゃないの?」
「別に……そんなコトないよ」
鋭い突っ込みに、たじろぎそうになる。
「ホントに、彼女いないの?」
宮下が彬をうかがうように覗き込む。
彬は視線をあげ、宮下の目を見た。
「うん。いないよ」
これだけは、断言できる。
「なら、いいんだけど。ちょっと気になったから」
宮下は笑顔を彬に見せた。
「あ、ありがとう」
探しに行ってこいといわれたというのは口実かもしれない、と思った。気にかけてくれる人がいるのは嬉しい。自分はここに居ていいのだと安心できる。
宮下が背中を浮かしたとき、ドアが勢いよく開いた。ドアを開けた人物は彬と宮下を交互に見て大きくため息をついた。
「お前ら、何してんだよ。こんなところで」
メンバーの一人である和田が叫ぶ。
「イイコトしてたんだよな、彬」
宮下がウインクする。
彬が戸惑っていると、和田が入ってきて、彬の手を引いた。
「じゃあ、誰か他のやつ当たってくれ。こいつはもらっていくから」
「なんだよ。それ、ひでーじゃん。俺はどうなるんだよ」
宮下が不満をこぼす。
「佳代がゆかりに泣きつくんだよ。彬くんが帰ってこないって。どうしたのかな、嫌われたのかなって」
「じゃあ、そーゆーことにしとけばいいじゃん」
「実夏まで一緒になって、探してこいって言うんだからよ」
ほら、戻ろうぜ。と和田は彬の手を引っ張って外へ連れ出そうとした。
なんでもないことかもしれない。けれど、手を握られたときに彬は違和感を感じた。
「分かったから」
そう言って彬が軽く手を解くように振ると、和田が手を離す。違和感の正体は分からなかった。ただ、違う、そう彬は感じた。
三人で席に戻ると、「何やってたのよー」と甲高い非難にあった。
宮下がその台詞を巧くかわす。宮下は慣れているんだ、と彬は思った。
宮下に言われた通り、彬は気になっていることがあった。
昨夜はあの後すぐ柴崎が離してくれたから、シャワーを浴びて、彬がシャワーを浴びている間に柴崎がシーツを替えてくれた。
そのまま、背中合わせに寝て、朝から柴崎とは目を合わせていない。
『彬、ごめん。もう昨日みたいなことはしないから』
そう言いながらも、柴崎は彬と目を合わせようとはしなかった。
いつも朝起きたときにしてくれる、啄ばむようなキスも、頭を撫でてくれることも、抱きしめてくれることもなかった。
そんなことは恋人同士のものだろうと言われればそうで、無いからといって彬が文句を言うことではない。柴崎の言葉に答えられない彬が、非難することでもな
い。
でも、気にはなる。柴崎が昨日見せた引きつったような顔が目に浮かぶ。
最初の約束など今はないようなものだから、彬に柴崎を引き止める理由はない。
気持ちに応えてくれないのなら、と柴崎がでていくのなら止められない。
今までは妥協してきた、許してきた。それは自分の意志でできることだった。
けれど、気持ちを返せと言われてできるものじゃない。自分の思い通りにできたら、どれだけ楽だろうと思う。どれだけ苦しまなくてすむだろう。自分だけでは
なく、柴崎も。
ボーリングの後、ペアを組んだカップルで食事に行くことになっていた。
「その後は自由だけど、責任は持てよ」
宮下は彬にそう耳打ちをした。
「どこに行く?」
訊いた彬に、ペアで組んだ佳代は和風料理屋を指名した。
そこは、靴を脱いで店へあがる形式になっていて、テーブルひとつひとつが衝立で区切られていた。
覗き込まれなければ、他人からは見えない。料理が運ばれた後は、二人だけの空間になる。まさか最後まではいかなくても、そこそこの戯れはできる。ふっと漏
れてくる隣の気配に、そんなものを感じた。
「彬くん、合コン初めてなんだって?」
テーブルに通されて、佳代は最初にそう口にした。
「あ、うん」
嘘をついても仕方がない。きっと宮下が伝えてくれたのだろう。
「心配しちゃったよ。つまんないのかなって」
「あ、ごめん。そんなコトなかったんだけど」
正直、気になっている人がいて楽しめなかったとは言えない。
「また、会えるかな?」
「あ、うん」
会えない理由が浮かばなかった。
「じゃあ、携帯の番号教えて」
佳代は鞄から携帯を出して開く。
「――――メールでいいかな」
ポケットの携帯に手を伸ばしながら、彬は訊いた。
「うん。いいよ」
佳代はなんでもなさそうに答える。
心の中で彬は安堵のため息をついた。柴崎の前で女と話なんてできない。
食事の後で、まだどこかへ行きたいそぶりを見せていた佳代に、ごめんと謝った。今日はもう帰ると言うと曇った顔をする。それでも、また会おう、連絡して。
と彬が告げると佳代は頷いた。
少しでも早く帰ったほうが、柴崎は安心するだろう、と思った。
答えられないくせに、失いたくないと思う自分がいた。