ドアに鍵をかけ、靴を脱いで近づいてくる足音が聞こえる。その足音が止まったとき、彬が部屋の入り口へ向けた目には大きな人影が映った。そいつは部屋へ一 歩入ったところで、壁に背中を預けるように腰を落とした。
動くものの無い部屋は静けさに包まれる。外から車が走り抜けた音が聞こえてきた。それ音は、すぐに消え、また静かさが戻る。
「矢野はいいやつだよ」
柴崎がぽつりと言った。彬には柴崎が何を言いたいのか分からなかった。だから何だよ、という言葉は喉元で消えていく。言ったところで何も意味をもたない。
「あいつはノーマルだから、お前を傷つけることもしない」
「そうとは限らないだろ」
言葉が先に出た。高校時代、男と遊んでいたやつらを知っている。手軽に欲望を処理するために。
「あいつは彼女もいるし、彼女を大切にしてるから、そんなコトは絶対にしないよ」
「絶対、なんて言えないだろ」
反論したくなった。絶対なんて、あることじゃない。すくなくとも人間には。
「じゃあ、言い換えるよ。俺より、あいつの方が安心だ」
柴崎の言葉に彬は胸がきゅっと縮んだ。
「僕を傷つけないとあなたは言ったよ」
それは、つい昨日のことだ。
「俺は聖人君主なんかじゃない。それはお前が一番知っているだろ。好きだったやつを、いい気になって――――俺に好かれて悪い気になるやつなんていないと 勝手に理由づけて、抱いてしまうようなやつなんだ」
「それは、もう、過去の話でしょう。今は違う。そうじゃないの?」
彬の口からふとでた言葉は柴崎をかばうものだった。
柴崎の影が動いて彬の方を向いた。
「今だって、好きなやつをこの手で抱きたいと思っている。後悔が気持ちを押さえつけてるだけだ」
――――え?
「だって、僕にはもう気持ちはないのでしょう」
 柴崎は、触れない、と言った。
「いつ? そんなコトを」
柴崎は怪訝そうな声を出した。
「昨日、全てを拒絶しているような僕には触れないと言ったよ」
触れたいとは思わないと言っているように、その時声から感じた。
「ああ」
そう言って柴崎はため息をついた。
「お前の冷たい瞳を見れば、抱きたいなんて気持ちはおこらない。拒絶されているのがはっきり分かるから。自分に対する罪の意識が身体を縛る。だけど ――――」
柴崎が言葉を止めた。
「だけど?」
その言葉を彬は促した。大事なコトがその先にあるような気がしたから。
「お前はふっと以前のお前に戻るから。その時は傷つけた分守ってやりたいと思う、愛しいと思う」
囁くような声は暗がりに溶けていくようだった。
「自分勝手なものだな。傷つけたのは自分なのに」
柴崎は自嘲するように続けた。
「――――それは、また、あなたが僕を傷つけるかもしれない、と言っているの?」
昨日、傷つけないと言ったばかりなのに。
「好きなやつが目の前で目を閉じるから、唇に触れてしまった。それを拒むことはなくて、腕を首に回されたら、その先はどうなると思う?」
彬はどきっとした。昨日のことが脳裏に浮かぶ。
「俺は男なんだよ。それで欲しがらないわけはないだろ」
それはいい訳にも聞こえた。
「手でよければやってあげるって言ったよ」
欲しがる気持ちは分からないわけじゃないから。だから、そこで妥協しようとした。
「それじゃ満足できないよ。俺はお前を知っているんだから」
彬の身体は一瞬強張った。
「――――へぇ、そんなにいいんだ」
自分が知っているのは、痛みと屈辱だけだ。
「俺はいつまで自分を抑えられるのか自信がない。一人にしないで欲しいと言ったお前とどう向き合えばいいのか分からない。最初は触れるなと言ったお前が触 れていいと言った。手でならいいよとまで言う。じゃあ、俺が欲しいって言ったら、お前どうすんの?」
柴崎の言葉に彬の心臓はどきんと跳ねた。
「抱かせてくれないならお前とは一緒に居られないと俺が言ったら、お前はどうすんの? 」
重ねて訊かれて彬は答えられなかった。
「いい、と言われたら、俺はきっとお前を抱いてしまう。だけど、お前に気持ちは無いんだろ? 所詮、俺なんてお前にとってはどうでもいい存在で、ただ今は 使えるから使ってるだけだろ」
自虐的だとも思える言葉に、彬はそうだとも、違うとも答えられなかった。
「だったら、どうなの? 」
抱ければそれで満足なんじゃないの、と思う。
「もう、そんなことはしたくないんだ。欲しくて抱いてしまっても、きっと後悔する。また、お前を傷つけてしまったときっと思う」
強かった口調は段々と弱くなっていった。
――――だから、矢野に?
一人にはなりたくないと言ったから、自分の気持ちを抑えられる自信がないから、信頼できる友達に頼んだ?
「僕を、抱きたいの? 」
彬の問いに、喉をごくりと言わせた柴崎は答えなかった。


もしかすると、今、一番自分のことを考えてくれているのは柴崎なのかもしれないと彬は思った。柴崎がその気になれば、いつだって、昨日だって、抱くことは で きたはずだ。学校をやめるかもしれないと言った時も、押さえつける言葉じゃなく、手を差し伸べてくれるようなコトを言ってくれたのは柴崎だった。もう少し がんばってみろよ、そう優しく言ってくれたのは、柴崎だった。
「いいよ」
そう彬は言った。
「だから、彬、それは――――」
慌てたように柴崎は言葉を返してくる。
「でも、痛いのは嫌だな」
柴崎へ投げるように言った。言葉をちゃんと受け取って欲しい。
「彬、だから」
「嫌だって言ったら、やめてくれる? 」
問いかける。恋人同士の『嫌』じゃないから。嫌だっていうのは本当に嫌なんだ。
「彬」
呟くように名前を呼んだ後、柴崎の言葉は続かなかった。

彬はベッドから立ち上がると、柴崎の横まで行き、ひざをついた。
「嫌だって言ったら、やめてね」
もう一度、念を押す。
「だから、彬――――」
途切れる言葉はその先を想像するしかない。そんなコトは望んではいない、とでも言うのだろうか。けれど、それを口にできないというコトは違う気持ちも潜ん でいるということだ。相反する気持ちが。
暗くて、柴崎の表情は分からない。
彬はそっと手を柴崎の頬にあてた。そのまま引き寄せるように唇を重ねる。触れた唇が動く。それは『あきら』と言っているように感じた。
角度をかえて、何度も唇を重ねた。始めは反応を返してくれなかった柴崎が唇に応え、背中に腕を回してくる。
湿った音が部屋の中に響き、息が荒くなっていく。
ふいに、柴崎は彬を突き放すようにすると、顔を伏せた。ゆっくりと波打つように息をする。
「どうしたの? 」
暗くて分からない顔をそれでも、覗き込むようにした。
「――――シャワーを、浴びてくる、よ」
柴崎は彬の視線を避けるように、立ち上がった。
その気になったというコトなのだろうか、と彬は思った。ためらっているようにも感じたから。
柴崎は棚からタオルを出すと風呂場の前まで行き、着ていたものを落とし、浴室へ消える。すぐに、シャワーの水が流れる音がした。

彬は着ているものを脱ぐとベッドの中に身体をすべりこませた。
これから柴崎に抱かれるんだと思うと、いいのか? と自分の中で声がした。
じゃあ、どうすればいい? その声に尋ねる。しばらく待っていても答えは聞こえなかった。
もう一人は嫌だ。そう心の中で呟いた。身体を差し出せば傍に居てくれるというなら、それはそんな大したことじゃないように思える。既に一度は受け入れてい る。痛みも知っている。
風呂場のドアが開いた音がした。身体を拭く音がして、足音が近づいてくる。
心臓の鼓動が段々と早くなっていった。大したことじゃないと思ったのに、そうでもないらしい。既に知っているとは言っても、またしたいと思っていたわけ じゃない。
柴崎は部屋の隅で、いつも寝る時に着ているTシャツと短パンを身につけていた。
どうせすぐ脱ぐのに、そう思いながら彬の心臓はばくばくと暴れる。

ベッドの縁に腰掛けると、柴崎が彬の頭をくしゃと撫でた。
「彬」
名前を呼ぶ。
彬は何も言わずに腕を伸ばした。早く終わらせてしまいたい。時間が過ぎるのをじっと待っていれば、それは終わる。夜の長さよりはるかに早く。
柴崎は身体を丸め、腕の中に入ってくる。そして、腕を彬の首へ回した。
首に触れた柴崎の腕が冷たかった。彬が柴崎を抱き込むように背中へ回した腕にも、Tシャツを通して、冷たさが伝わってくる。
いつも暖かいのに。いつも感じるぬくもりがない。そこにあるのは、冷たい冷え切った身体だった。
「俺に抱かれることはお前の本意じゃないだろ? 俺はもう、そんなコトはしたくない」
柴崎が耳元で囁く。布団の上から抱き込まれて、お前を抱く意志はないと言っているように感じた。
その気になったのかと思ったのに、この人はまだ自分のコトを考えてくれている。
この人にならいいや、と彬は思った。
「僕が抱いて欲しいんだ」
彬はTシャツの裾から手を入れて、柴崎の背中を撫でた。上から触るより尚実際の肌は冷たい。
「そんなコト……お前が思うわけが、ないってコトは、分かってるよ」
柴崎の声は上ずっていた。
「ホントだよ」
頬に唇で触れる。柴崎の身体がぴくっと動いた。
「お前は、俺のコトなんか――――」
柴崎が苦しげに言葉を詰まらせた。
「僕にはあなたしかいないんだ」
そ れは真実だ。今の自分にとって、一番信頼できるのは柴崎だ。いくら暦の上では初夏だといっても、水を身体に浴びるのは酷く冷たいだろう、と思う。抱く前の 行為としてではなく、熱を冷ますためのものだったのだと、言葉から分かる。傷つけたくはないと言ったコトを言葉だけでなく、見せてくれた。
「彬、そんなコト言うなよ」
柴崎は苦しげに息を吐いた。
「もう、僕のコトなんか嫌い? 」
そう言われても仕方ないと思う。酷いことも言ったし、呆れられるようなこともした。
「そうなれたら、とは思うよ。お前の気持ちは……分かっているんだから」
柴崎は呟くように言う。
「本当に分かってるの?」
「だって、言ったろ、お前。興味なかったって、単なる先輩だとしか思ってなかったって」
「そうだね」
彬は口元を緩めると、今度は柴崎の首筋に唇で触れた。
「でも、時間は人の気持ちも変えるでしょう? 以前の僕とは違うと言ったのはあなただ」
「だけど、俺はお前に――――」
柴崎は彬から顔を背けた。
「忘れようよ、昔のコトは――――今、僕はあなたに抱かれたいと思ってる」
「彬」
「それは、誰に強制されたことでもない。僕がそう思っているんだ」
それは、柴崎が思う気持ちとは違うのかもしれない。いや、きっと違うのだろう。だけど、抱かれるコトと失うコトを秤にかけたら、失うコトを嫌だと思った。 ためらう気持ちが全然なかったと言えば嘘になるかもしれない。
だけど――――。
「冷たい」
彬は柴崎の背中を撫でながら、呟いた。
「あ、ごめん」
柴崎は彬から身体を離そうとした。それを、彬は腕を回して抱き込んだ。バランスを崩して、柴崎は彬の上へ落ちてきた。柴崎の肩にやっとかかるほどの毛先が 彬の頬に触れる。まだ湿り気をもったそこは、はねて雫を飛ばした。冷たい雫が彬の頬を濡らす。
「ごめん」
もう一度謝ると、柴崎は起き上がろうとした。
「嫌だ」
彬は腕を緩めなかった。
きっと、今、自分のコトを一番思ってくれているのは柴崎だと思うから、離れていくことを嫌だと思う。
「重いだろ? 」
柴崎が訊く。彬はかぶりを振った。誰もいないより、ずっと良い。
布団を通して、柴崎の重さを感じた。
「彬、離して」
柴崎が言う。抱き込まれた身体は自由に動かないらしい。
「抱いてくれるなら」
そう彬は答えた。
また、いつ、いなくなってしまうか分からないなら、もう気持ちを抑えることはできないと去っていくのなら、抱かれてしまう方が良い。
「分かったから……彬、離して」
その言葉は信じられなくて、ただかぶりを振った。
柴崎の手が彬の前髪をすくうように、かきあげた。目尻にキスを落とす。
「分かったから、彬」
同じ言葉を二度言われて、彬は腕を緩めた。今まで感じていた柴崎の重さが離れていく。
柴崎はそのまま、ベッドから立ち上がった。
「行っちゃうの? 」
思わず彬は声を出した。分かった、と言ったのに。
「すぐ戻るよ」
黒い影は一旦振り返ると、短い言葉を残して部屋を出ていった。そして、すぐ台所の戸棚を開ける音がした。
小さなガラス瓶を持ってきた柴崎はそれをベッドの脇におくと、ベッドに腰をおろす。
「本当に、いいのか? 」
言いながら、柴崎は彬の頬に手をあてて、さすった。掌は体温が戻ってきていた。
「僕が望んだんだ」
――――今度は僕があなたを離したくないと思ったから。
あなたが大事だと思ってくれているのが分かったから。

柴崎は彬に触れるだけのキスを唇に落とすと、身に着けていたものをベッドの脇に落とし、ベッドの中に身体を滑り込ませてきた。そのまま手を伸ばし彬を抱き こむ。触れた柴崎の身体にまだ体温は戻りきっていなかった。少し冷たく感じる肌を、彬は心地よくさえ感じた。
下半身が擦れあう。柴崎の身体がすぐ熱を持ってくるのが分かる。
「彬」
囁きながら手が顎を捉えるから、彬は目を閉じた。ほどなく触れてきた柴崎の唇は彬の唇を包み込んだ。何度か啄ばむように触れた唇は、頬から首筋へとなぞる ように降りていった。


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