柴崎が憎いはずだ。でも、今憎みきれない自分がいる。二つの気持ちが心の中で葛藤をしている。気持ちがぐちゃぐちゃにまざりあって、どれが本当の気持ちな
のかわからなくなってくる。
なんで腕の中に抱き込まれてなんかいるんだろう。なんでそれを許しているんだろう。突き飛ばしてしまえばいいのに、それをしたくない自分がいる。
ふと、額に温かいものが触れた。その途端、弾かれるように柴崎の身体が離れた。
「ごめん、彬。今日はうちに帰るよ」
――――え?
柴崎は彬の視線を避けるように後ろを向くと、鞄を掴み、足早に部屋を出ていった。
ドアが閉まる硬い音をたて、その余韻が収まると、部屋の中には空気の音が響いた。
声さえかける暇は無かった。
今まで身体を包んでいたぬくもりがかき消されていく。直接触れた空気に、彬はぞくっと身体が震えた。
元は一人で暮らしていた部屋だ。今より寒い季節だったのに、寒いと感じたことは無かった。誰にも干渉されない一人の空間を心地よいと感じていたはずだ。一
番安心できる場所だったはずだ。
こんなに広かったっけ。
彬は部屋を見回して思った。
柴崎と生活を始めてから、まだ、二ヶ月足らずだった。
額に手をあててみる。たぶん、触れてきたのは唇なのだろう、と思った。
なんだよと思う気持ちと離れていってしまった淋しさが彬の心の中で同居していた。
カタンという音でまどろんでいた彬は意識がはっきりした。
バタバタと大きな足音が近づいてくる。
「彬っ」
それだけで誰の声が分かる声は大声で名前を呼んだ。
「ごめん、遅く、なって」
荒い息を吐きながら、そいつは言葉にする。
「早くしないと、遅れるぞ」
まだ整わない息は、駅から走ってきたのだろうか。
彬がベッドの上で身体を起こすと、視界に柴崎が入ってきて、自然に口元が緩んだ。
「ねえ、寝癖がついてるよ」
いつもきれいにしてるのに。
「あ、もう、いいよ、そんなコトは。早く起きないと遅れるぞ」
チェストから服を抜き取ると、放ってくる。
まるで、幼稚園児だな、と自分のことを彬は思った。
「早くしろよ。玄関で待って、いるから」
また今日も、付き添いするらしい。
彬はベッドの上で着替えると、柴崎の待つ玄関まで行った。そして、柴崎の肩から自分の鞄を取る。
「いいよ。一人で行けるから」
柴崎に向かって笑いかけた。
「彬……」
柴崎が眉根を寄せる。
「一人で考えたいんだ」
彬は柴崎の身体を手で押して、付いて来なくていいよと示すと、靴を履いて玄関を出た。
来なくていい、と言ったところで、また後を付いてくるかもしれない。ちゃんと大学へ行くと言って、さぼろうとした前科もある。
けれど、まっすぐに大学へ向かえば、ただ後をついてくるだけだろう。あの時も、すぐに改札を抜けたら声をかけてはこなかったのだろう。現に、その後声をか
けてきたのは教室だった。
柴崎が嫌なやつだったらいいのに、と彬は思う。何を言ってもどんな事をしても罪悪感なんて感じないほど嫌やつなら良かったのに、と思う。
そんなやつだから、あんなコトをしたのだと思えばいい。誰もがするわけじゃない、限られた人間なのだと。人の気持ちなど分からない、社会のルールを守れな
いやつだと。
そうしたら、きっと、自分の周りの人は大丈夫だと思える。自分も大丈夫だと思える。
なのに、自分が認めていた人間があんなコトをするのだと、そう思うと全ては信じられなくなった。自分までも。
どうすればよいのだろう。
どうすれば、忘れられるのだろう。頭の中では同じ言葉が巡る。
「彬」
背後から柴崎が呼んだ。
「何? 」
椅子を回して振り返る。
部屋と廊下の敷居をまたぐように柴崎は立っていた。
「今日は、もう帰るから。ちゃんと戸締りして寝ろよ」
言うだけ言うと、部屋の隅においていた鞄を肩にかけ、柴崎は後ろを向く。
「先輩」
彬がかけた声に答えたのは、玄関ドアが閉まる音だった。
昨日は引き止める隙など無かった。今日は彬がかけた声は聞こえていたはずだ。それを無視して、柴崎は部屋を出て行った。
理由は想像がつく。唇で額に触れたコトに自分で驚いていたみたいだったから。
一人部屋からいなくなっただけで、部屋の空気まで変わった。
居なくなって初めて、その存在の大きさを知る。自分の身体の冷たさを知らなければ、人のぬくもりの温かさを知らなければ、感じなかったのかもしれない。け
れど、知ってしまったから、それは胸の痛みになって返ってくる。心が淋しいと訴える。
「なんで、あんなコトしたんだよ」
つぃっと言葉がでた。
先に気持ちを伝えてくれたら、好きになっていたかもしれないのに。
許せないと思う自分が心の中にいる。その気持ちさえなければ、もっと素直に受け入れられると思う。
言葉で呼びかけるだけではなく、追いかけて居て欲しいと告げることもできるだろう。
けれど、今の自分にできたのは声をだすことだけだった。身体は動かなかった。
望む気持ちと拒絶する気持ち、それはどちらも均等にお互いの気持ちを引っ張る。進むことも戻ることもできずに。
目があった。
「終わった?」
柴崎に訊く。
「ああ」
「じゃあ、こっちへ来て」
彬は柴崎の手を掴むと、奥の部屋へ柴崎を引っ張った。
「彬、何?」
柴崎の声には不安が混じっていた。様子が変だとは思っていただろう。流しに向かい片付けものをする柴崎の後ろで、彬はずっと柴崎の背中を見ていた。
何度か手を止めて「何?」とか「どうかしたのか?」と柴崎は訊いてきた。それを、「いいよ、続けて」そう彬は返してきた。何かがあるのだろう、とは思って
いるだろう。
彬は柴崎をベッドの縁へ座らせると、肩に手をかけ押し倒した。
「彬、何?」
身体を捻るようにして、怪訝そうな顔をした柴崎が起き上がろうとする。力の差はあっても、上から押さえつければ、そう容易には押し返すことはできない。
「何でもしていい、って言ったよね」
確認するように言った。
「彬?」
柴崎の瞳には狼狽が浮かんでいた。
「大人しくしてよ。あばれられちゃ、何にもできないから。それとも、あれは嘘?」
柴崎を睨みつける。
ふっと柴崎の身体の力が抜けたのが彬は分かった。
「分かった」
力なく言葉にすると柴崎は目を閉じた。好きにしろと、無防備な身体が言っていた。
彬は唾を飲み込んだ。おそるおそる柴崎のジーンズに触れる。触れたとたん、柴崎の身体がひくっと動いた。ゆっくりと上からなぞるようにすると、ジーンズの
上からでも、変化がわかる。
「彬?」
少し上体をあげ、柴崎が彬を見た。
「大人しくしてて、って言ったでしょう。動かないで」
彬は言いながら、ジーンズのボタンに手をかけた。少し硬いそれを、捻るように外し、ファスナーを下へおろす。
「彬、やめてくれ」
彬の手を掴みあげ、身体を捩りながら柴崎が顔をゆがめる。
「僕も、そう言ったよ」
悲しげな顔をした柴崎の手から力が抜けた。柴崎の手を振り切ると、彬は下着の上からはっきりそれと分かるものを手で撫でた。
柴崎は視線を空へ向けると小さく息を吐き、諦めたように起こしていた上半身をベッドの上へ落とした。そして、片方の腕を目隠しするように顔の上へのせた。
彬はベッドの縁へ座ると柴崎の下着の中へ手を入れ、既に硬くなっているものを引き出し、優しく包み込んだ。どう扱われるのがいいかは、分かっている。唾液
を手に落とし、ゆっくりと擦りあげる。優しく、さするように、指を柴崎のものに這わせる。
変化するそれと同調するように、柴崎の胸が大きく上下していた。息を堪えるように、唇を噛む。先端をくるっと撫でると、柴崎の身体がぴくんと跳ねる。
丁寧に何度も擦りあげていく。そのうち、先が透明な雫をこぼし、柴崎の手は何かにすがるように拳に握られた。シーツの上を足が滑る。
噛みしめていた口は少し開いて、荒い息を吐く。
「あ、き……もう……」
荒い息の中で、柴崎が言葉にした。
「イっていいよ」
彬は擦りあげる速度をあげた。今まで身じろぎもしなかった柴崎の腰が、最初は躊躇いがちに、彬の手にあわせてくる。それは、やがて、もう抑えきれないと
いった風に揺れる。
「あぁ」
小さく唸った柴崎は、身体を捻るように仰け反らせ、白い飛沫を放った。
特有のにおいが鼻腔に流れこんでくる。
「ごめ……あき」
全身で呼吸するように、柴崎の身体は波打っていた。
「あやまることないよ。僕がそうさせたんだから」
彬は柴崎の放ったものをかぶった手を軽く握った。そして、腰をあげる。
「これも、襲ったことになるのかな」
言いながら柴崎へ視線を向けた。荒い息をつきながら、柴崎が顔をゆがめる。その顔を一目見ると、彬は柴崎に背中を見せた。
「でも、誤解しないでね。これで許してあげるわけじゃないから」
柴崎をベッドに残したまま、彬は流しへ行って、手を水で流した。白い液体が水に流れる様を見て、あの時のコトが蘇る。化学室の流しで洗った雑巾から流れで
た白と赤の液体。記憶も一緒に流れてしまえば良いと思ったのに、一年が過ぎた今でもしっかりと残っている。
手から汚れが流れ落ちたのを確認して、彬は栓を戻した。
視界の端で、ベッドに仰向けになっている柴崎の姿が映る。
「ねえ、手でよければやってあげるよ。だから、夜は一緒にいて欲しいんだ」
命令ではなく、希望として言った。一人で夜を過ごすことが苦痛になっていたから。
しばらく、流しの前で待っていたけれど、柴崎の返事はなかった。
なぜか、裏切られたような気がした。いいよ、と言ってくれると思っていた。それしか返事など考えていなかった。精一杯譲歩したつもりだった。先に、欲望を
満たせてあげればいい、そう思ったのは間違いだったらしい。
額に触れてきたキスが柴崎本人も驚いていたみたいだったから、まだ好きでいてくれるなら、断るはずはないと思ったのに、それは違ったのかもしれない。柴崎
にあるのは、単に、罪の意識だけなのかもしれない。
触れたことで反応を返すことが、思いの証明になんてなりはしない。刺激を受ければ反応してしまうそこは、時に人を選ばない。
彬は小さくため息をついた。今日も、一人で長い夜を過ごさなければいけない。
布団に入っても、冷たい身体は中々暖まらなくて、眠さを感じるのに、眠りに落ちるコトはできなかった。人のぬくもりを求めている自分がそこにいた。