講義が終わり移動のために彬は教室を出た。
そこで、突然背後から肩を叩かれ、びくっと身体が跳ねた。思わず息を呑む。
「そんなにびっくりすることないだろう」
掛けられた声におそるおそる後ろを向くと、そこには一度だけ顔を見たことがあるやつが立っていた。柴崎の友達で、矢野と呼ばれていたやつだった。
「――――何か用?」
迷惑なんだけど、と言葉で言う代わりに顔で表した。
「ちょっと、話があるんだ」
矢野は親指で人の波から離れろという仕草をする。
「僕は話なんてないよ」
ひと言言うと、彬は前へ向き直り足を進めた。
もう、何も関わる必要なんてない。自分はここを去るのだから。
「俺はあるんだよ」
矢野は追いかけてきて、背後から声をかけてくる。
「僕は次も講義があるんだ」
別に出なくてもいいけど、と彬は思いながら答えた。出たところでムダに過ごすだけなのだから。
「その前でいいよ。柴崎のことでちょっと」
声を落として、矢野は言う。
柴崎のこと――――まあ、接点はそこしかないのだから、意外でもなんでもない。けれど、その名前を聞いて、
彬は人波から外れた。どんな話をしたいのかは知らないが、人に聞かれて良い話とは思えなかった。柴崎が愚痴でもこぼしていたのだろうか。柴崎に対して何も
期待なんてしていなかったはずなのに、落胆している自分を彬は感じた。
「何?」
少し来た道を戻ると、壁に身体をつけて彬は言った。
「柴崎、何か悩んでるみたいなんだ」
「それで? 」
すこしぐらい悩めばいいと、思う。
「なんか聞いてるか? 」
「は? 」
それを自分に聞くのは間違ってるだろう、と彬は思った。
「本人に聞けば」
そう続けた。何を悩んでいるかなんて知らない。知ろうとも思わない。
「聞いても言わないから、聞きに来たんだろ。バイトもやめるとか言い出して、一回だけ肩代わりしたから、そのまま代わってやってるんだけど。やっとで見つ
けたバイトのはずなんだ。急にやめるなんて言い出すのはおかしいんだよ。最近講義も休みがちで――――」
「それで?」
「この間、カフェテリアで話をしてただろ。後で聞いたら後輩だって言うから。何か知っているかと」
――――それでわざわざ来たわけ?
「じゃあ、バイトに出て、講義さぼらなきゃいいんだね。そう言っとくよ」
矢野に向かって言うと、彬は足早にその場を離れた。
「そういうわけじゃ――――」
背後から矢野の声がしたけれど、彬は無視した。
バイトには出ろって言って、自分の代返はしてくれなくて良いと柴崎に言うだけだ。
それで解決する。悩みなんてもんじゃない。
柴崎のことを心配する友達がいることに、腹立たしさを覚える。
けれど、自分にも心配してくれた友達がいたことを彬は思いだした。
好きだったから、友達以上の感情を持っていたから、受け入れることはできなかった。
せめて、友達だと思えれば、自分も楽だったのだろうと思う。離れる必要は無かった。辛い気持ちを吐き出せば、きっと、あいつは受け止めてくれただろう。
自分で自分を追い込んでいる。それも分かっている。けれど、自分の気持ちでありながら、どうすることもできない。
杉本は今どうしているのだろう。彬は頭の片隅で、昔の友人の影を浮かべた。
机の上に置いていた携帯の着信が鳴った。
「はい」
彬がラインをつなぐと。
「彬か? 父さんだよ」
久しぶりの声が聞こえた。
父の久しぶりの電話に心当たりが無いわけではなかった。けれど、気がつかないふりをして彬は答えた。
「何?」
「お前、学校やめる気なのか? 」
やっぱりそれか、と彬が思う言葉が返ってきた。
「うん。ごめん。付いていけない。父さんが言った通りだった」
予定通りの言葉を返す。父が知ることは予想はしていたことだった。ただ、思っていたよりも早かったけれど。
「せっかく受かったんだし。もう少し考えた方がいいんじゃないか」
返された言葉は予期していたものとは少し違った。
「うん。でも、早く見切りをつけた方がいいだろう、と思って。来年の受験の準備も早く始めた方がいいだろうし、大学の授業こなしながら、受験勉強はちょっ
ときついから。どっちもって思うと、両方中途半端になっちゃうだろうし。電話しようかな、とは思ってたんだけど、もうちょっとしてからとも思って」
電話したくても、できない事情を父には言えない。
「まだ迷ってるのか?」
うかがうような声が返される。
「ううん。そういうわけじゃない。でも、言い出しづらかった。僕の我が侭だったのに、こんなに早く音をあげちゃうのも悔しかったから」
祖母に話をした時、いずれ父に話がいくだろうとは思っていた。自分から言った方が良いのだろうとは思う。けれど、部屋に柴崎がいる状況では、電話をするタ
イミングも計れなかった。
「そうか。近々そっちへ行く。その時の話そう。電話で話すコトじゃないだろう。もう少し考えてみろ」
「うん。分かった」
カタチだけの返事を返す。
「じゃあ、身体には気をつけるんだよ」
「うん」
彬の返事に答えるように、ラインは切れた。
ふぅとため息をつく。
聞かれただろうな、と彬は思った。狭い部屋の中だ。柴崎は彬の背後にあるテーブルで、調べものをしていた。
自分を拘束するやつがいなくなって、清々するだろう。できればぎりぎりまで知らせたくは無かったけれど。
そういえば、と彬は思った。柴崎に伝えなくてはいけないことがある。
振り向くと、やはり電話の内容を聞いていたのだろう柴崎が驚きの瞳を向けていた。
「バイトやってたんだって?」
彬の言葉に柴崎が怪訝そうな顔をする。
「行けば。行っていいよ」
彬はそう続けた。
「お前、学校やめるのか?」
返ってきた言葉は、彬に答えるものではなかった。
「関係ないだろ」
言いながら視線を伏せた。柴崎の瞳を見ているのが辛かった。
「俺がいるから? 」
胸がきゅと縮む。
「聞いてただろ。付いていけないんだよ。無理して試験だけ受かったところで、ダメなんだってよく分かったよ」
こんなコトこいつ相手に言うことないのに、そうだよって言ってやればいいのに。そう思うのに、それができない自分がいた。
「もう一度考え直してみろよ。俺でできるコトならなんでも手伝うから」
こいつまで、予期していないコトを言う。彬はゆっくりと視線をあげて柴崎を見た。
「僕がいなくなれば、清々するだろ。自由になれるんだから」
開放してあげるよと心の中で呟く。何をしてもらったところで、きっと、気が晴れるコトなんてない。
柴崎が顔をゆがめながら小さくかぶりを振る。
「そんなコトはない。何かやりたいコトがあるから来たんだろ? 無理してって言ったじゃないか。がんばったから受かったんだろ? こんなに早く諦めること
はないじゃないか」
「はっ――――」
彬は思わず笑いがでた。
「できないって分かったからやめるんだよ。ここじゃ無理だって、ううん、場所なんて関係ないって分かったんだ」
知ってる人間が誰もいなくても、一番分かっている自分から逃げることはできない。
「――――場所が関係ないなら、ここでもいいだろ」
諭すように、ゆっくりと柴崎が言う。
「何も知らないくせに。何も分かってないくせに。僕が――――」
彬は口を噤むと視線を伏せた。
責めても何も変わりはしない。けれど、ひとつだけ分かったコトがある。
相手を責める言葉は自分に返ってくる。相手を責めれば、自分が辛くなる。きたない言葉を言ってしまう自分が嫌になる。何も攻撃してこない相手に向かって何
を言っても、空しいだけだ。
浴
びせた言葉に返してくる苦しげな瞳は、彬に罪悪感を背負わせる。もう戻ることのない過去はいくらでも責められる。彬に変えられないのと同じように、柴崎も
過
去を変えることはできない。後悔しているのだと、瞳が告げる。それを責めるのは、弱い立場にものに苦痛を与えているだけだ。自分が今度は加害者になる。
柴崎は彬の前に来ると、膝を落とし彬の手を取った。触れた手は温かかった
。それに対して、自分の手は酷く冷たいと感じた。
「言えよ、彬」
下から彬の顔を見上げる。
「言いたいことがあるなら、全部言ってくれ」
そう柴崎は続けた。
温かい手が冷え切った手を包む。寒い季節でもないのに、自分でも気が付いていなかったのに、自分の手はこれだけ冷たくなっていたのだと、柴崎に手を掴まれ
て彬は初めて知った。
目頭が熱くなって、意味もなく涙がこぼれた。
久しぶりに触れた、他人のぬくもりだった。触れられることも、触れることも避けていた。触れられることも、触れることも怖かった。自分が思いもよらない傷
を受けるかもしれない。自分もまた相手に傷を負わせてしまうかもしれない。
なのに、その原因を作ったやつには、怖さを感じない。
「彬?」
優しく問いかけながら見上げる柴崎の顔は彬には涙で霞んで見えた。
「なんであんなコト、したの?」
あなたが、優しかったあなたが、今でも優しいあなたが。なんであんなコト。
柴崎に手を引かれて、彬は椅子から落ちた。その身体は柴崎に包み込むように抱きこまれる。椅子は小さくカタカタ揺れていた。
「ごめん……ごめん。彬」
柴崎の腕がきつく彬を抱く。
「それじゃあ、答えになっていない」
きつく抱き込まれた腕の中で彬は呟いた。
後悔しているのは、嫌というほど分かっていた。言葉に瞳に態度に、疑う余地は無かった。
「お前が欲しかった。お前を俺のものにしたかった」
「抱いたら、そうなると思っていたの? 」
無理やりでも抱いたら受け入れると、そう思っていたのだろうか。
「そんなコト考える余裕もなかったよ。三年になって、個人的な付き合いなんてなかったから、お前は遠い存在になって、卒業したらもう見ることさえできない
んだと思った。この先偶然に出会うことすら無いかもしれないと思ったら、声をかけていた。お前が付いて来てくれる確証なんて無かった。
ただ、お前の声が聞けるだけでも良かったんだ。だけど、部屋で二人になったら――――いい訳なんかはしない。全部俺が悪いんだ。きっと、自分でも気がつか
ないところで、いい気になってたんだ。だから、お前が抵抗しないのをいいことに、俺は――――」
柴崎の手が彬の背中を彷徨うように撫でる。
「彬、ごめん」
呟くのは謝罪の言葉だった。
「なんで、僕だったんだよ」
特に取り柄があるわけじゃない、しかも男なのに。
「好きで始めた陸上なのに、いつの間にかプレッシャーに取り囲まれていた。ちょっとした反抗心で入った委員会にお前がいた」
「僕は何もしていないよ」
好かれることなんかしていない。柴崎は有名人だから、いい顔するやつは他にいくらでもいた。
柴崎はふっと笑いをこぼすと、彬の頭を撫でた。
「笑いかけてくれたよ」
「別に、そんなの」
優しくしてくれたから、話しかけてくれたから、助けてくれたから、先に何かをしてもらったからだ。単なる挨拶代わりみたいなモンだ。
「お前だけだったよ。俺にプレッシャーかけないのは」
「そんなの、単に興味なかっただけだよ」
関係ないから。有名人であることは知っていた。けれど、それだけだ。
「それでも、よかったんだ。お前と一緒にいると気持ちが落ち着いた。思いがけずに負けた競技会の後で、責めることなく笑顔を向けてくれたのはお前だけだっ
た」
「そんなの――――」
それこそ、柴崎の競技会の成績など自分には何も関係ないことだからだ。
「お前言ってくれたよな」
「え?」
顔を上げて柴崎を見た。瞳が優しく笑う。
「次があるでしょうって。次は大丈夫だよって」
「そんなの――――」
ただ、辛そうに見えたから、声をかけただけなんだろう、と思う。記憶にはない。日常の流れていくヒトコマにすぎなかった。
「覚えてない? 」
柴崎に訊かれて、視線を伏せた。
「ごめんなさい」
口は謝りの言葉を出していた。
自分が何気なく言った言葉を、人は覚えていてくれるのだと思った。
「お前が、謝ることはないよ。所詮それだけ存在だったんだよな、俺は」
柴崎が小さくため息をついた。
そんなことない、と言葉は喉元まであがってくるのに、声にはならなかった。良い先輩だとは思っていた。けれど、それだけだ。自分は他に好きなやつがいた。
「謝っ
てもどうにもならないことは分かってる。でも、以前のお前の瞳は暖かく感じた、なのに、今は酷く冷たい。俺がお前をこんな風にしてしまったのなら、
俺はどうすればいい? どうすれば、お前は前のお前に返れる? 罵りたければ、いくらでも罵ればいい。それだけのコトを俺はしたんだ。殴りたければ殴れば
いい。俺は何回でも殴られるよ。彬」
言葉が頭上から落ちてくる。抱き込む腕は慈しむように背中を這う。触れる身体は暖かさを伝えてくる。
柴崎の言葉は偽りではないだろう、と彬は思った。
柴崎の言うプレッシャーがどんなものかは分からない。自分はそれほど期待されたことなどなかったから。
華やかな世界にいると思った人は、胸のうちで辛い気持ちを抱えていたのだと、初めて知った。
憎いやつの、一番触れられたくないはずのやつの腕の中にいるのに、身体が暖かくなっていく。
「少し、このままでいて」
彬は答えると、柴崎の胸に額を預け、目を閉じた。
人のぬくもりに触れて、自分の身体が冷たくなっていたことを知った。こんな無防備な姿でいたら、またやられてしまうかもしれない。そんな気持ちがまったく
ないわけではなかった。けれど、凍えた身体が暖炉を望むように、ただ、暖かさを求めた。
皮肉だと思う。
原因を作ったのは柴崎なのに。けれど、今、自分を暖めることができるのは、たぶん、柴崎だけだと、彬は思う。
この人は自分をどう扱うかは分かっているから。
「彬」
優しい声が頭上から落ちてくる。
「がんばってみろよ。協力するから」
柴崎が続ける。
自分が自由になることより、他人のことを考えている。それは償いのため? そう思いながらも、彬の心の中には憎しみ以外の気持ちが生まれてくる。いや、今
生
まれたのではなくて、きっと前からあった。でも、それを認めたくはなかった。憎いだけの存在のほうが楽だったから。
「少し考えさせて」
彬は柴崎に答えた。
自分はいったいどうしたいのだろう。そう思うと、彬は胸が苦しくなった。