まだ外は明るい。
もう七時近いのに、日が長くなったものだとベッドの上で彬は思った。
今日は一日中、ベッドの上で過ごした。朝、柴崎を見送った後、一人部屋に残されると、何もかもが嫌になってきた。
ぐずぐずしている自分、嫌なコトをいつまでも忘れられない自分、いらいらのはけ口のように汚い言葉を吐く自分。
こんなコトをしていてもどうにもならないだろ、と思う。けれど、やり直そうと思って来た地で、会ったやつの顔を見ると感情が抑えられなくなる。
寝返りをうつと、玄関のドアが開く音がした。
「ごめん、遅くなって。今すぐ……」
言いながら部屋に入ってきた柴崎が言葉を止める。
「どうした? 具合でも悪いのか? 」
近寄ってきた柴崎の手が彬の額に触れた。
「何でもないよ。触んないでよ」
柴崎の手を振り払うと、柴崎に背を向けるように、彬は身体を捻った。
「お前、もしかすると、今日大学行ってないのか? 」
うかがうような声が聞こえる。
「あんたには、関係ないだろ」
呟くように彬は言った。
「――――彬、俺にどうしろって言うんだ」
少しの間があり聞こえた柴崎の声からは戸惑いを感じた。
「夕飯作ってよ。お腹すいたからさ」
柴崎の言葉を右から左の耳へと流し、命令する。
「そんなコトじゃなくて」
柴崎は彬の肩をベッドに押さえつけるようにして、彬の身体の向きを変えさせる。合った柴崎の目には心配の色が滲んでいた。
「そうやって、また襲うの? 」
彬の言葉に、柴崎は狼狽を含んだ瞳を見せ、はじけるように手を離した。唇を噛み、視線を落とす。そして、ゆっくりとベッドの縁に腰掛け、頭を抱えた。
「――――このままじゃ、お前は悪くなっていくばかりだ。俺が傍にいるのは、お前にとって良いコトじゃないんじゃないか? 」
小さくかぶりを振りながら、柴崎が口にする。
また人のせいにする、と彬は思った。
きっと、土下座でもしろと言えばその通りするのだろう。許してくれとやめていいと言われるまで言え、と言ったらその通りにするのだろう。お前のためにとい
う言い訳を自分の中で用意して。
「あんたには関係ないじゃん。僕がどうなろうと」
お前のために、なんて言って欲しくない。
「彬」
柴崎が苦しげな目を彬に向ける。
「嫌ならやめればいい。出ていけばいいよ。僕は強制なんてしてないし、あんたがやったコトを誰かに訴えようなんて気もない。あんたが僕の言うことを聞くっ
て言うから、やらせてやってるだけだよ」
陸上をやめたのはあのコトが原因のようなことを言うから。勝手に償っているようなコトを言うから。直接償ってもらおうと思っただけだ。
柴崎はゆっくりと視線を逸らすと、立ち上がった。
出ていくのかと思ったのに、台所の流しの前で立ち止まる。カタン、とした音はまな板を出したのだろう。と思った。
早く諦めればいいのに。そうすれば笑ってやるのに。柴崎の言うコトするコトは、彬の心の中に苛立つ種を増やす。
次の日、ベッドでくすぶっていた彬は柴崎に布団を剥がされた。
「何、するんだよ」
彬が起き上がると、服を投げつけてくる。
「学校へ行くんだよ。一人で着替えられないというなら着替えさせてやる」
いつもとは違う、厳しい口調だった。
「ふーん。僕に触れずに着替えさせられるの? 」
反抗心から言葉がでる。
「強制しない、と言ったのはお前だ」
そう来たか――――と彬は思ったけれど、それは、鼻で笑ってやり過ごした。
「せっかく受かったんだろ。行かないでいると、そのうち行けなくなる。そうなってからじゃ、遅いだろ」
柴崎が続ける。諭すように、ゆっくりと。
「今日は行くつもりだったよ」
言葉がついっとでた。そんなこと思ってもいないのに、柴崎の瞳になぜか逆らえなかった。
彬はパジャマ代わりのTシャツを脱いだ。
柴崎が視線を逸らすように、後ろを向く。
こ
んなやつにはもう愛想をつかしてもいいんじゃないのと彬は思うのに、そうでもないらしい。ただ、後ろ暗い気持ちから出てくる行動や仕草なのかもしれない。
けれど、その中の小さな仕草にさえ気持ちを感じてしまう。どんな理由であれ、自分を思ってくれているのだと、思ってしまう。
着替え終わると、彬は置いてある朝食に手をつけようとして、テーブルの前に腰をおろそうとした。けれど、突然柴崎に手を引かれた。
「何だよ」
柴崎を睨みつけた。なんで、こういちいち邪魔してくるんだ、と思う。
「行くんだよ。もう時間がないから」
彬の手を引いたまま、柴崎は自分の鞄と彬の鞄を肩にかけ、部屋の入り口へ向かって歩く。
「あんたは今日一時限目ないんだろ」
彬は柴崎の背中へ向かって言った。
一ヶ月も一緒にいると、だいたいのスケジュールは頭に入る。
柴崎は無言だった。ただ、掴まれた手首はそのままだ。そのまま玄関へ引っ張っていく。力では叶わないから、先に進みたくなくても、身体は進んで行く。
「いい加減、放せよ」
彬は柴崎の手を振り切ろうとしたが、余計きつく握られただけだった。
「痛いっ」
文句を言うと、少しだけ力が緩む。けれど、状況は変わらない。
「――――ちゃんと行くから」
三和土を目の前にして、このまま引きずられるように歩くのは嫌だったから、仕方ないと彬は言った。
柴崎が止まり、手首を掴んでいた手を離して彬を見る。
「本当か? 」
疑うような視線を向けてくる。
「ホントだよ」
彬は掴まれていた手首をさすりながら言った。そして、柴崎から鞄を半ば取り上げるようにして、自分の肩にかける。
「じゃあ、ね」
一応、言葉をかけるとドアを開けて外へ出る。ドアの前で立ち止まると大きく息を吐いた。
何やってんだろ、と思う。あいつの言うことを聞くコトなんてないのに。これじゃ、立場が逆だ。
気持ちがなんとなく分かるから逆らえない。きっと、本当に心配してくれているのだろう。
付き合いきれないと、愛想をつかせばいいのに。出ていったからといって、やめたからといって、何もする気はないのに。柴崎が彬の所にいるのは、プライドと
か体面とかではないのだろうと彬は思う。けれど、そう感じることで余計にいらつく気持ちがある。
ちゃんと行く、そう行ったけれど、彬は大学に行く気にはなれなかった。誰も知る人のいないところで、新しく生活をはじめたかったから、ここまで来た。この
まま柴崎と同じ大学に通う気になどなれない。
先週、祖母の家へ行ったとき、親元へ帰ろうかなという意味のことを呟いた。祖母は少し淋しそうな顔をしたけれど、反対する言葉は言わなかった。
授業について行けなかったと、言われたとおりだった、と言えば、親も許してくれるだろう。
前期の授業料はもう払い込んでいるから、前期で辞めて、戻って受験勉強すれば来年どこかへはひっかかるだろう。
誰も知らない場所へ行けば、忘れられるかもしれないと思ったのは甘かったと思った。覚えているのは自分だ。忘れられないのも自分だ。一年、人を避けていた
生活をしていたのに、場所
が変わったからといって、変われるわけではなかった。人と触れ合うことが怖いと思った気持ちは簡単には忘れられないと分かった。
駅に着くと、券売機の上に張ってある路線図を見上げた。
どこかのんびりとした景色の良いところでも行って、ぼんやり過ごそうかと思った。場所にあたりをつけて券売機の前に進んだ。
「どこへ行くつもりなんだ」
聞きなれた声が背後から聞こえた。彬は足を止めると、小さくため息をついた。
「ちゃんと行く、って言っただろ」
続けられた言葉に、
「ちゃんと行くよ」
背中を向けたまま答えると、彬は改札へ足を向けた。
ちゃんと行くと言った言葉を信じられなかったのか、柴崎は後を付けてきたらしい。また、手首を掴まれて引っ張られるのは勘弁だから、大学まで素直に行っ
た。柴崎は後ろを付いてきているようだったのに、構内に入ったら見失った。何か用事でもあったのかもしれないと思いながら、彬は自分の講義がある教室へ向
かった。
講義は座っていれば時間は経つ。もう、辞めると決めた大学の講義を聴いても仕方ないけれど、辞めると柴崎にいえるはずもなく、引きずられるように連れてこ
られるよりは、大人しく座っていた方がマシだと思う。
夏までに柴崎が音をあげるかどうかは分からないけれど、続いたら、許してあげようと彬は思った。
もう、忘れなよって言ってやろう。資格がないなんて言わないで、陸上をやりたいならやればって。
もう、きっと、あんなコトはしないのだろう。それでなきゃ、もう手を出しているだろう。同じベッドで毎日寝ているのだから。
時間がないと焦らせた割には余裕で着いて、教室へ入ったときに人影はまばらだった。彬は一番前の窓側へ座った。後ろの方が楽そうに思えるけれど、実は違
う。
教師の目線は少し後ろへいくから一番前は結構穴場な席だった。窓外へ目をやれば、中庭が見渡せる。立ち並ぶ木々は色濃い緑色に彩られていた。
後ろから近づいてくる足音に振り返ると、柴崎が近づいてくる。
「ちゃんと、来ただろ」
ここまで来ることないだろ、という意味を込めて睨みつけた。
「まだ、時間はあるだろ」
柴崎は言いながら白いビニール袋を机の上に置いた。そして、すぐに踵を返す。
机の上に残された袋を覗くと中には、菓子パンと牛乳パックが入っていた。朝食を食べられなかったからその代わりということか。食べられなかったのは自分が
悪いのに。起こされたときに、ちゃんと起きていれば食べるコトはできたのに。
なんで、こんなコトするかな、と思う。
なんでこんなコトするやつが、あんなコトしたのだろう、と思う。
頭がよくて、容姿端麗で、陸上部の花形で、彼女を作ろうと思えば選り取り見取りだろうに、男のしかも自分なんかのドコが良かったのか。男を好きであるコト
は非難できない。自分もそうだったから。けれど、少数派であるコトは確かだ。男と遊んでいるやつでも、最後には彼女を作るやつがほとんどだったりする。
彬はため息をひとつこぼすと、牛乳パックにストローを突き刺した。