午後六時過ぎに、インターホンが鳴った。
そういえば、時間には正確だったっけ、と彬は思う。
玄関を開けると、予想していた人物が立っていた。
「どうぞ」
手で部屋の奥を示して、招きいれる。
柴崎は彬の顔を見ると、何か言いたげな瞳を向けた。
「何ですか? 話なら中に入ってからでいいでしょう? 」
彬は柴崎の瞳に答えた。誰が通るかわからない通路で余計なことを言って欲しくはない。
「――――入っていいのか? 」
躊躇いがちに告げられた言葉は、意外なものだった。
「どうぞ。僕が呼んだんだから」
彬はドアを大きく放るように開けると、柴崎がドアを捕まえるのを確認して、後ろを向き部屋の中へ戻った。
部屋で二人きりになることを柴崎が気にしていたことは彬には意外だった。
いや、優しくて気がつく人だと思っていたんだ、あんなことがある前は。自分に与えられた優しさが、あんな形で返ってくることなんて考えはしなかった。
彬は奥の部屋へ入り、机の中から財布を出すと、中から一万円札を抜き取った。そして、財布を机の引き出しに返すと、後ろを向いた。
柴崎はまだ三和土に立っていた。
「早くあがれば」
催促する。こっちが待ってるときは、相手が躊躇する。世の中、そんなものなのかもしれない。
柴崎は一時空を見上げると、決心したように部屋へあがってきた。部屋の中央においてあるローテーブルの前へ座るように彬が仕草で示すと、素直に腰をおろ
し、鞄を脇に置く。
彬は手に持っていた一万円札をテーブルの上に置いた。
「今月の食費」
言葉をそえる。
テーブルの上の一万円札に視線を止めた柴崎が、ゆっくり顔をあげて彬を見た。
「本気か?」
眉根を寄せて言う。
「本気だよ」
彬はまっすぐに柴崎を見た。
嘘や冗談じゃない。本気で頭にきた。今までにこれほど感情が高ぶったことなんてないほどに。
「明日からなんて言わないよ。今日から。すぐ食事の用意をしてよ」
言いつける。
「彬」
「何だよ」
名前を呼ばれることまで、なんだかむしゃくしゃする。
「お前、変わったな。俺のせいか? 」
柴崎が顔をゆがめた。
「そう思いたければ、そう思えばいい」
言い捨てると彬は、後ろを向いて机に向かい座った。
変わった? どれだけ知っていたというのか。会っていたのなんて一年間のそれも週に一回程度だ。それだけで、全てを知っていたように言われちゃたまらな
い。
背後から小さなため息と腰をあげる衣擦れの音が聞こえてきた。
本気だとは思わなかったから一応確かめに来たのか、それとももう一回できればラッキーだと思ったのか、そんなところなんだろう。本気だと知ってどうするの
か。付き合えないと帰るのか、それとも条件を飲むのか。
「彬、なんか食いたいものあるか?」
諦めたような力のない声が聞こえてくる。
「別に」
背を向けたまま彬は答えた。
「そっか」
小さい声とともに、離れていく足音が聞こえた。
条件を飲む、らしい。
自分の思い通りになったはずなのに、彬の苛立ちは収まらなかった。
六畳の部屋に続く廊下、そこに流しとコンロを置いただけの小さなキッチン、反対側にはトイレとバスのドアがある。古い木造アパートは、トイレとバスが別に
なっていることが気にいって決めた。
狭い部屋だから、音は筒抜けだ。
いつもは一人でいる部屋に、他の人がいる気配と台所から聞こえてくる包丁で何かを刻む音やコンロで何かを沸かす音が気になった。レポートを書くために読ん
でいる本の内容がさっぱり頭に入ってこない。
け
れど、自分から言ったことだから文句も言えない。柴崎が受け入れると、彬は思っていなかった。陸上の花形だった。脚光を浴びることになれた人間が人に言い
なりになるコトを受け入れるわけはないと思っていた。せいぜい許してくれと言うくらいだと思っていたのに、予想は外れた。
オムレツにエリンギと玉ねぎとパプリカを炒めたものと、ご飯にじゃがいもとわかめの味噌汁。
テーブルに並べられたものは、そんなシンプルなものだった。冷蔵庫の中をあさったのだろう。買い物に行っていたら、遅くなるから。
一人分だけ用意された食事。
「なんで一人分なんだよ」
彬は柴崎を睨みつける。
「え? 」
彬の意図が分からないというように、柴崎は怪訝そうな顔をした。
「何でも言うこと聞くんだろ。居てくれなきゃ、何も言えないじゃん。家に帰るつもりだった? そんなの僕が学校行ってるときにしてよ。今日から泊まっても
らうから。OK? 」
一応、確認の言葉をつける。
こんなコトはさっさとと音をあげてもらって終わりにした方が良い。
「――――わかった」
少しの時をおいて、呟くように柴崎は言った。
そんなことはできない、そう言えばいいのに、と彬は思う。そんなコトを言ったら言ってやりたい言葉があるのに。けれど、まだ、それを言わせてはもらえない
らしい。
「味噌汁、残ってんの?」
「ああ」
「野菜は?」
「それは――――」
柴崎が口を噤む。
「皿を一枚持ってきて」
彬が言うと柴崎は部屋の隅にある棚から皿を一枚持ってきた。何も説明はしていないけれど、必要なもの以外は何もない部屋だから、どこに何があるかは分かっ
たらしい。
彬は、柴崎から皿を受け取ると、野菜を半分移した。
「卵なら、まだあるはずだから、早く作ってきてよ。冷めちゃうだろ」
「あ、ああ」
意外そうな返事をすると、柴崎は背を向けた。
何やってんだろ、彬は自分でそう思った。償いなんだから、相手のことなんて気にしなければ良いはずだ。少しでも辛い思いをすればいいじゃん。そう思ってい
れば良いはずだ。
「今日は特別だよ」
言い訳のように、彬は口にした。
はっきり言わなかった自分にも落ち度はあるから。
彬はテーブルの前に座ると、台所の柴崎へ視線を向けた。
なんでこんなコトになってるんだろう。自分で種をまいておいて、そう思う。顔を見たくもないやつなのに、なぜひとつの部屋にいるのだろう。ついこの間ま
で、友
達とさえ二人きりで同じ空間にいることが苦痛だったはずなのに、今、それを感じない。頭にきてるから? それはちょっと違う気がする。
柴崎は出来立てのオムレツをフランパンごと持ってきて皿に載せると、彬のものと皿を変えた。
なんでこんなコトするかな、と思う。それでも、彬は換えることはしなかった。
フライパンを台所に返しに行った柴崎が戻ってきたところで、彬はそっと手を合わせると、箸をつけた。
味噌汁も野菜も冷めていたけれど、オムレツだけは温かかった。柔らかい食感と優しい味に、何でもできるやつっていうのはいるもんなんだな、と彬は思った。
「料理うまいんだ」と呟いた彬に「一年やってたから」と柴崎が答える。
できないやつはできないもんだよ、と彬は心の中で呟いた。
一年で料理がうまくなるのなら、半年で国立が合格するなら、誰も苦労なんてしない。
「やっぱり帰るよ」
食事の片付けが終わった後、台所に立ったままで柴崎が言った。
「なんで? さっきは泊まることにOKしただろ?」
机に向かって座っていた彬は振り返り応えた。
柴崎が視線を伏せる。
「その方が、いいだろ」
「なぜ?」
彬は怪訝そうな目を柴崎へ向けた。
「――――その方が……お前も安心だろ? 」
柴崎はためらいがちに答えた。
お前も安心? なんで、そんなことあんたに心配されなきゃいけないのだろうか。
「まだ、あんたは僕のコト好きだって言うのか? 」
もう一年半以上前の事だ。それから、一言だって口を聞いていない。嫌な忘れたいコトになっているはずだ、そんな相手も気持ちも早く忘れたいと思うだろう。
自分ならきっとそうだ。
柴崎は何も言わずに、顔を伏せたままだった。
「それとも、オトコなら誰でもいいのか? 」
性欲処理としてやれればよかったのだろうか。好きだと言いながら、あの時も、いいチャンスだと思っただけなのかもしれない。
「そんな事はないっ」
今までとは違う強い口調で反論する。
――――まだ好き?
柴崎の言葉はそうとしか取れなかった。
「僕は大丈夫だよ。なんでそうやって、なんでも僕の所為にするのさ。それとも、またやる気?僕が嫌だって言っても。驚きで身体に力が入らなくて、抵抗でき
なくて、そんな僕を好きなようにしたように、また抱く? 」
「あの時は」
柴崎が顔をゆがめる。
「悪いことをしたと思っているのでしょう? もうしないんでしょ? なら、いいじゃないか。一緒にベッドで寝よう」
「彬、それは」
「但し、僕にちょっとでも手を触れないでね」
彬は言い捨てると、机に向かった。
苛立たしさはある。けれど、怖さは無かった。なぜだろう。柴崎が本気になったら、抵抗はできないだろう。前のように。
そうか――――とふと思った。
一度経験してるから。痛みも辛さも経験してるから。だから、かもしれない。
許されるコトかとか、していいコトなのか、は別にして、乱暴に扱われたわけじゃない、とは思う。
まだ好きだって? 冗談じゃないよ。彬は心の中で呟いた。