例年より開花が遅かったという桜はもう散り始めていた。
大学の入学式を終えて、まだ一週間もしていないのに、花冷えと冷たい雨に桜の花びらは寿命を早められたようだ。
彬は風に乗り振ってくる桜の花びらを見ながら、もう少し咲いていてもいいんじゃないの、と思った。
新生活を始めたばかりなのに、散っていくものがあるのは淋しい。
化学室での一件があってから自分が変わったという自覚が彬にはあった。
けれど、それは、柴崎が卒業して、彬が高校三年生になってから、余計悪化した。
人に触れられることに、異常なほど敏感になった。自分に対して必要以上の好意を持っているように感じてしまう。
そんなわけはない。そんな指向のやつがそうそういるわけはない。そう頭では理解できるのに、感情が先に立つ。
ちょっと肩に触れられるだけで、身体はこわばった。触れられることが、二人で人気のないところへ行くことが、怖い。周りから変に思われるのが嫌で、自分か
ら人を避けるようになっていった。
受験勉強は、良い言い訳だった。自分の学力よりはるかに高いレベルの学校を志望先にして、自習室で過ごす。そうすれば、関わってくるやつもいない。
人に自分とは関わって欲しくない、彬はそう思っているのに、一人だけ、近寄ってくるやつがいた。
優しい笑顔を湛えて、杉本は彬を心配そうに見ていた。いつも。
いいやつなのは分かっていた。好きだった、友達としてでなく。
だからこそ、余計に怖かった。自分も柴崎と同じことをしてしまうかもしれない。
好きだから、で済まされないことを自分は知っている。杉本から離れなくてはいけない、彬はそう思った。
偽りの志望校は、進学先へと名前を変えた。
地方の大学へ行きたいと言った彬に親の出した条件は、父方の祖母が住んでいる町にある国立大学であれば、ということだった。
理由を言えるわけもなく、親元を離れたいだけのわがままとしかとれないのだから、出された条件に文句を言えるはずは無かった。
受かるはずがない、と高を括っていたのだろう。合格通知を手にした時、両親は声も出せないほど驚いていた。
自分もまさか受かるとは思っていなかった。学部を選ぶ余裕なんてなかったから、それこそ、一番受かりやすそうなところを選んだ。センター試験が思いのほか
できたことも幸運だった。直前の模試よりも、100点上がった。
受かったところで付いていけるのか? と親は心配したが、 行かなきゃ付いていけるかどうかわかんないだろ、と説き伏せた。せっかく受かったんだ。きっ
と、神さまが助けてくれたに違いない。
嫌なことは忘れて、新しい地で、新しい人生を歩きなさい、と神様が用意してくれたんだ。そう思った。
古い校舎に降る桜の花びらはとてもあっていて、見ている分にはきれいだった。
さっそく出されたレポートの資料を探すため、
講義の空き時間に彬は図書室へと向かっていた。講義が行われている時間であるから、行きかう人はあまりいない。二、三人のグループと時折すれ違うくらい
だった。
周りの建物よりもひときわ古い図書館の入り口が見えてきて、そこから人がでてくるのが見えた。
彬はふいと足が止まった。足が前へと出なくなった。
こんな道の途中で止まっていたら、変に思われる。そう思うのに、足がでない。
図書室から出てきた人はまっすぐに彬の方へ歩いてくる。当たり前だ、一本道なのだから。
何事もなく通り過ぎて欲しいと思ったのに、その人は彬の立つ少し前で立ち止まった。かけていた眼鏡をはずす。
「彬」
そして、そう呟いた。
キャンパス内のカフェテラスで、テーブルには真っ黒な液体を湛えた紙コップが置かれていた。そして、目の前には二度と見たくないと思う人物が座っていた。
「オレを追ってきたのか? 」
あまりな質問に、彬は顔をゆがめた。
「そんなわけないよな」
沈んだ声を出し、コーヒーが入れられた紙コップを手に取ると一口啜る。
「先輩は、陸上の推薦で進学されたと思っていました」
自分でも、よくこれだけ冷たい声がだせるものだと思う声がでる。
柴崎は自嘲するように、笑った。
「オレにはそんな資格はない、と思ったから――――張り出されていただろう。合格者のボードが」
毎年、高校のロービーに張り出される合格名簿。確かに、それを見れば分かったのだろう。そんなことなんて、する気にはならなかった。あれから、同じ校舎で
過ごした半年あまり、視界の端でとらえても、無視し続けた。名前が載るボードなんて見るのも嫌だ。どうせ、推薦で一流と言われる大学に進学するのだろうと
思っていた。わずか半年で志望を変えて国立にするなんて、誰が予想できるだろう。運動だけをやってきたのだと思っていたのに、神様は時に二物も三物も人に
与える。
「そんなもん、見ませんでした」
「そうか」
諦めたように柴崎は言った。
「陸上、やめたんですか?」
その道では知れた名前だったらしいのに。
「――――オレにはそんな資格ないから」
呟くように柴崎が言う。
――――資格がない?
それは、化学室での一件を指しているように思った。
あんなことをしたやつは、花形だった陸上をやめ、国立とは言え場末の場所に来るのが相応しいという意味だろうか。
「柴崎」
聞こえた声に、彬は声の方へ顔を向けた。柴崎も声の方へ振り返る。
「ああ、矢野」
「ボード見たか?次、休講だってよ」
「ああ、朝見た」
「そっか。じゃあ、また後でな」
「ああ」
テーブルに近づいてきた矢野は彬を一瞥すると、柴崎に目で挨拶して離れて行った。
彬がいるから気を使ってくれた、そんな気がした。
資格がない? どんな資格が?
国立大に入り、友達もいて、何も困っている様子なんてない。
陸上をやめたことが柴崎にとってどれだけ辛いことだったかなんて分からないけれど、そんなことは彬には関係ないことだった。寧ろ、大人しく推薦で行ってく
れればよかったんだ。そうすれば、こんなところで会うことなど無かった。
彬には関係ないところで、償いごっこをしている。
そんなことを彬は望んでいないのに、勝手に自分で決め付けて。
それが、正しいように言う。
それが彬には段々腹立たしく感じてきた。
一人でいい子になって、自分も辛い思いをしてるんだと演出して、自分を慰めてる。
当の彬の気持ちなんか無視して。
「少しは僕に悪いことをしたと思っているんですか?」
陸上をやめたと言うから。
「悪いことをした、と思っているよ」
柴崎は落ち着かないように、視線を揺らし、最後は視線を伏せた。
「じゃあ、償ってくれませんか?僕に」
関係ないところで、自分自身を慰めているのではなく。
「――――どうやって? 」
柴崎は不思議そうな表情を彬へ向けた。
「僕と付き合ってください」
柴崎の表情が驚きに変わる。
「ただし、僕の言うことは何でも聞くこと」
彬は付け加えた。
柴崎が眉根を寄せる。開きかけた口は閉じられた。
「結局、資格がないなんて言いながら、自分のしたいことしかしないんでしょう。陸上なんて怪我したらおしまいなんだから、こっちを選んだ方が先々有利だっ
たんじゃないんですか? それを、僕の所為にしないでください」
柴崎の顔が苦しそうに歪んだ。
彬は柴崎の答えを待った。視線は彬に留めたまま、柴崎は答えることを躊躇しているようだった。何でも言うことを聞け、と言われてはいはいと承諾するやつも
珍しいだろう。
彬は小さくため息をこぼすと、立ち上がった。もう、これ以上は話すことはないと思った。承諾するとは最初から思っていなかった。所詮、それだけのことなの
だ。
「待ってくれ」
柴崎が机の上についていた彬の手を掴んだ。
彬が柴崎に視線を向けると、柴崎は一瞬戸惑った表情を見せ、
「わかった」
と答えた。
彬は柴崎の手を振り払い、席に座ると、鞄からメモ帳を出し、一枚破り自分の住所を書いた。
「とりあえず、毎日の食事の支度と洗濯、お願いしますね。合鍵は作っておきますから、それから携帯を貸してください」
手を出した彬に、躊躇いながら柴崎が携帯を渡す。代わりに住所を書いた紙を柴崎に渡した。
そして、柴崎の携帯で自分の携帯の電話番号を打ち込んだ。彬のポケットの中で、携帯が震える。着信を取って、メモリに保存する。
「じゃあ、今日は僕は六時ごろには家に帰っていますから、来てくださいね」
言いながら、彬は席を立った。
立った拍子にがたついたテーブルが紙コップの中の真っ黒な液体を揺らす。
「彬」
柴崎は怪訝そうな表情を見せた。
それを無視して彬は背中を見せた。そして、足早にカフェテラスを後にした。
――――なんだよ
全てを忘れようと選んだ進学先には顔を見たくないやつがいて、そいつは勝手に償っているつもりでいる。
「ふざけんなよ」
つい、口から出る。
悪いと思っているのなら、ちゃんと償ってもらおうじゃないか。