過ぎゆくとき
それは、偶然の出来事だった。
化学室の掃除を終え、小谷彬は掃除当番の仲間と教室へ戻るために階段を上っていた。
「キミ達化学室の掃除?」
上からかけられた声に、彬が顔をあげると先輩である柴崎孝司の顔があった。
「そうですけど?」
一番先頭を歩いていた南が答えた。
「ちょっと忘れ物をしたみたいなんだ。鍵貸してくれるかな?」
「え、それは――――」
最初に答えてしまった南がしぶい声を出した。
特別室の鍵は又貸しは禁止になっている。だからといって、先輩に向かってできないということがはばかられたらしく、はっきり答えられなかったようだった。
「何も、ありませんでしたよ」
助け舟をだすように、南の隣にいた境が声を出した。
「そう? 心当たりが他になくてちょっと確かめたいだけなんだけど。ちゃんと鍵は返しておくから」
柴崎の言葉に、南と境は怪訝そうに顔を見合わせた。
柴崎はちょっとした有名人だった。陸上の国体選手で、その道では全国区で知られているらしい。有名大学から声がかかっているという噂もある。鍵を貸さない
と信
用していないととられかねない。だからどうなるというものではないが、二の足を踏んでしまうのは分かる。
「でも――――」
南がためらいがちに声を出す。
どんな事情であれ、鍵が戻らなければ、自分達の責任になる。クラスの連帯責任でトイレ掃除一ヶ月の罰は避けたい。南や境だけじゃない、きっと他のやつらも
みんなそう思っているだろう。
「――――僕が先輩に付き合うよ」
彬は鍵を持っていた南の肩を叩き、手を出した。彬の顔を見て、ほっとしたように南の表情が緩む。
「頼んだぜ」
言いながら、南は鍵を彬の掌をのせた。
「じゃあな」
次々に彬へ声をかけ、他のやつらはそのまま階段を上っていった。足音は遠くなり、姿は見えなくなる。
「悪いな、つき合わせて」
柴崎が彬に向かって顔をゆがめた。すまないという気持ちを彬はその表情から受け取った。
「いいですよ。別に急ぐこともないし」
彬は、柴崎を促すと自分から階段を下り始めた。去年、彬が高校一年生の時、柴崎と同じ美化委員会だった。知らない間柄ではない、どちらかと言えば世話に
なったのだから、これくらい付き合うのは当たり前くらいに思った。
去年は一ヶ月に一度の委員会や、落し物の整理だとか、当番だとかで、一週間に一度位は会っていた気がした。縦割りにすると、同じクラスになることもあった
のだろう。今年に入ってからは、たまに廊下で会って、挨拶をするくらいだった。
階段を下りると、直ぐに化学室のドアがある。
「一緒に探します。忘れものって何ですか?」
鍵を開けながら、彬が訊いた。
「うん、時計なんだけど――――」
掃除をしていた時、確かにそんなものは無かったと彬は思った。あれば誰かが声を出すだろう。見過ごす大きさのものではない。
「どこいらへんか、心あたりありますか?」
見つからないことで、たとえば、クラスの責任になったら嫌だな、と思った。柴崎は何時間目にこの教室を使ったのだろう、その後で使ったクラスの誰かがもっ
て
いってしまったのかもしれない。
「たぶん、机の流しのあたりかな」
「机どこですか?」
「前の真ん中」
彬はドアを開けて入ると、柴崎に言われたとおりに、一番前の机に向かった。鍵を机の上に置くと、辺りを見回す。そんなに小さいものではないから、視界に入
れば見逃したりはしないだろう。
――――やっぱり、無い。
念のために、流しの下を覗いてみたけれど、何もなかった。
「先輩、無いみたいですよ」
彬が振り返ると、柴崎はまだ入り口に立っていた。
「ああ」
柴崎は、忘れ物をしたと彬を連れてきたことをまるで忘れていたかのような返事をすると、ドアを後ろ手で閉め、彬の方へ歩いてきた。
「掃除していたときも、何も気がつきませんでした。だから――――」
途中で彬の言葉は止まった。
近づいてくる柴崎の袖口から時計がちらっと見えた気がした。本当に時計なのか確かめたくて、彬は視線で柴崎の袖口を追った。
見え隠れする、それは時計だと確信したとき、柴崎はすぐ目の前まで来ていた。
「先輩、時計――――」
はっきり言っていいのか、彬は躊躇った。友達になら言える。灯台下暗しってやつだよ、と冗談も言える。
「わかってるよ」
柴崎は静かに言った。
「え?」
見上げた彬に柴崎は目を細めた。身長は十センチは違う。あからさまにがっちりした体格ではないが、文化部の彬と違い、バリバリ運動部の柴崎は、近くにくる
と威圧感を感じた。端正な顔立ちは、それを余計に助長する。
「彬――――」
柴崎はそう呟くと、突然彬に腕を回し抱きしめた。
「先輩、何――――」
ぎゅっと抱きしめられて、彬は身体の力が抜けていくのを感じた。どうしてそうなのるのか、自分でも分からない。この腕の中から抜け出したい、と思うのに、
身体が思うように動かない。
第一、なんで、先輩が突然こんなことをするのか、分からない。忘れ物という嘘までついて。
「彬」
耳元で囁かれて、背筋を悪寒が走った。一度失った身体の力はなかなか戻らない。
そのまま、柴崎の唇が首筋を伝った。
「先輩やめて、やめてください」
抵抗できるのは言葉だけだった。
首筋にかかる柴崎の熱い息を感じながら、彬はなんとなく柴崎の意図が分かった気がした。入学前、男子校では男が女の代わりをさせられるっていうから、気を
つけなさいよ、と
姉に
茶化すように言われたことがある。話半分に聞いていたけれど、実際そんなことがあるのだと、一年通って分かった。ただ、それはほんの一部であり、合意のも
とに遊び感覚でやっていて、自分が興味さえ示さなければ、その中に入ることはなかった、ないはずだった。
柴崎が望めば候補者はたくさん手を上げるだろう。人気はある。その中から選べば良い。自分に向けられるものではないはずだ。
嫌なら抵抗するしかないのに、彬は身体に力が入らなかった。身体を離そうと、柴崎の胸を押しても、力が入らない所為か、もともと力の差があるからか、びく
ともしない。
「好きなんだ」
そう耳元で呟いた柴崎の言葉に、彬は身体の奥が疼いた。自分の切ない気持ちが一瞬呼び起こされる。
「先輩、やめ――――」
抵抗する言葉は唇でふさがれた。
そのまま、身体を押し倒される。ふわっと浮いた身体は、ゆっくり床に落とされた。両腕を押さえつけられ、上から見下ろされる。
「先輩、やめて」
彬にはそれしか言えなかった。最後は声が揺れた。
「そんな顔するなよ。いつも笑っていただろ」
柴崎が呟く。
押さえ込んでいた片手を離し、頬を優しくなでる。押さえつけられている腕と頬を触る手はまるで別人のように感じた。
「先輩、嫌だ、やめて」
彬は何度もかぶりを振った。自由になる足をばたつかせても、床をけることしかできなかった。
離された腕で柴崎の身体を押しても、びくともしない。
学ランのボタンを外され、シャツをズボンから引っ張りだされた。直接肌に触れられ、背中がぞわっとする。
「せんぱいっ」
ベルトに手をかけられ、彬はその手を掴んだ。けれど、押し戻すこともできずに、柴崎にされるまま、ベルトを外され、チャックを下ろされる。
「い、やだっ」
足も押さえ込まれて、動くことはできなかった。
「彬」
呼ぶ声はひどく優しい、自分を押さえつけている人間のそれとは思えないほどに。
「やめて、お願いだから」
自分の意志とは関係なく、目じりに涙が滲む。悲しいのか、悔しいのか分からなかった。
「彬、お前が欲しいんだ」
柴崎は片手で彬の下着ごとズボンを膝まで下ろし、身体をひっくり返した。腰を持ち上げられて、彬は自分を支えるために肘をつくしかなかった。
彬のものを柴崎は手中に納める。
「あ、あ、いやだ」
「よくしてやるから」
ゆっくりと扱かれて気持ちとは裏腹に彬は身体が熱くなっていった。感じることが嫌だと思うのに、敏感なところを刺激され、素直に反応する。そんな自分も嫌
になってくる。
「いやだ――――やめて」
うわ言のように呟きながら、身体は柴崎に応えていた。
後ろの窄まりにぬるっとした感触がして、身体がこわばる。舐められているんだと分かって嫌悪感が先にたった。けれど、自分のものは萎えたりせず、快楽を享
受したがっていた。こんなところで、こんなカッコで、好きでもない相手と、そう思いながらも、身体はのぼり詰めていく。
「いや――――んっ、あっ――――」
駆け上がってきた熱を出してしまえば、残るのは疲労感だった。全力疾走したときみたいに息は荒く、頭は真っ白になっていた。自分だけが空間から切り取られ
た感じがした。
柴崎が身体が離れていくことを感じてほっとした。何も、考えたくなかった。
動くことも面倒で額を手の甲に乗せ息を整えていると、不意にひんやりした感触を窄まりに感じて、驚いた彬が起き上がろうとすると、また押さえ込まれた。
「優しく、してやりたいから、大人しくして」
諭すように言う柴崎の息も荒かった。そのことに、まだ、終わりじゃないのだと悟った。彬には、もう、いやだと言う気力もなくなっていた。
この体制で抵抗などできない。どっちみち力では敵わない。
男に貞操がどうのという問題もなければ、妊娠して困ることもない。少しの時間、我慢さえすれば良い。遊びでやってるやつらもいる。自分だけじゃない
――――彬は頭の中で肯定する理由ばかりをあげた。
柴崎には優しくしてもらった記憶もある。そんな目で見ていたと今の今まで思いもしなかった。彼女がいないのは、部活が忙しいからだと思っていた。
遊びではなく、本気でオトコが好きなやつがいることも分かっている。けれど――――。
柴崎の指が身体の中でうごめき、背筋を唇が這う。
素直に受け入れれば、それほどの不快感はなかった。
けれど、指ではないものを押し当てられて、無意識に身体が引いた。それを強引に引き戻される。
皮膚を引っ張りこむような鈍い痛みの後、一瞬鋭い痛みを感じた。声がのどの奥に吸い込まれてしまうような痛みは、その後、じりじりと熱く痺れているように
感じた。
早く終わって欲しい、頭の中でそれだけを呟いていた。早く終わって、開放してくれ――――。
突き上げられる、快感とは程遠い感覚の中で「彬」そう呼ぶ柴崎の声だけが甘かった。
自分の中で震える柴崎を感じ、後ろから抱き込まれて、やっと辛い時間も終わったと彬は思った。
背中に柴崎の熱い息を感じる。それに対して自分の身体の中は冷え切っていた。
「彬」
熱い唇が背中に触れる。
「もう、いいでしょう」
自分で驚くほど冷たい声がでた。
「彬?」
「もう用は済んだでしょう。早く鍵を返しに行かなきゃいけないんだ」
「彬」
柴崎の声は戸惑っているように感じた。まるで、同意のもと行った行為のように。嫌だと何回も叫んだことを忘れたかのように。
「彬、そんなこと言うなよ――――」
「早く退いて」
背後から息を呑む柴崎の気配が伝わってくる。いくら先輩でも、世話になったといっても、自分が男でも、許せることじゃない。まだ感じる痛みと、
身体を好き勝手された情けなさは、きっと分かりはしないだろう。
柴崎の身体が離れ、身体の中がぽっかり空いた。
自由になった身体は支えるのが辛くて、身体の片方を床へ落とした。ふと見た床に、赤い血痕が目に入った。
そして、自分が放ったらしい体液。
「ごめん」
柴崎はそう呟くと、ポケットからハンカチを出し、彬の窄まりを拭うように当てた。
彬は自分がひどく惨めになった気がした。
「出ていってくれよ」
そう床に視線を落として叫んだ。
柴崎に早く目の前から消えて欲しいと思った。こんな姿を人に見られたくはない。
「彬」
躊躇うように触れてくる手がある。
「早くっ」
早く一人になりたい、そう思った。
「彬、まだいるのか?」
突然、ドアが開いて声が飛び込んできた。彬はその声に身体が固まった。
「いないのか?」
教室の後ろをこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。三列並んでいる机に阻まれて、姿が見えなかったのだろう。
「すぐ行くから、教室で待っててくれ」
彬はできる限りの大声を出すと、ズボンを引き上げた。
早くしないとと思うのに、足に絡んだようになっているズボンをあげることは容易ではない。
柴崎は立ち上がると、彬の横を抜け教室の後ろへ歩いていった。
「彬?」
という怪訝そうな声の後、
「教室で待っててくれって、あいつは言っている」
答える柴崎の声が聞こえた。
「何、どうしたんだよ。彬」
シャツをズボンに収めながら、彬は背後の声を聞いていた。一番見られたくなかったやつがそこにいる。
視線を向けることができずに、身体を丸めた。
「出て行ってくれよ」
彬は精一杯声を出したつもりだったのに、声は掠れていた。
きっと、ここで何があったかは分かってしまっただろう。特有のにおいが鼻につく、そして、床の血痕。
「行こう」
柴崎の声が聞こえた。
「そんなことできるわけないだろう」
もみ合うような衣擦れの音がし、その後、近づいてくる足音とドアが閉められる音が聞こえた。
「彬?」
背後からかけられた声に、目頭が熱くなった。
「教室で待っててくれって言っただろ」
そう呟く。
「そんなことできるわけないだろう。大丈夫なのか、お前」
大丈夫ってどういうことなのだろうか、と思いながら彬は小さく頷いた。
「大丈夫だよ、杉本」
言いながら、床に視線を向ける。
――――せっかく掃除したのに、またやんなきゃ
汚れから目を逸らすと、床に手をつき身体を起こした。
「あいつ、三年の柴崎だろ。ちやほやされて良い気になってんじゃないの?」
「そんなことないよ」
たぶん。
「このままでいいの?お前」
どうしようがあるというのだろう。
「誰にも言わないでくれよ」
言いながら視線を向けると、心配そうな杉本の瞳が見えた。
「お前がそう言うなら」
「誰にも知られたくない」
杉本には一番知られたくなかった。
彬はゆっくり立ち上がると、部屋の隅にある流しの縁から雑巾を一枚取り戻った。掃除が終わったばかりの雑巾はちょうどよい湿り気を持っていた。
床につく赤い痕を拭う。下腹部に感じる痛みはまだある。それは、今起こったことが現実であることを示していた。
「彬、本当にお前大丈夫なの?これって――――」
「だって、仕方ないだろ」
もう済んでしまったことをとやかく言っても仕方ない。「それより、何か用があった?」
わざわざ、化学室まで来るような用事が。
「ああ、本を返そうと思って待ってたんだけど、お前だけ戻ってこなくて、なんかいちゃもんつけられたって聞いたから。なかなか帰ってこないし、面倒なこと
にでもなってるのかと思って」
本――――そうか。見つかったら没収だから、机の上には置いておけなかったんだ。
「そうか、ごめん――――そういえば言うの忘れてたんだけど、もうあの本買うのやめることにしたから」
杉本に貸すためにだけ買っていたマンガ雑誌。何かつながりが欲しくて、読みたいと言った杉本に買っているから貸してやると言った本だった。
「そんなの、どうでもいいよ、それより」
「もう、いいんだ」
何もかも――――そんな気持ちだった。
大したことじゃない、そう思って抵抗を放棄した。先輩という躊躇いもあった。けれど、その気になれば抵抗はできたのだろう。手に触れるところに木製の椅子
だってある。実際振り回したりしなくても、手にしただけで違っただろう。あの時は、そんなことは考えられなかった。嫌だと言葉にするしかできなかった。
大したことじゃないはずなのに、心が鉛をつけたように重い。
「彬」
心配そうに見る杉本の瞳がある。
汚れた床を拭い、流しで雑巾を洗った。水に流されていく汚れのように、さっきの出来事も流されてしまえばよいのに、と思う。雑巾の汚れは流されても、心の
重さは変わらなかった。
それから、彬が柴崎の姿をみたのは、半年ほど後の在校生として出席した卒業式の時だけだった。
名前を呼ばれ立ち上がった柴崎の背中を見ながら、何も感情はなかった。時間薬とはよく言ったものだ。
忘れてしまえばいい、と彬は思った。人間は忘れるものだから。だから、人は生きていけるのだという。
もう、身体の痛みはない。忘れてしまえばいい。