表札の名前はあっていた。
住宅街の一軒の家の前で祐樹は立ち尽くしていた。
俊と別れた後、以前生徒手帳に書いてもらった住所を頼りに圭輔の家を探した。もう太陽は落ちて、街頭が道を照らしている。
今訪ねるのはどうなんだろう。そう思いながらも、今躊躇したら一生できないような気がした。
とりあえず、写真を返すという用事はある。けれど、その後を考える余裕は無かった。
聞いてみようか。
なぜ、キスしたの?
頭を回るのはそれだけだった。
インターホンに手をかけて、一旦引いた。鳴らしてしまったら、もう後には引けない。やめるのなら今だと思うのに、足は動かなかった。
二階に灯りがついている部屋がある。確実に誰かいて、インターホンを押せば返事はあるだろうと思った。
前で進むことも後ろへ戻ることもできない。何かが背中を押すのに、手は錘をつけられたように重かった。
どうしよう――――頭の中はこの言葉がぐるぐる回っていた。
手をインターホンまでもっていって下ろす。そして、小さくため息をつく。それを何度か繰り返し時間は刻々と過ぎていった。冷えが足元から上ってくる。それ
は足先を凍らせて動けなくしているように思えた。そして、体の芯を凍えさせる。上にはおっているコートなんて役にはたたなくて、体は冷たくなっていく。
ここでこうしていても何も解決しない。それは分かっているのに、圭輔の傍にいるというだけで、安らぐ気持ちが胸の片隅にある。
ふっと視線を感じて振り返ると、過ぎ行く人の街頭に照らされた顔は不審げにこちらを見ていた。思わず、あげた手はインターホンを押していた。
家の中に響くインターホンが音がドアを通して聞こえてきて、それからしばらく沈黙があった。
出るまでに時間がかかるのは分かる。けれど、そう思われる時間は過ぎているだろうと思った。
もしかしたら、そんな考えが頭を過ぎる。
家には圭輔しかいなくて、その圭輔がインターホンに答えることを拒んでいる。
そうならば、いくら待っても出てくるはずはない。
ぽつりぽつりと後ろを通り過ぎていく人はまるで決まったように祐樹を一瞥してから通りすぎていく。
門の前に長い時間いることは不審だと思われても仕方ない。
足は動かない。気持ちも帰りたくない。けれど、意志は示してそれを拒否されたなら、それは答えなのだろう。
通報されてややこしくなる前にこの場を立ち去った方がいい。そうぼんやり思いながらも祐樹は足が動かなかった。
かちゃっと小さな音がして、そちらへ視線を向けるとドアが小さく開く。それはそのまま開いて圭輔が家から出てきた。凍ってしまったように棒立ちになって祐
樹は圭輔を見ていた。
「何か用? 」
セーターだけのまま不服そうな顔をしながら、圭輔はこちらへ歩いてきて門の前で止まった。
門を挟んで向かい合った。
「あ……写真を」
口がうまく開かない。出た声は震えていた。
「写真?」
「うん。この間図書室で忘れていったやつ……」
言いながら、祐樹は肩にかけていた鞄を開け中から袋を取り出した。
そのまま差し出すと、圭輔が手を出して受け取った。
「わざわざ、どうも」
迷惑げに言う。
「ううん。ついでがあったから」
口からでまかせがでた。
「あ、そっ」
かえってきたのは、冷たい言葉だった。
その先に告げる言葉を見つけられなかった。態度で迷惑なのだと分かる。
「じゃあな」
圭輔が踵を返すように後ろを向いた。
「あ……」
祐樹は門に手をかけていた。氷を握り締めたように、ぞくっと背筋に冷気が走る。かしゃんと金属が触れ合う音がして圭輔が振り向くいた。
「まだ、何かあんの? 」
声が冷たくて、手も足も体の全てが冷えていて、声を出せないまま顔が歪んだ。
「用はもう終わったんだろ? 」
小さく祐樹は頷いた。既にした告白は拒絶されていて、態度は更に冷たくなっていて、もう望みなんてないように思えた。
でも、なぜ?
疑問は残る。なぜ、キスなんてしたの?
けれど、誰が通るかわからないこんなところでは訊けなくて。明らかに拒絶が見える態度に話があるとも言いづらかった。学校でもいいだろう、そう言われれば
終わりだ。
諦めきれなくて、手はまだ冷たさの残るスチールの扉を握りしめた。
圭輔の大きなため息が聞こえた。
「いいよ。入れよ」
言い終わるとすぐ、後ろを向く。凍った体は直ぐに動かなくて、圭輔を見ていた。
「早くしてくんない? 寒いんだけど」
ドアを開けたまま、振り向いた圭輔が言い捨てる。
祐樹は小さく震える手で門の鍵をはずすと、中へ入った。
圭輔の部屋は片付いていて、机にディスクトップのパソコンとテーブルの上には蓋を閉められたノートパソコンがあった。
「適当に座って」
そう言うと、圭輔はすぐ部屋を出ていった。
二階の角部屋は灯りがついていた部屋だと思った。家の中に他の人の気配がしないから、たぶん一人なのだろうと思う。
暖房のついた部屋は暖かくて、縮こまっていた細胞がやっと息ができた。そんな気がした。
適当に、と言われても初めて来た部屋でどうしたらいいのかは分からなかった。
とりあえず、鞄を肩から下ろしコートを脱ぐと部屋に入ってくるだろう圭輔の邪魔にならないように部屋の隅に壁に背をあてて腰を下ろした。
ふっと力が抜けて、膝をたてると体を丸めた。
冷たい態度であっても、冷たい言葉をかけられても、まだ好きだと思うと自分が情けなかった。このまま部屋の空気に溶け込んでしまいたかった。そうしたら、
拒絶されることなく、ずっと圭輔を見ていられる。
しばらくすると、階段をあがってくる足音が聞こえて、ドアが静かに開いた。
祐樹が顔をあげると、圭輔はすっと視線をそらした。
居たたまれない思いが体を走る。このまま消えてしまいたいそう思って顔を伏せると目の前に湯気がたったマグカップを差し出されて、甘い匂いが鼻をかすめ
た。
「飲めよ」
ぶっきらぼうに言われて、祐樹はあわててカップを手に取った。もう一方の手でカップを触れると温かさが伝わってくる。両手でカップを包み込むようにした。
冷え切っていた体の奥まで温かくなってくるように思えた。一口口に含むと、温かさが体を中を降りていく。
隣に腰を下ろした圭輔と無言の中、甘いココアを飲み干した。
突然、圭輔が宙を見上げて、小さくため息をついた。
「で、何? 」
冷たい言葉はまた体を凍りつかせた。
「この間……」
なんでキスなんて――――そう言いたかったのに言葉は途中までしかでない。
「言っとくけど、変な誤解はするなよ。俺はそんなつもりはないんだから」
ためらいのない流暢な言葉は迷いのない心を表しているように思えた。
「あん時は、なんか、お前が可哀想に思えて、だから、魔が差したってか……変だろ、男同士なんて、最近はネタでやってるやつもいるから、免疫ができてんの
かもしれないけどさ。絶対変だよ。有り得ないだろ。だから、お前だって違うよ。お前だって誤解してるんだよ。男子校なんて通ってると男しか見ないし、女な
んておばさんしかいないし、だから、若い女を見れば、お前だって、自分の気持ちが誤解だったって分かるよ」
畳み掛けるように圭輔が言う。その言葉は祐樹の頭の上を通り過ぎていった。
「そうだろ?」
そう言われて祐樹に返す言葉はなかった。
若い女なんて通学途中にいくらでも見る。その場で返したけれど、手紙を渡されたこともあった。自分の気持ちは迷惑以外の何物でもないんだと感じた。
それでも。
「僕は圭輔が好きだよ。そういう意味で……やっぱさ、あんなことがあるとちょっと期待しちゃって……でも、そうだよね。そういう指向はないってはっきり言
わ
れたのは覚えてるよ……ごめん、友達でいられなくて」
自分の気持ちに嘘はつきたくなかった。
今、うんと頷けば友達に戻れる。けれど、それでは解決しない気持ちがある。
冷えていたはずの体はいつの間にか熱くなってきて、氷が溶けたように滴を流す。それを知られちゃいけないと思って顔を逸らした。思いは必ず通じるわけじゃ
ない。それは指向が同じでも同じでことで、通じないものは仕方ない。傷が深くなる前に引き返すのが最善なのだろう、とぼんやり思う。
ごめん、そう言って祐樹は立ち上がろうとした。
「それじゃ、困るんだよっ!」
圭輔に両肩を捕まれて無理やり向きを変えさせられた。
向かいあう困惑げな圭輔の表情が辛くて、自分の頬を伝うものを見られたくなくて、祐樹は顔を背けた。
「ごめん……」
時間が経てば友達だと思うことはできるかも知れない。けれど、今は無理だと思った。
「祐樹、こっち向けよ……」
突然声音は優しく変わって、けれど、祐樹は小さくかぶりを振った。手で顔を乱暴に拭うと立ち上がろうとした。圭輔の困惑した表情を見ていると胸が潰れそう
に
なる。好きな人に応えられない自分が嫌になってくる。
けれど、立ち上がるには、圭輔の肩を押さえる力が強かった。
「ごめん、僕、もう帰るよ。離してくれよ……」
祐樹は圭輔の手に手をかけた。
これで二回目だった。
一回目は自分が望む答えを期待した告白だった。
二回目は決別の意味を含んだ告白だった。指向を理解できないのなら、交わることはない。
肩を捕まれ押さえられていた体がふっと軽くなった。
――――え?
体は自分の意志とは反対へ動き、視線の先には天井が見えた。弾みで脇においていたカップが転がっていった。
「圭輔? 」
「それじゃ、困るんだよ」
見あげた先の圭輔の顔は歪んでいた。