鞄の中には、写真の束が入っていた。
そのまま、圭輔は全て忘れていってしまった。それを、どうしたらいいのかわからなかった。
昨日、圭輔が取りに戻ってくるかと、ぎりぎりまで図書室にいて、仕方なく鞄の中へ入れた。そのまま、家へ帰り、学校へ来て、次のチャイムが鳴ったら今日の
授業が
終わる。
圭輔の様子は変わらなかった。
いつのように、目も合わさなければ、声もかけてこない。
それでも、こちらから声をかければ答えてはくれるだろう。クラスメートの前であからさまな無視はしないだろうと思う。忘れものだよ、そう言って渡せば済む
ことだ。
けれど、今自分の手にある写真は圭輔との間を繋いでくれているような気がする。
渡してしまったら、その繋がりが切れてしまう気がする。もう切れているのに、それでも繋がるものを手放したくない自分がいた。
どうしよう、祐樹はそう一日中思っていた。上の空で過ごした一日がもう少しで終わる。だからといって解決するわけじゃない。
クラスのあちこちがそわそわし始めて、それが合図のようにチャイムがなり始めた。
「じゃあ、ここまでだな」
教師の言葉を合図に週番が号令をかけクラス中が一斉に席を立つ。礼の後、早いやつは、そのまま教室を出て行った。
ざわざわと雑音が教室にあふれる。
その中で、祐樹は自分の席に立ち尽くしていた。
がたがたと机を動かす音も聞こえる。掃除が始まるから、当番でもない自分がここにいるわけにもいかなかった。
ふっと、圭輔の席へ視線を向けると、教室を出て行こうとする背中が見えた。
追いかけて、忘れ物だよ、そう言って渡せば全て終わってしまう。
なのに、机の横にかけていた鞄を取り上げて、机の中のものを適当に突っ込むと、祐樹は圭輔が出て行った入り口とは違う入り口から教室を出た。
いつものように図書室のドアを開け、小さなため息をついた。
もしかしたら――――そう思っている自分がいた。
今日も圭輔が図書室へ来てくれるかもしれない。
いつもの定位置に腰を下ろすと、鞄から本を出した。頭の中は上の空で、目は文字を追うことをやめていた。
物音に敏感になっているくせに、誰かが入ってきたと分かっても、視線を向けることはしなかった。用があれば来てくれるはずだ。圭輔であって欲しいという気
持ちとそんなはずはないという気持ちが胸の奥でせめぎあっている。
圭輔じゃないという気持ちが少しだけ強くて、実際に見てがっかりはしたくなかった。
一人入ってきて、一人出ていって。話声がするから、二人で入ってきたらしいと思ったら、話声は去っていって、静かなときが来たと思ったら、また人が入って
くる。
気にしてみると、人の出入りは結構頻繁なんだ、と思った。
横に人の気配を感じて、祐樹は顔を向けた。
期待は外れて、横にいるやつに笑いかけようとしたのに、顔が引きつるのが自分でも分かった。
「悪かったな。期待はずれで」
俊が目を細める。
心の中をそっくり読まれていると祐樹は思った。
「いや……」
見透かされてしまったことが恥ずかしくて、祐樹は視線を伏せた。心の中を全て読まれてしまうような気がした。諦めの悪い自分がそこにいる。
俊は祐樹の横をすり抜けて、隣に腰を下ろした。
「昨日、あれから、どうした?」
「別に……何も……」
キスされたなんてことは言えなかった。それも、ちょっと唇に触れたに過ぎない。祐樹にとっては思い出しただけで胸が痛いくらいに苦しくなのことなのに、圭
輔の態度は変わらなかった。
祐樹が顔を背けると、俊のまわした手に目の前を塞がれた。
「俊?」
体を捻って逃れようとすると、もう片方の腕で押さえ込まれてしまった。ここから見えない位置ではあっても、カウンターに人はいる。大声を出すわけにはいか
なかった。
「目を閉じてごらんよ。そうすれば、何も見えない」
「俊……いったい」
俊の目的がわからなかった。
「好きな人を思い浮かべてごらん」
俊が耳元で優しく囁く。
好きな人――――そう言われて祐樹の脳裏には圭輔の笑顔が浮かんだ。
最後に見たのは困惑を浮かべた顔だった。笑顔なんて久しく見ていない、なのに、笑顔は記憶の中にしっかり刻まれている。
「今、その人の腕の中にきみはいる」
俊が腕を回して抱き込んでくる。首筋に温かい息を感じた。ふっと触れた唇に祐樹の体はひくっと跳ねた。
「なっ……俊……」
思わず触れられた首筋に手を回した。ただ少し触れただけ、それも圭輔じゃないとはっきり分かっているのに、心臓はばくばく言っていた。
「だから、好きな人だと思ってろって言っただろ」
俊が囁く。
「……思えないよ……」
圭輔から避けられて、言葉を交わさなくなって久しい。脳裏に描いた笑顔は最後に見た困惑の表情に変わった。
「思えよ。そうしたら楽になれるから」
「楽に?」
「そう」
体に回していた手が落ちていき、下半身に触れた。
「俊っ――――」
目を覆っていた手が口に当てられた。突然開けた視界は、圭輔の残像を消した。
「しっ――――静かにして」
俊の手は、まだ下半身に触れていた。優しく撫でるようにされて体の奥が疼いた。
祐樹はおもいっきり頭を振った。
違う――――そう思った。たとえ楽になったとしても、それは一瞬のことだ。
「祐樹?」
俊の手が頭を押さえる。押さえられていた口が自由になった。
「違うよ……」
楽になれたらいいかもしれない。忘れられたらどんなにいいだろうと思う。好きだと思う気持ちは、自分の思い通りにはならなくて、胸を押しつぶそうとする。
それでも。
「俊は圭輔じゃない」
たとえ目は見えなくても、きっと頭のどこかで分かっている。
ふっと俊の腕が緩んだ。俊の腕に手をかけて祐樹が振り返ると、俊は呆れたような顔をしていた。
「あいつはノーマルだよ。答えてなんかくれないよ」
俊が目を細める。
「分かってるよ」
分かっている。向かいあってはっきり言われた。
それでも。
答えてくれないと分かっていても、好きなのは圭輔だ。
「強いな」
俊が小さく息を吐いた。
「そんなことないよ」
たった一言、声をかけることさえできない。
気持ちを行動で表すことなんてできなくて、諦めなきゃいけないと分かっていながら諦められなくて、ただ時が過ぎるのを、時が忘れさせてくれるのを待ってい
るだけだ。
「忘れたいと思わない?」
体に回されていた腕が解かれた。
――――忘れたい?
「分からない」
口からでたのは肯定する言葉ではなかった。
忘れてしまうのも嫌だと思う。好きでいながら穏やかな気持ちでいられればいい。けれど、好きだから穏やかではいられない。
「苦しくないの?」
「苦しいよ」
即答していた。
苦しくて、胸が痛くて、忘れたいのに、忘れたくなくて、胸の中は矛盾のオンパレードだ。
「でも、それでも、逃げないんだろ? なら、強いよ」
「俊は……」
振り返って俊を見ると、小さく笑った顔が悲しそうに見えた。
逃げたの? そう聞こうとしたけど、言葉はでなかった。
ドアの音が微かにしただけで、はっとしたように顔をあげがっかりした顔をして、たった一度だけ見た先輩と会ったときの俊の表情は別人だと思えるほどいつも
とは違っていた。
優等生然とした硬い雰囲気は欠片もない、柔らかな優しい笑顔はあの時以外見たことはない。どれだけ思っているのか聞かなくても感じる。
「優しい先輩がいたんだ」
俊が視線を伏せた。
「この間の人?」
「そうだね、先輩も優しいよ。始めて会ったとき僕は小学校六年生だった。中学受験でこの学校へ来て、校舎の中で迷って、その時優しくしてくれたのがあの人
だった。試験を受ける教室まで連れていってくれて、大丈夫だよ、絶対受かるよって頭を撫でてくれた。――――この人と同じ学校へ通いたいってその時すごに
思って合格したときはすごく嬉しかった。でも、僕が言っているのは違う先輩。去年卒業しちゃったけど、本当に可愛がってくれたんだ。本当に……」
伏せた俊の視線が過去を思い出すようにゆっくり動く。
「その先輩は? 」
優しくて、可愛がってくれた。そう言った言葉に俊の気持ちは見えなかった。
「卒業式以来会ってない。振られちゃったっていうのかな。もう代わりでいるのは疲れたって言われた。代わりでいいって言ったのは先輩だったのに……でも、
甘えすぎていたのかなとは思う」
視線は伏せたまま、俊は口元を緩めた。それも悲しそうに見えた。
何か言いたいと思うのに、祐樹は言葉が浮かばなかった。好きになりたいと思って好きになれたら楽だとは思う。けれど、そんなことはなくて、なぜ好きなのか
はっきりと
した理由も分からないのに、その人だからこそ惹かれてしまう何かがある。
優しい人ならたくさんいる。
けれど、ただ一人その人にしか感じない思いがある。それは自分だけじゃないんだと思った。
「思いを伝えたら拒絶されると分かっているから伝えることもできない。誰かに奪われてしまうのを見ているだけ。同じ土俵に立つこともできない。それが分
かっているのに、その思いも捨てられない。それが苦しくて、逃れたいって思うことを軽蔑する? 」
俊が目線を上げ顔を覗きこむようにする。
「そんなこと――――」
祐樹はかぶりを振った。苦しいのは分かる。圭輔には彼女がいない。誰のものでもない。だから、まだ、心の奥では期待をもっているのかもしれない。無理なの
に、そう思いながらも、きっとどこかで思っている。
「――――圭輔、脈あるんじゃないの? 」
俊が小さなため息とともに言った。
「そんなことないよ」
ふっと唇が触れた瞬間を思い出した。けれど、あの後何もない。避けられたそのままだった。
「はっきり自分に好意があるって分かっていても、会いに来たんだろ? 俺なんか指向がそうだと知られただけで、後必要最低限以上一言も口を聞いてくれない
よ」
「……そうなんだ」
俊に聞くまでは気がつかなかった。けれど、それは注意していれば分かった。
「まあ――――抱かれているところを見ちゃったのはショックだったかもしれないけど」
――――え?
一瞬、息が止まった。
「俺に対する態度は、その事に対する非難も含まれていると思うけどね」
何も言えずにいえると、俊は笑顔を返してくれた。
「自分の気持ちはともかく、そうなりたくないってこともあるのかもしれない。どうせ、言っちゃったんだろ? もっとアピールしてみれば? とことん嫌われ
たほうがすっきりするかもよ」
肩をぽんと叩く。
「そうかな……」
胸のうちでは迷っていた。
とことん嫌われたらすっきりする?
どちらにせよ、今より避けられることはないだろうと祐樹は思った。