シャッターチャンスv
教室の壁に貼られた一枚の写真の前で、祐樹の足がふと止まった。
高校へ入学して初めての文化祭だった。クラスでの係りが終わり、一緒に係りだった三浦と見て回ろうと教室を出た途端、三浦は担任に捕まってしまった。後か
ら追いかけるから、先に行っていてくれと言われ、順路通りにゆっくりと回っていたところだった。
きっと、三浦と一緒だったら、通り過ぎただろう写真部の展示室は、ちらっと覗くと人があまりいなかったから、祐樹は時間潰しのつもりで入った。写真に興味
があるわけじゃない。
海を写したその写真は、沖へ行くほど藍色をした海の色が薄くなり、太陽が白く光っていた。白く光る太陽は、光の欠片を海へ落とし、海はその欠片と戯れてキ
ラキラ光
る。砂浜へ打ち寄せる波も白く光る。見ていると、波の音まで聞こえるような気がした。
すっと引いた波が後ろから追いかけてきた波に飲み込まれて、抵抗するように白い波しぶきを上げる。また、すっと引いた波が……――――。
断片的な記憶しかない幼いころ、飽きもせずに海を眺めている自分がいた。傍らには、いつも優しい笑顔があった。
「気に入った?」
突然、後ろから掛けられた声に驚いて祐樹が振り向くと、同じクラスの沢田圭輔が祐樹を見て、軽く笑った。
「え?」
「それ、俺が撮ったんだ」
言いながら、写真の下を指差す。示されたところには、『一年 沢田圭輔』と名前が書いてあった。
――――え?
驚きを隠せず、祐樹は圭輔を見つめてしまった。
「なんだよ」
圭輔の顔からは笑顔が消えて、眉を寄せ怪訝な顔つきになる。
「……圭輔が写真部だったなんて、あんまり意外だったから」
秋が深まったこの時期でさえ、日焼けのあとが残っている。昼休みには、まっさきに校庭へ出ていってバスケットボールをやっているようなやつだった。てっき
り運動部だと思っていた。それ以前に、どこの部活に入っているかを知ろうとするような興味も無かった。
「掛け持ちだけどな」
なんだそうか、とひとつの疑問は晴れても、祐樹の中で圭輔と写真というのは、どうにも馴染まないような気がした。
話題が途切れて、一瞬気まずい空気が流れた。
「……この写真、きれいだね」
見とれていたのは事実だった。祐樹が写真の方へ視線を向けると、圭輔も追うように視線を向けた。
「そうだろ」
得意げに言って口元を緩める。その言葉は鼻に掛けているようには聞こえなかった。
「どこの海?」
「伊勢の白浜。夏に田舎へ行ったときの撮ったんだ。やっぱ、ここいらとは海の色が違うから」
「そうだね……海の青がすごくきれいだ」
祐樹の記憶にある海の色はもっと濁っていて、濡れた砂の色に近かった。
「暇だったら、他のやつも見る?」
圭輔が部屋の隅を指す。休憩のためか、机を椅子が無造作に置かれていた。
「あ、うん。でも、いいの?」
部員にはそれなりの仕事があるはずだ。
「ただここに居ればいいだけだからさ。実は、すっげえ 暇なんだ」
すごい、を圭輔はやけに強調した。
「じゃあ……見せて欲しいな」
ついたてがあるわけでもなく、教室を覗けばすぐに姿は見える。追ってくるはずの三浦にも分かるだろう。
圭輔に促されるまま、祐樹は部屋の隅へ行き手近にあった椅子に座った。圭輔は壁に立てかけてあった鞄からアルバムも数冊取り出して、机の上に乗せた。
「どれからでも、どうぞ」
手を広げて薦められ、祐樹は一番上のアルバムを手にとると広げた。そこには、壁に掛けられたものと同じ海の色をした写真が並んでいた。
「……きれいだね」
何も邪魔だと思うものがない。きれいな海と太陽の光と波の白が光っていた。
「海好き?」
「うん」
答えながらページをめくった。
人間は海から来たからものだから、海を見ると落ち着くという。けれど、それだけなのだろうか、と思った。海には懐かしい記憶もある。
突然、カシャっと小さな音がした。
祐樹が音のした方を向くと、圭輔が小さなデジカメを片手で持って笑っていた。スポーツマンタイプの圭輔は普段精悍そうに見える。その顔がくしゃっとくずれ
て柔らかい優しい笑顔になっていた。一瞬見とれていた。幼い頃傍にあった優しい笑顔と重なった。
「……今の音、それ?」
祐樹は圭輔が手に持ったデジカメを指差した。他に考えられなかった。
「ごめん、あんまりいい顔してたから、つい。嫌い? 写真とられるの」
「嫌い、とかは別にないけど……」
突然でびっくりして、どう答えてよいか分からなかった。ふいに写真をとられるなんて学校の遠足ぐらいだった。それも、カメラマンが取るぞとかまえているわ
けだから、ふいでもなかったりする。
「でも、どうするの? それ」
祐樹は不安を口にした。
どこかへ行った記念というわけでもなく、何か理由があるわけでもなく、突然撮られた写真はどうなるのだろう。
「ん――――、考えてない。なんか、職業病みたいなもん? いいなあって思うとシャッター切ってる」
祐樹は唖然とした。そういった感覚が自分にはない。
「一瞬で消えちゃうものも、取っておけるんだよ。すごいよな」
続けた圭輔の言葉に納得しながらも、何か割り切れないものがあった。
たぶん撮られたのは自分で、いいなあ、という圭輔の形容がそぐわない気がする。ぼんやりと写真を見ていただけだ。
「そんなに驚くことだったか? 悪かったな。撮られるのが嫌いなやつがいるのは知ってるんだけど……」
圭輔が気まずそうに視線を落とし、頭へ手をやる。
「そういうんじゃなくて、ただ驚いただけだから。写真なんてめったに撮らないし」
言い訳のように、言葉がでていた。
「そうか?」
疑うような視線を向けてくる。
「四月に身分証明書用の写真を撮ったのが最後かな」
カメラを最後に手にしたのはいつだったかは、思い出せない。それほど、自分の生活の中には無かった。
「……ああ、そっか、お前外進だっけ」
「うん」
この高校には付属の中学がある。中学からあがってきたものは内進と呼ばれ、高校から入学したものは外進と呼ばれた。クラスの中でも自然と内進と外進で分か
れている。名前も顔も知っていても、話をしたことがない。祐樹にとって圭輔はまさにそれだった。
「慣れた?」
「ん、ぼちぼちかな」
友達はできたし、別に困ることも無かった。
「なんだ、祐樹。こんなところに居たのか」
突然飛び込んできた声に顔を向けると、三浦がこちらへ歩いてくる。
「ん、ああ。写真見せてもらっていたんだ」
今開いていたアルバムを三浦へ見せた。
「お前、写真に興味あんの?」
三浦が訝しげな顔をする。
「別に、そういうわけでもないんだけど……きれいだったから」
暇つぶしに覗いたとは言えなかった。
「ふーん。じゃあ、もう見ただろ。次、行こうぜ」
三浦に腕を引っ張りあげられて、アルバムが祐樹の手から落ちた。まるでストップモーションのように見えたのに、体は動かなかった。ばさっと音をたてて、ア
ルバムは床に落ちた。
「あ、ごめん」
アルバムが落ちたことで驚いたのか、三浦の腕がすっと外れた。
床に落ちたアルバムを、屈んで拾うことはできた。外側を手で軽くはらって、机の上に置いた。
「ありがとう。楽しかった」
こんなとき、どういう言葉を言うのが良いのかは分からなかった。楽しい、とは少し違うような気がしたけれど、他に言葉を捜せなかった。
「いや、こっちも助かったから」
圭輔が口元を緩める。
「ほら、行くぜ」
三浦がまた、腕を掴んだ。
「ああ」そう三浦へ返事をし、「じゃあ、また」そう圭輔へ向かって祐樹は言った。
「ああ、またな」
圭輔の言葉に応えたように、三浦が腕を引く。そのまま、その教室を出た。
また、はないのかもしれない、そう祐樹は思った。
「あいつ、内進だろ」
三浦が耳打ちする。
「ああ、そうだよ」
同じ高校へ通いながら、その中で張り合うものがあった。何かにつけて、区別される。
――――もう少し見ていたかったな
心残りが少し、祐樹の胸の奥に残った。