「そんな顔するなよ。俺はしたくもない決心をやっとしたんだ」
雅也が手をはがそうとする。
「嫌だっ」
卓巳は頭を振った。
いつもそうだ。雅也は勝手に決めてしまう。
「タイムリミットだよ」
雅也が時計へ視線を向けた。時計の針は自分がいつも学校へ行く時間より少し先に進んでいた。
「え? こんな時間?」
いくら学校が近いとは言え雅也の方が始業時間は早かったはずだ。この時間まで雅也が家にいるなんていうのは有り得ない。
「あ、僕も学校……」
雅也から手を離し、卓巳もベッドから抜けようとした。確かに夏休みも終わりだと雅也は言っていたけれど、昨日の今日だとは思わなかった。
「お前は来週からだろ? あと、三日ある」
「三日?」
カレンダーを見て、卓巳は今日の日付を把握した。
「あ、待って雅也!」
ベッドから立ち上がった雅也を掴もうとした手は宙を切った。
「とにかく時間だから、あとは帰ってからにしよう。自由にしていい。もう食事を運んでくるやつはいないんだからな」
そう言うと、鞄を肩にかけて雅也は部屋を出て行った。階段を下りる足音がして、その後ドアが閉まる音がした。

「なんで?」
いつもそうだ。
お前が幸せになれないから―― そんな台詞を言うけれど、雅也は本当に分かっているのだろうかと思う。
この一ヶ月近くなんで我慢していたんだろうと思った。
結局、雅也は分かってくれなかった。


自由にしていいと言われたけれど、何もする気にはなれなくて、卓巳は雅也のベッドの上でごろごろしていた。昨日までは雅也がいて話をしたり、戯れたりして いた。
今は雅也がいないから、窓から見えるのは隣家の屋根と空だけで、卓巳は少しづつ変わる空の色を見ていた。
ふと気が付くと、階段を上がる足音が聞こえてきて、雅也が帰ってきたのかと思った。
けれど。
「卓巳?」
そう呼んで隣の部屋のドアをノックする音がする。声は母だった。
卓巳はベッドの下に手を伸ばし、Tシャツとハーフパンツを取ると身につけて、雅也の部屋から顔を出した。
「何?」
まさか、母が来るとは思っていなかった。
「あら」
母は驚いた顔をすると、
「お昼ご飯よ」
と言う。
「あ、うん、分かった」
卓巳は答えると、雅也の部屋を出てドアを閉めた。
そういえば、食事を運んでくるやつはいないんだと雅也に言われていたなと思い出した。
「すごく熱心だから雅也には言えないけど、あんまり根をつめない方がいいわよ」
母が困ったような顔をする。
「うん。大丈夫だよ」
卓巳は母に向かって笑った。
申し訳ないが、勉強はからきしやっていない。
TVの声は耳を素通りしていく。雅也がいない昼食は何か物足りなかった。

「まだかな?」
時計を見ても、壊れているんじゃないかと思うほど進まない。
「早く帰ってこいよ」
そう呟きながら、雅也も毎日そう思っていたのかな、と思った。待つ苛立ちは分かっていたはずなのに、自分の時には理由をつけてしまう。
「早く帰ってきてよ」
突然の宣言は、ぎりぎりの、許された時間は五分もあっただろうか。その時間を設定してきた雅也に思惑はあったのだろう。だけど、それで納得できるわけがな い。それですっ ぱり切れるなら、言いなりになんかなったりしない。
空の色は水色から紫になりオレンジ色になっても、雅也は帰ってこなかった。


ドアが開いて部屋に電気がついて、
「なんだ、卓巳、まだいたのか」
聞こえたのはそんな冷たい言葉だった。
「遅かったね」
もう夕食も済んだ。絶対学校から直接帰ってきた時間じゃない。
「ああ、漫画喫茶からカラオケ行って、結構面白かったよ」
雅也がネクタイを外しながら言う。
「待ってたのに……」
卓巳は背中が凍りそうだった。
後は帰ってからと言ったのは雅也だった。遊びに行くことを制限したいとは思わないけれど、待っていると分かっていたはずだ。それは、遊ぶことより次元が低 かったのかと思った。
でも――雅也から見ればそれは自分がしていたことかもしれなかった。
「結論はでてるだろ? お前だって、もうやめたかっただろ? うんざりって顔してたよ」
雅也の視線は自分には向けられていなかった。
「そんなことないよっ!」
卓巳は叫んでいた。

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